『悪は存在しない』あるいは主観的視線、感情移入の解体について
あらすじ・登場人物
『ドライブ・マイ・カー』、『寝ても覚めても』でも話題の映画作家、濱口竜介監督の最新作、『悪は存在しない』を見てきた。この映画を見たことによる衝撃を、なんとしてでも言語化したいと思い至り、私が考えたことを、雑感のような形でまとめたいと思う。
正直、まだうまくまとまっていない。映画を見終えた後同様に、私はいまだに宙に放り出されたような感覚の中にあり、この映画がわれわれに突き付けた問いが何であるのか、わかっていないのだが、手探りながらも、この映画が一体何を描こうとしていたのかについて、多少なりともの道筋を示したいと思う。
なお、本記事は大いにネタバレ含むので、これから本映画を見ようとしている方は、この先は読まず、先に映画を見てから、できればまたこちらの記事に戻ってきて頂きたい(笑)。
あらすじ、および、登場人物の相関図は以下に示しておく。
さらに詳細をということであれば、こちらの記事が詳しい。
『悪は存在しない』問いのカラクリ
『悪は存在しない』には、確かに、われわれが通常の意味で使う「悪」というものは存在しない、ように思える。
のっけから物語の核心に触れてしまうと、中心人物である親子――父=巧と、娘=花がいて、花の「死」と、巧による「殺し」が、最後の最後に出てくるのだが、観客は、その行為が、巧の「殺意」であるのか、「悪」であるのかどうかを、問うことができない、判断できない、という仕掛けになっている。
私はここで、いきなり「死」「殺し」という前提で、説明を開始してしまっているが、じつは、この「死」と「殺し」も、決して断言できるものではない、ということについては後述していく。
『悪は存在しない』?
この禅問答のようなタイトルが、まずそのような効果を作り、さらに、作中に描かれる、「自然」ー「町の住人」ー「企業(資本)」という関係性。この関係性の構図が、「悪」はどこにあるのだろうか、という問いを不可避的に見ている者にもたらすのである。
「自然」と、その自然に囲まれた地に戦後移住してきて、今ではその地で慎ましく暮らす「町の住人」と、突如その町に、政府の補助金目的で、グランピング計画を持ち込んできたある芸能事務所、「企業」側の思惑。
グランピング計画者(芸能事務所)は、住民を説得するために説明会を行うのだが、納得しない住民と、補助金のためになんとか着工しないといけない計画者側とでの押し問答があり、その対立の構図が、きわめてシンプルな形で描かれる。
さらに、「水は低いところへ流れる」という区長の台詞。
「上の者がやったことは下の者に降りかかる。上の者にはそれなりの振る舞いが求められる」
これを、先ほどの関係性にあてはめると、われわれはすぐにこう読み解こうとするだろう。
・上流=「企業(資本)」
・中流=「町の住人」
・下流=「自然」
「上流」の行いがなんであるかを作品を通じて知ってしまっているわれわれは、町のバランサー(中流)でもある主人公の巧が、上流側の人間である高橋という男を、殺傷したとしても、果たして、巧の行為自体を悪と呼んでよいものかと、思考停止に陥ってしまうのである。
「悪」の根源は、もっと別のところにあるのではないか? そうか、その原因は、「上流」にあるのではないか、となるのである。
しかし、計画者側である高橋という男もまた、一人のしがないサラリーマンであることがわかり、巧に接近した際、初めて体験した薪割りによって、田舎の暮らしに感化されていくことで、次第に、住民側の方になびいていくのである。
自然がある生活に思いを馳せ、田舎暮らしが俺にはあっているかもしれない、とまで言っていた高橋。そんな高橋は、上流側の人間だったとはいえ、「悪」と決めつけてよいのか。「上流」の言われるがままに、従っていただけではないのか。そんな高橋が、巧に殺されてしかるべき存在だったのか、というと、感情的にはそうはならない。
この高橋が、悪の根源のいわば代表・象徴として、巧に封じられた、犠牲になったのだ、という読みもできなくはないが、ことはそんなに単純ではない気がしてしまう。
では、上流の本体、企業側(資本)にそれはあるのだろうか。芸能事務所だ。しかし、この芸能事務所=企業側もまた、コロナによって経営が傾きかけ、国の補助金制度にすがってグランピング計画に手を出しただけであり、そこに悪意という悪意があるのかというと、どうもそうではなさそうだ。たんに経営難を逃れるため、自分たちが生きていくために、という思いがある。
芸能事務所の社長およびコンサル担当者は、部下の高橋らだけに、町の視察や住民との交渉を任せ、住民がどのような気持でいるか、まるで想像しようとしない。いや、できないのだという方が正しい。彼らにとって、中流、ましてや下流は遠く、隔たった場所にあるのだから。
このあたり、「自然」ー「住人」ー「企業(資本)」の関係性から、自然の論理と人間の論理を対立させて、資本が入ってくること自体が、自然の存在を脅かし、生態系を破壊するのであり、いわば無意識の「悪」をもたらしている、という指摘もできなくはない。
実際に高橋は、住民たちの説得のために、これが観光ビジネスになり、みなさんの生活を豊かにするのであり、われわれは「最善」を尽くしますというようなことを言っている。彼らからすれば「善」として行っているものが、関係性の中において、無意識の悪となっている、というメッセージを読み取ることもできる。
この映画の物語を、そのような「構造」のみで追いかけると、そういう解釈になってしまうのであろう。確かに、グランピング計画という資本が入ってきたことで、自然と町の住人による生存の調和、バランスを崩してしまうという話なのかと思ってしまう。
だが、ここは留意が必要だ。映画作品の中で、グランピング計画は確かに住民に突き付けられるのだが、「計画されている」というだけであり、まだ着工はしておらず、直接的な影響はまだないのである。
したがって、上記のように自然と資本の関係性が、自然の生態系や調和を破壊するものである、ということをこの作品から直ちに読み取るには、「きっとそうなる」ということを恐れる住人たちの不安同様に、性急過ぎるというべきであろう。
「悪」はどこにある?
では、一体「悪」はどこにあるのだろうか。どこへ行ってしまったのだろうか。「悪」が不問にされるのである。
まさしく、問いの宙吊りであり、鑑賞後の感覚は、天と地がひっくり返ったようなふわふわとした感覚。まるで、『北斗の拳』に出てくるカイオウの奥義、「暗琉天破」でもくらってしまったかのように、身動きがとれなくなってしまうのである。
『悪は存在しない』
もう一度タイトルに立ち返る。まずは、字義通り受け止めてみるべきか。
ところで、「悪」という概念については、十七世紀の哲学者スピノザが、こう定義している。
「善」や「悪」というものは、普遍的な概念、真理のようなものとしてあるわけではなく、人間の衝動と感情において、喜びをもたらすものが善、悲しみをもたらすものが悪、と呼ばれているにすぎない、というスピノザによる有名なテーゼがある。
このテーゼに従い、『悪は存在しない』を読み解くことももちろん可能であろう。あるいは、ニーチェにならって、この映画が描こうとしていたのは「善悪の彼岸」である、という指摘も可能だ。
自然には、人間が言う意味での「悪」というものはない。ただ、生きようとするための行いがあり、自分を護るためなら、外部者への攻撃は、本能的なものとして行う。弱肉強食という自然の摂理があるのみで、そこに善悪はない。
だから、狩猟で追い込まれた手負いの鹿が、防衛本能によって、たまたま近づいてきた花に攻撃をし、殺めたのだとしても、われわれは鹿に対して、殺意があったのか、罪の意識はあるのか、と問うことはできない。それは、自然の中で起きたことだから、仕方がない、となる。
それらは、人間自身の外部、「想像外」にあるのである。では、これが、通り魔による殺人だったらどうかというと、われわれはただちに、その通り魔に殺意があったことを認め、責任と罪を問うことであろう。
善悪の意識の発生は、人間側の言語化できる領域、感情の領域の問題である、ということがわかる。
この論理でいくと、主人公、巧の殺傷行為もまた、自然の行為=突発的な行為なのではないか、と読み解くことが可能になる。作中、問いの宙吊りが起きてしまうのは、まさにこの巧の行為をめぐってである。
後述するが、巧と花には、ある「不在」による「心の傷」がある、とされる。つまり、手負いの鹿同様に、追い詰められている側の人間たちと解釈することで、手負いとなった鹿の親子は、巧と花のメタファーなのだと捉えることができるのだ。
すると、巧と花は、自然=鹿の論理側の、いわば<非>人間であり、だから、自然側にいる巧に「悪」は問えないのだ、という解釈も可能となる。
自然の論理の中には、人間の言う悪は存在しない。巧はその自然側の住人で、人間が、企業が、調和を破壊することが許せなかった。だから、鹿を追い詰め銃を放つ人間と、町の住人に迫りくる企業の人間を重ね、高橋を殺すことで復讐を果たした。あるいは鹿を追い詰めたことにより、花が死んでしまったという、負の因果の「根源」を抹殺したのだ・・・と。
確かにそうである。構図だけ追いかけるとそうなる。だが、それだけでいいのだろうか。それだけだとすると、あまりにも、「そのまま」すぎるのではないだろうか。
自然の論理と人間の論理の二項対立。これについては、宮崎駿が『もののけ姫』で十分に表現したであろうに、濱口竜介監督は、本当にそれがやりたかったのだろうか。『もののけ姫』の実写版的なものをやりたかったのだろうか。
モノ=関係性としての世界
今一度、主人公、巧がどういう人間であるのかについて、映画の世界観をなぞりながら、触れておきたい。
最初に描かれている世界。山奥の小さな集落・水挽町(みずびきちょう)は、モノ(=関係性)だけがあるといってよい世界である。
川があり、その水の恵みにより、山には無数の植物が生い茂る。鳥が、鹿が、自分たちの生とは、最初からそうであり、これからもずっとそうあり続けるというように、ある。
人間もまた、モノとして暮らし、自然が作り出す環境に順応する。町名にあるように、山からの水が綺麗で、うどん屋を営む巧の友人夫婦も、この天然水を使用している。
住人にとっては、この「水」が町の誇りのようだ。
かといって、彼らは自然が供給してくれるものに過剰には頼らず、必要な分を必要なだけ、気持ち拝借させてもらいますよ、という感じで、寄り添うように生活している。
よくある、自然賛美ではない。自然に還れという、原始的な暮らしをしているというわけではない。自然の中での生活を堪能したり、夢を見ているというわけでもない。
自然と人間の暮らしは、分け隔てられている。人が移動するための舗道も整備されていれば、自動車もある。飲食店もあれば、学童もある。現代的な家もある。チェーンソーもあれば、スマフォもある。煙草も吸う。人間の文化は、はっきりとある。
住人のほとんどが移住者ということもあり、彼らには、ここで生活するほかない、というリアリティがあるのだ。
巧は、住民説明会の際に、グランピングを計画している高橋たちにこう言う。住人は、自分たちもまた、移住者=「よそ者」であることを自覚している。
町の住人は、巧も花も含め、きわめて感情が希薄である。巧も花も、妻=母という家族を失っているはずなのだが、そのことに対して、感情を表に出したり、妻=母のことについて言及することさえない。
観客は、巧の妻=花の母は亡くなっているのだろうということを、部屋に飾られた三人の家族写真と、実際に、妻=母が不在、ということにより推測するのみである。
住民らの交流自体も、一見、上っ面だけのものに見えてしまう。彼らは、そこに住む者として、最低限の言葉のやり取りしかしていないように見える。
感情がない。感情の描写がないという点で、モノだけの世界を描こうという、監督の意図が読み取れる。巧は自動機械(オートマトン)のように、チェーンソーで木を切断し、斧で薪割りをする。淡々と作業を繰り返す。うどん屋を営む友人夫婦のために川で水汲みも淡々と行う。
だが、ロボットのごとく正確に、技巧なまでに仕事をこなす巧だが、学童に預けている娘のお迎えだけは、いつもうっかり忘れてしまうのである。
ここだけ、ネジが一つはずれてしまっているという感じだ。しかし、その小さなネジの欠損が、やがて、大きな事故を引き起こしてしまう、ということについては後述しよう。
さて、そんなモノだけの世界において、「感情」を持つ人間がいる。
一人は、金髪の青年・坂本。何をやっている人間なのかはよくわからない。ただし、巧とは交流があり、巧の家で開かれる食事会に顔を出している。そんな金髪の青年・坂本は、グランピングの住民説明会の時に、グランピングを計画している芸能事務所の、高橋に対して、敵意剥き出しの口撃を行う。今にも殴りかかりそうな坂本を、巧がなだめる。
もう一人は、計画者側の高橋である。高橋は、芸能事務所の社長の指示によりこの仕事を行っているが、いやいややっているのであろう。芸能事務所にいることの限界も感じており、もう辞めたい、足を洗いたいと同僚の薫に漏らすなど、どこか苛立っている。
感情が入り込むとどうなるか
その感情ある人間、高橋が巧に接近した時、先にも書いたように高橋は自然での生活に感化されそうになっていく。まるで都会生活、サラリーマン生活で心に負っている病を、自然の中で治癒されたい、とでもいうかのように、自然の生活や、巧という人間に惹かれていくのだ。
巧は、そんな高橋に、少々気持ちを傾けてしまうのかもしれない。巧が、高橋と薫を車で送る際に、車中でこんなやり取りがなされる。
巧は髙橋と黛に、グランピング場建設予定地は、鹿の通り道だ、と語る。鹿が人間を見ればすぐに逃げ出すのなら、鹿はその道を通らなくなるかもしれないと髙橋は言い、巧が、じゃあ、鹿はどこに行くのかと尋ねる。
髙橋は「どこか別のところへ」と答える。
巧は、その言葉を反芻するように、煙草を吸い始める。
この「別のところへ」という言葉が伏線となり、上述したような、手負いの鹿の親子が、巧と花のメタファーなのではないかという読み取りが可能となってしまう。実際に、ネット上でそのような感想、解釈も目にしてきた。
巧も花も、妻=母を失い、手負いである。心が癒されていない。そう見る者に感情移入をもたらす。「別のところへ」とは、巧にとって、何やら意味深げである、といったように。
だが、巧は少しでも、妻のことを語っていただろうか? 感傷的になり、涙を見せたりしたことがあっただろうか? 同様に、花も、母について、寂しさや、母不在による喪失感を、口にしていただろうか?
おそらくなかったと思う。見る者が「感情移入」し、巧や花の表情を勘繰り、物語としてこうあるべきだという憶測により、勝手に「解釈」してはいないだろうか?
そこは、映画を見ることの「想像力」の問題だ、と反論があるかもしれない。だが、その「想像力」とは、いったい、何だろうか。
巧と花は、このような感情に違いない、という自身の「思い込み」「自己投影」になってはいないだろうか?
私は、この「感情移入」も、濱口竜介監督の、「仕掛け」なのではないかと思っている。その仕掛けに、はまってはいけない。一度立ち止まる必要があると思っている。
そうこうしているうちに、物語は急な展開を見せ始める。花の迎えを忘れていた巧は、高橋、薫を乗せたまま、学童に寄るのだが、いつものように花は一人で帰宅したのだという。いつもの花の帰り道、山の中を辿っていく道を、巧は知っている。だから、今度は歩きで、いつもの山道を辿るのだが、いつも姿を現すはずの花は、いない。
そこから、探しても探しても、花がいないとなり、ついには、町の住人あげての捜索が開始される。外は、もう日も落ち、闇夜となる。住人が懐中電灯を持ち、探索にあたるのだが、花は見つからない。
薫は、山中で傷を負う。それで、一人、巧の家に残り、巧と高橋が二人で捜索を再開する。
ここからである。花を探していた巧と高橋が、山道を抜け、ある場所に辿り着く。すると、先ほどまで、光すらない闇夜の山の風景から、突然、明転し、うっすらと青白い、光に包まれた世界に突入するのである。
まさに、「暗琉天破」である(笑)
そして、その光を辿って行った先に、花と、二匹の親子の鹿が、向き合っているというシーンに入る。花は、鹿と対峙し、何やら言葉を交わしそうな勢いである。その光景は、あまりにも「神秘的」「神聖的」に描かれ過ぎている。
その花と鹿の光景を見て、高橋が近づこうとする。すると、巧が突然、背後から高橋に飛びかかり、チョークスリーパーを行うのである。力を一切緩めることなく、明らかに息の根を止めようというように。
これが、あまりにも唐突すぎるラストシーンの開始である。高橋は、巧によって締め落とされる。泡を吹いている。もしかしたら、もう死んでいるかもしれない、というくらいに白目をむいて倒れる。
巧が、花に近づく。すると、先ほど神聖なまでに描かれていた花の姿はなく、花は鼻から真っ赤な血を出して倒れているのである。手負いの鹿に、やられたのだということがわかる。
巧は、(おそらく)死んでしまった花を抱え、森の奥へと消えていく。一方、締め落とされた高橋が、突然起き上がる。巧を追いかけようとするのだが、力尽きる。
明転していた世界から、また、闇夜の世界へと戻っていく。映し出されるのは、闇夜の中にうっすらと浮かび上がる、無数の木の枝。そして、聴こえてくるのは、巧の荒々しい息遣い。
ここで映画は終わる。
巧が封じ込めたもの
このシーンが、さまざまな解釈を呼び起こしているようだ。すでに優れた考察がnoteでいくつも出ているので、私はちょっと違う視点を投げかけてみたい。
それは、巧が高橋を殺した、あるいは殺そうとしたことのシーンについての解釈である。
巧は、高橋をなぜ殺そうとしたのか。そこに悪はあったのか、殺意はあったのか、ということの問いは、もはや不問でよい。
巧がここで封じたのは、高橋という「上流」側の、悪の根源を絶やすことであったり、自分たちと自然とのバランスを崩壊させようとした小さな「原因」を抹消したかった、というわけでは、ない。
物語の表面上をなぞると、上記のような解釈は可能だが、この「物語」自体も、濱口竜介監督においては、ある「仕掛け」のための一要素でしかないのだ。
実際に、ひとりの人間を封じ込めたところで、世界の関係性は、微動だにしないであろう。自然側の論理による、人間側の論理への制裁、あるいはむき出しの自然的な暴力性、潜在的な狂気、それが、濱口竜介監督が描きたかったことなのだとは、私には思えなかった。
(もちろん、解釈はいろいろあってよい)
巧は、高橋によって感化されかけていた、自然への「自己投影」、「神聖化」を、自らに禁じたのだ。
突然、明転した世界、がそれである。巧も高橋も、すでに自然なるものと自己を重ね合わせるというナルシシズムの病の中に入ろうとしていた。
ナルシシズムとは、定義的には自己愛のことではあるが、映画批評的な文脈でいくと、他者が入り込む余地のないまでに「主観的な感情に閉じられた世界」と、言うことができる。
この「主観的な感情に閉じられた世界」は、虚無であるとか死とかの衝動に結び付きやすい危険性を持っている。それは、自然なるものへの手放しの美化、神聖化であり、これまで文学や映画の批評史においても、分析の対象となってきたものである。
高橋はそのような自然への手放しの自己投影、没入することで、現実から逃避していようとしていたのだし、巧もまた、自分たち親子と、手負いの鹿を重ね合わせることで「別のところ」=すなわち死の世界へ逃げこうもうということが、少しでもよぎってしまったのかもしれない。
それゆえ、二人が、突入した世界は、「明転」していたのである。
この場面が、「自己投影」という主観のみの世界を表現しているのだという論拠は他にもある。花がいた場所は、鹿の水飲み場、小さな泉のような場所なのだが、その水飲み場が、まるで円形の鏡のように美しく描かれているのである。この泉は、まさしく自己を投影する鏡として機能しているのではあるまいか。
鏡は自己を映し出すが、その世界は「反転」しているのである。
しかし、巧は、高橋を封じ込めることによって、そこから逃れた。娘の「リアル」な<状態>に向き合ったのである。そこからまた、闇夜の世界へと戻っていくのだが、巧が娘を抱えて、その後どうなったかはわからない。
私はそこで、巧が自死をし、娘と心中しようとしたという解釈は取らない。もし、そうであるならば、明転したままの白い、神秘化された世界のままでよいのだから。
娘も、実際に死んだかどうかということについても、じつはこの映画は語っていない。もしこれを、花の死と受け止めるのであれば、われわれはまさに、濱口竜介監督の仕掛け、術中にはまっているのである。高橋が巧みによって殺されたかどうかについても、同様である。
実際に、私も、ある方の考察を読むまでは、そう思ってしまっていた。
そして、この巧による高橋の封じ込めという行為は、同時に、われわれ見ている者の視線=単純な感情移入の禁止をも意味するのである。
この「見る」側に立っている人間の、感情移入、自己解釈こそが、作品を受け止める中で、各々の「物語」を立ち上げ、善と悪の価値判断、評価を行うことになるのであり、ここまできてようやくわれわれは、濱口竜介の「仕掛け」がなんであったのかに気づくのである。
先に、上流ー中流ー下流の関係性を示したが、何が善で何が悪であるかという問題は、どの立場で物事を見て、どの立場で考えるか、その主体の意識=感情によって、いくらでも変わってしまう。
世界という関係性を、俯瞰的に見てしまう時、われわれはおのずと超越的な視点により、物事を見て解釈してしまう。ここに認識=知の限界があるということは、多くの識者が指し示すことであるが、まさにこの超越的、主観的な視点を、この映画は、最終的に禁ずるのである。
超越的主観(=視線)の解体
鹿の親子を、巧と花のメタファーとして見ることも、上流の人間が自然破壊をしている、あるいは下流の人間はそれにより苦しみを受けている、自然が人間によって生態系を破壊されているという見方も、超越的な視点、「構図を知ってしまっている」人間側の、一解釈として存在してしまうのである。
濱口竜介監督は、この作品を通して、高橋や巧のナルシシズム(自己投影)的な視点=主観のみに閉ざされた視点、を解体しようとした。
それと同時に、映画作品が絶対に解体できないであろう主体の視点、すなわち、観客=見るものの視点にも、感情移入の禁止も、試みるのである。
映画を見るものは、繰り返すが、超越的かつ主観的な視点にならざるをえない。濱口監督は、なるべくそれを避けるために、他にもさまざまな仕掛けをこの映画にほどこしている。
そもそものタイトルからして、そのような問いの宙吊りを行っていること、巧という人物が、モノだけの世界を生きているという描写、演出のほかに、カメラワークも挙げられるであろう。
最近の流行であるドローン技術による上空からの撮影=超越的な視点は、まずない。あるのは、下から森の木々を見上げた、印象的なカットである。下から頭上を見上げ、幾何学模様のように広がる木の枝と空を映し、それがずっと、エンドロールのように映し出される。
あるいは、巧が車に乗って、自動車を動かすのだが、ふつうは、ドライバーの視点、前方の流れゆく風景をとるものだが、社内の後部座席から振り返った時に見える風景、「自動車の視点」のようなカメラワークがあったりと、視点が、まるで定まっていないのである。これは誰の視点だ? となるのだが、カメラワーク=登場人物の主観という思い込みをここでも、封じている。
このことからも、観客の視点とカメラワークによる視点の「一致」というものを禁じていることがわかり、カメラワークの視点が、そのまま見るものの主観の視線、一つだけの解釈を解体しようとしているのだと、私には思える。
ある一つの問題を見るということは、この視線、視点に関わるものである。なおかつスピノザが言うように、そこで善悪やなんらかの価値判断、評価がなされるのは、「その感情についてわれわれが自覚しているときにかぎる」のである。
映画は、「見る」という行為を通して、自身の感情を自覚する装置であるともいえる。感情移入がまさにそれであり、そのことによって、善悪あるいは何らかの価値判断(感動した、元気が出た、勇気をもらった、せつない、全世界が涙した・・など)を、われわれは映画から読み取るのだが、それらは、視点の問題、あるいは、見るということを通じて立ち現れてくる「解釈」=「意味」の問題であるということがわかる。
ここにきて、感情豊かなもう一人の人物、金髪の青年・坂本の役割がはっきりとする。彼は、説明会の時に企業に、言葉で反発し、反抗し、花が行方不明の時も誰よりも叫び、不安げな感情で、必死に探し回っていた。彼の感情は、そのまま、観客の感情を代行していたのだ。
それ以外の住人は、感情を現さない。落とし物を探すように、淡々と花の行方を探すのだが、同じ場所を全員で探していて、どこか形式的だ。
この対比からも、濱口竜介監督の狙いは、明確である。
しかし、これはなにも、映画という装置がそうさせるだけではない。
われわれは同じようなフィルターで、社会における「問題」「関係性」を主観的な視点のみで見てはいまいか?
テレビ、ネット、SNS。メディアを通して見る世界というのは、常に映画が持つ主観の問題と、同じような問題をはらむ。
この作品が問いかける普遍的な問いがあるとすれば、まさにそこではないだろうか。
われわれはまず、この感情とか、自己の価値観とかとは別の何かで、世界を認識し、語らなければならないのだ、と。
だが、それでもやはり、主体や視点という問題は、常に同じ場所に立ち戻ってしまうことであろう。その反復だとしても、われわれは繰り返し、主観=視点の解体を目指さなければならない。
映画以前は、その問いは不問であった。だが、映画=主観という装置が生まれた瞬間に、善悪は問われてしまうのである。もはや、「映画以前」に戻ることはできない。できないがしかし、映画≒主観を示していかねばならないのである。
したがって、『悪は存在しない』というのは、こういうべきなのかもしれない。
「悪は存在しない。映画を見るまでは」
<追記>
濱口竜介監督は、『BRUTUS』のインタビューでラストシーンについてこう語っていた。
「個人の中に潜んでいる暴力性の噴出」
これは、巧が後ろから、高橋を絞め落とした突発的な行為、衝動を指していると思われる。
ここまで書いてきて、私は、監督がこのような形で「暴力性」の問題を取り上げていることを、言葉の通りに受け止めるならば、違う解釈も必要かもしれないとも思った。しかし、再考する余力がないので、メモ書き程度に以下を残しておく。
巧のこの突発的な「暴力」とは、「悪」としての高橋を排除するための暴力でもなく、自己の中にあった自然的な凶暴性、というようなものでもなく、ジョルジュ・バタイユがいうところの、「存在そのものの暴力」(横田祐美子氏)ではないか。
「存在そのものの暴力性」を説明するには、バタイユをもっと読み込まないといけないのだが、悪は存在しない、モノだけの世界における実存の回復を、巧が目指し、己のナルシシズム(娘の死の神聖化、自然への自己投射)の否定=自己破壊、主体の解体を目指していたのだとすれば、濱口竜介監督はもしかしたら、バタイユをやりたかったのかもしれない。そうか、バタイユを召喚しないとだな、と、ふと思ったのである。
それについては、機会を改めて検討してみたい。
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