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組織からファンタジスタが消えゆく日 私の「仕事論」

 
 たまには、仕事のことについて、私が思うことを書いてみたいと思う。私はよくあるビジネス書やマネジメントの本などは一切読まないので、これから私が書くことは、私がこの二十数年社会人として経験してきた中で意識してきた自身の仕事論である。私のキャリア形成の中で、自らの内に作り上げた独断と偏見にまみれた仕事観なので、こんなのよくある仕事論だよだとか、少しでも不快に思ったり、共感できない部分があれば、この記事は読み飛ばしていただければと思う。

 私は現在、チームのマネージャーもやっているので、私自身の仕事のあり方をメンバーに押し付けたりはしない。強制もしない。ただ、共感してくれるメンバーとは、波長が合い、よりより仕事ができるというまでのことだ。私自身、仕事においては日々勉強のため、偉そうなことは決して言えないのだが、共感頂ける方がいればうれしい限りである。そのことを願って、少し記事にしてみる。

 私自身のキャリアの話をすると、新卒で公務員経験が3年。そのあと民間のイベント制作会社でのキャリアが6年。メディア事業でのキャリアが14年。マネージャーとしてはようやく8年。今は、会社の成長戦略としての新規事業の責任者をやらせてもらっている。

 起業経験などはないし、自分で会社を立ち上げたり、資本主義経済社会の中で成りあがってやろうという野心は1ミリもないので、今から書くことは一般の企業に雇ってもらうサラリーマンとしての仕事について、サラリーマンである「私個人」の考えである。

 私のキャリア観でいくと、大谷翔平がいうような、「成功よりも成長を求める」という考え方をとってきた。私は彼の言葉に激しく共感する。人は自身のキャリアの中でどうしても、すぐにポジションという成果や、年収、ステータスのようなものを求めがちだが、そういったものを一足飛びで手に入れることは、会社という組織の中ではなかなか難しい。

 これはイチローも言っていたことだが、「小さな積み重ねの中でしか、遠くへは行けない」のである。基本的にはこのスタンスで仕事や自身のキャリアに向き合ってきた。
 
 私は仕事においては、自分が与えられた役割、組織や上司に期待される役割以上のアウトプットを心掛ける。言われることをやるのではなく、言われる前に、組織や上司がのぞんでいる動き、アウトプットを先回りして行う。もちろん、このアウトプットは闇雲にというわけではなく、十分な経験を踏まえていること、期待に添うものであることが必要なのだが、人から命令されたり指示されたりして行う仕事を、私は極力やりたくない。受動的な仕事、業務は面白くないに決まっているからだ。

 そういった受動的なつまらない仕事から抜け出すにはどうすればよいかと考えた末に、「自らが仕事を作る」「上司がやろうとしている仕事を奪う(いい意味で)」という考えに至った。組織にはよく、指示待ちの人間、与えられたことや依頼されたことしか実行しない人間もいるが、私はそのような待ち仕事には面白みを感じない人間なので、どうすれば上司が楽になるかというのを考え、上司がやるべきことにまで踏み入って、そこをやってしまおうという考えで仕事をしてきた。もちろん、それは上司との信頼関係があってのことである。信頼関係がないままにそれをやっても、煙たがられるだけだし、いい迷惑であろう。

 こうすることで、私は何を狙っていたかというと、意思決定する判断を上司にゆだねるのではなく、自ら行うということを意図していたのである。どういうことか。意思決定は、通常、職位の上位者が行う。それが組織単位か事業単位か、会社単位かで、エスカレーションしていくのだが、現場のことはある程度現場で決めてしまう、それをいちいち上司のジャッジに委ねない、というやり方をとってきたのである。

 もちろん、独断で勝手にそれをしてしまえば、それは組織にとって害悪である。だが、上司が本来やるべき仕事と同等の仕事を自ら拾ってやっていると、じょじょに上司の意思決定のやり方、仕事の進め方を「模倣」することができるようになる。学習できるようになる。

 すると、現場で意思決定が必要になってくるさいに、「私はこう思うのでこうしていいですか?こうしますよ」という私の上司への提言と、上司の意見が一致をみるようになるのである。そしてこの一致にに大きな差異や衝突がない頃にはもう、上司の判断は不要になってくるのである。

 そうなった時こそが、私自身が、その上司相応の能力を身に付けたと会社に判断される時である。これはなにも、上司の役割を奪いたい、上司を蹴落としたいという意志が働いているのではない。自分の仕事は自分で決めたいというスタンスでやっているうちに思い至った結論である。

 だから、私のような人間がいる場合、その上司はうかうかしていられないだろう。自分のポジションを失いたくなければ、私に仕事を奪われたように、自分もまたその上の上司の仕事を奪えばよい。そしてその上司もまた上の仕事を奪えば、経営陣はどんどん楽になってくるはずである。その楽になった分、会社の新事業であるとか、新たな仕事を作るということに目を向けてもらえばよい。これが、私が会社という組織で働くさいの、個人としてのスタンスである。

 よく仕事というものは、オフェンスタイプの人間、ディフェンスタイプの人間、その中間のバランサー、ミッドフィルタータイプの人間といった感じでサッカーや集団スポーツのフォーメーションにたとえられることがある。

 私個人が心がけているのは、ある時はオフェンシブに、ある時はディフェンシブにという立場で物事を考えていく、ミッドフィルタータイプでありたいということである。

 同時に、さまざまな組織をつなぐハブであること。会社組織の中でハブになると、どういうことが起きるか。仕事やみなの意見、コミュニケーションがそのハブに集中するのである。そしてさまざまな組織の人間が、そのハブにいる人間を頼り、判断を委ねてくることが多くなる。

 そうなると、もうこちらのものである(笑)。ハブになった人間の周囲に仕事=ボールが集まるので、そのゲームをどう組み立てていくか、どうパスまわししていくかは、そのハブの人間次第になるので、指令塔になったような思いで仕事ができるのである。そこにはもはや仕事の受動性はない。仕事を自らの手で生み出していくという、能動性の快楽に浸れるのである。

 もちろん気をつけなけらばいけない。ボールが集中するということ、トランザクションが増加するということは、そのボールさばき、パス回しというテクニックを要する。このボールを一人で抱えてしまっては当然破綻する。これをいかに速やかにパス回ししていくことが肝要で、そのためには会社組織の機能や特性、組織メンバーの役割や性格なども熟知していなければならない。

 そのため、コミュニケーションは必須である。ただ、そのコミュニケーションは飲み会を開くとか、1on1をやるとか、そういった類のものではない。会議やチャットツールでのやりとりで、組織や個人を観察するのだ。チャットツールのやりとり一つで、その人が能動的か受動的かなどがわかる。

 組織間のハブであること、ミッドフィルダータイプであること。これが私個人が仕事に就くうえで自身に課してきたものであった。これは私自身が、イベント製作会社で、プロデュース業を担ってきたことによる経験も大きい。プロデューサーという役割は、組織やメンバーのことはもちろん、収支などの金回り、利益、原価、外部のパートナーとのコネクションといった、およそその案件に関わる、あらゆることに精通している必要があるからだ。精通していること=自分が行うではない。任せるものはすべて任せ、何かあった時の責任だけは自分がとるという心持ちで、その責任のもと意思決定、判断を行うということである。

 ここまでは、私自身が大切にしてきた仕事観である。だが、この私の仕事観をすべての人間に求めることは無理筋である。それはマネージャーをやってきた中で痛感していることだ。

 仕事の向き合い方、スタンスは十人十色なわけなので、自分の価値観を強制することはできない。ただ、一つ言えることは、上記のようなミッドフィルダータイプが一人でもいると、その組織は強い。あらゆる仕事がまわっていく。問題はそういったミッドフィルダータイプがいないときであるが、そこはマネージャーの力量が問われるところだろう。私のマネージャー経験においては、そこはまだまだ発展途上、勉強中、手探りなところではある。

 さらに理想なのは、そのミッドフィルダーが、決める時は決めにいく、閃きと直感力で突破しようというファンタジスタであることであろう。残念ながら、私はそのファンタジスタになるまでは至っていないのだが、今やっている新事業において、そのようなゴールを目指したいと考えている。

 だが、このファンタジスタ的な存在、かつてはどの会社に属していても、何人かは組織の中にいたものだが、最近は減ってきているような気がしてならない。これはどの組織にもあてはまるものかはわからないのだが、企業は合理性を求めるあまり、このファンタジスタの存在をあまりよく思っていないようだ。再現性がないということに尽きるのだと思う。

 ファンタジスタが決めるゴールは、それはものすごく魅力的な大金、大きな案件を手に入れてくるのだが、個人の能力に依存するゆえ、経営者にとってはリスクでもありえる。そのため、いつでも再現可能な均質的な能力、均質的なオペレーション、誰が売っても売れる商品スペック、ということが重視されがちなのだが、そのようなものを求めれば求めるほど、組織は縦割りになり、ボールが来るまで動かない人間ばかりとなってしまい、ガチガチの組織となってしまう。

 そのような合理性のみを究めた組織は、私の経験則からいくと、世界情勢の変化や、マーケティングの劇的な変化、コロナなどといった不測の事態に立ち行かなくなってしまうのではないだろうか。

 だが、合理性と均質性を追求した組織のあり方もわかる。再現性のないビジネスはほとんど賭けのようなものになってしまうため、成長を描くことができない。経営者はとうぜん敬遠するだろう。だが、誰もやってこなかったような案件を引っ張ってくるファンタジスタなしに、その組織の新領域、新事業のためのフィールドが切り開かれることはないだろう。そのような未開の案件が、やがて定着し新領域になったりするものだ。ファンタジスタの役割は、「突破」である。そこにあるのはエビデンスに裏付けられた行動ではない。経験と野性的なまでの直感である。

 願わくば、企業には、常識にはまらない、時にやらかしてしまったりする、けどやるときはやる、決めるときはどこからでも誰もが唸るようなゴールを決める、このファンタジスタを飼い慣らしてほしいものだ。


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