不登校への教員としてのコミット

 正直不登校が以前ほど珍しくなくなったこと、そして不登校が教員の責任であるという認識が薄くなった現在では教員としての不登校へのコミットを考える意味が消失してきているように思う。

 しかし、働き方改革の考え方には若干の賛同はあれど、積極的に働き方改革を口にする人間が嫌いなタチの人間としてはいじめや不登校に教員個人として正対してコミットしていくことにいささかの迷いもないわけです。

 良かれ悪しかれ、そして理由がなんであれ、不登校の子どもを学校に来ないからラッキーぐらいの考え方でクラスルームの勘定(感情)から外していくことにはいささかも賛同の意を表すことはできません。

 今や昭和の匂いしかしない「中学生日記」で家に引きこもってしまった生徒の部屋に上がり込み「お母さん、足持ってください」と言って学校に行きたくない子どもを布団ごと外へ連れ出していくという熱血教師の衝撃的な映像は私にとってある種のトラウマであり、そして今教員を続ける原動力でもあるわけです。

 しかしながら、すでに文科省が不登校を学びの一選択肢としてきちんと認定している以上、もはや一教員ごときに足掻く手段はそれほど多く残されていません。それこそ定額働かせ放題を潜在的に強いておきながら、公式にはそうした指摘に対して遺憾の意を示すというご都合主義を平然とパブリックに行う厚顔無恥な組織に正対すること自体がその組織の思う壺であることは重々承知していながらでもです。それでもやはり「子どものため」というマジックタームに逆らえないのが教員という生き物の悲しい性です。
 ますます文科省の思うツボ何ですがね。
 まさかこうした考えに対する厭いや労いがあろうはずがありません。
 というかこれと真逆の考え方や発言をする人間の集まりが学校管理職であり、教育委員会を組織する人間であるからです。形だけの感情のこもらない情報共有という名の無駄話に終始し、一切の実効性のない政策と何か起こった時のための言い訳のための制度設計をするのが彼ら、彼女らの仕事だからです。何かあった時のためにその波に洗い流されるくらいの脆弱なシステムを作っておけばやっている言い訳として成り立ち、そして跡形もなく無かったこととして人々の記憶から消し去ることができる便利さを持ち合わせていることを熟知しています。これらは無駄以前に存在自体が害悪でしかありません。多分今朝から教育委員会と学校管理職を廃止しても学校運営には何の支障も来さない。そういうもんです。それぐらい無駄な人員を抱えた組織です。教育改革家の藤原さんはこれを幾分か教員に転用した方が良いと言いましたが、それは半分あっていて半分間違っています。全員転用しても何の不具合も起こりません。しかしこれが教育現場に流れ込めば現場は質が著しく低下する上に意味のわからないロジックで組織を掻き回す教員の増大に悩まされることになります。何度も言いますが学校管理職や指導主事というのは授業や学級経営に難のある人間だから選好されてそのポジションについているわけです。
 そうした人間は子どもを己の感情のうちに入れて教育に臨むはずがありません。いかに教科に関する知見が深くとも今の学校現場が抱える問題にコミットできるはずがありません。さらに学力以上に重要な人間的能力の開発ということに考えが至ろうはずがありません。

 不登校の子どもに対しての眼差しというのは、かくも今の教育委員会の人間からも働き改革からも見放されたモノであるということになります。
 しかも今の不登校対策というのは非常に福祉的な視点によって覆い尽くされている傾向が顕著です。

 いささかも学級経営に関わった者として、学校に来ること自体が唯一無二の善であるいうつもりは毛頭ありません。
 それでも私は不登校へのまなざしを個人的な足掻きであっても教育の方に取り戻していきたいと考えるわけです。
 保健室登校や校長室登校というような個人の思い込みのイロがついた勝手を許す文化的な背景を抱えたまま学校にいい方向性を持った伝統など生まれようもないということです。
 不登校へのまなざしというのは、そうしたごまかしでなんとか逃げ切る人間を再生産することではありません。そのごまかしを受け入れるほど日本人は優しくありません。基本村八分体質で生活保護などの社会保障にも非常に偏狭な態度を隠さない人間の集団であることを、そうした社会であることを前提におくべきです。教育においての、そこからの擬似的な逃亡はその人間に明るい未来を提示することはありません。学校と不登校のお互いにとって今を凌いで苦を後回しにすることでのwin-win関係らしきものを築いていることに他ならないからです。

 今、苦を負うことはお互いにとって楽しいことではありません。しかし教育というこの時間の中でしか、その課題にぶち当たっていく機会というのはないわけです。
 急ぐ必要はありません。しかし諦めてはいけません。それが学習活動を捨てることにつながったとしてもクラスルームとして集合体としての結実たる全員参加を作っていくことに対するお互いの努力は怠ってはならないのだと思います。

 学びの多様化学校は、単なる代替品にすぎません。保健室登校など福祉的視点を取りまとめて、そして不登校への教育のまなざしを打ち捨てるモノです。やってみることにいささかも異論はありません。
 しかしそれによって不登校へのまなざしを捨てることにはいささかも賛同はありません。
 今日は具体的なことは言いません。
 教師としての矜持の問題です。
 個人のマインドセットの問題です。
 理由はどうであれ、不登校の子どもを感情の、勘定の、内側にきちんと取り込んでいくことを忘れたくないというハナシでした。


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