研究授業における本時の分岐を考える
○○をぶっこわ~す。
小沢一郎、小泉純一郎と続くあまりスジの良くない系譜です。今はあの人たちかな?
既得権をうち壊すことを志向しているように見えるがそうではない手口というのは別に珍しくもないのでしょう。自戒も込めて振り返っておきます。私もそうならないように。
「研究」授業というのは計画通りいくことが、予想通りいくことが至上としたのは私のヨミでは団塊の世代のデモシカ教師に由来すると思います。これらの人間はサークルと称して教育技術を向上させようという表向きの理由とは別にこの集団を使って安保闘争の続きを画策したのではないかということです。
教員としての中身がない人間が自分の存在を大きくみせようとすれば型にこだわり、それに基づき他者を批判するのが最も効率的です。左翼がかった人間が選んだ手法というのはやはり全共闘的な手法だったということです。
なぜこの手法が今でも生き残っているのかが大変疑問なのですが、たぶん惰性の強い、そして変化を嫌い継続的に存在するしかない教育という営みがそうさせているという理解でまちがっていないと思います。本筋はここではないのでこの辺にしときますが、これはこれで興味深いハナシです。
こうした伝統にさからって研究授業の本時を授業者の好きに展開させます。対話とはそういうことです。対話させるとはそうした覚悟です。
さすがにノープラン、指導案がない(たまにあるけど)のは不味いので授業者の意図は指導の手だてとして示しておきます。
さてそのうえでどう分岐させて、それをどう記述し、どこまで想定するかが問題です。これまでのお手本として存在するフローチャート型とか矢印型は行き先が4,5個に限られています。それでは示す先として不十分であると同時に授業者としては意図的にそちらに誘導することに注力することになりかねない。というか確実にそうなります。それはすごく不味いのである程度想定してからナゼナゼ問答に頼ろうかとも考えます。
有名なトヨタのナゼナゼ問答。根拠を突き詰めきちんと全員で共有していくための手法です。これにどゆこと!?を合わせればかなり対話の練習になりそうです。
もちろんこれは困ったときの奥の手であり、悪手ということになります。
基本的にヒカル意見に即対応できる瞬発力が必要です。いささか爺さんなんで不安ですがそこは経験でカバーです。よってあまり決め打ちはしないために指導案には余裕を持たせることを事前申告します。極論を3手ばかり示しておきましょう。向かってほしい結論とその正反対、それとズレたモノくらいでしょうか?対話に必要なのは結論ではなく方向性です。
その方向性をうまくコントロールして全員を巻き込んでいくことが狙いです。そのためには意図的に普段は採用しないような意見を言わない子どもの意見を採用したりすることもあるし、少しズレた意見を使ってブレインストーミングっぽく振る舞うこともあります。
重要なのは結論が決まっている「学習」と結論が決まっていないいわゆるオープンエンドの「対話」をどう「文章化」で融合させて「授業化」していくか?こうした授業のキモだと思います。
こうした緻密な組み合わせが分岐という不可解な存在を正当な意図であると証明する方法なのでないかというのが私の提案です。しかもそれが研究授業の検討会という魑魅魍魎が巣食う場で果たして検討に耐えうるのか?
うまく一人で文章化する時間と多人数でゆったり話し合う時間を少人数で忙しくさせる時間にかなりうまく取り混ぜていかなければおそらく多様な価値観を持つ現代の教員に鑑賞に耐えうる授業にはならないのではないか?
「分岐」という平常の授業では当たり前の行為を非日常の「研究」で取り入れることはこういうことです。それは「若い」教員にどのくらい理解されるのかも非常に興味のあるところです。見ただけでクラスづくり、もっと言えば子どもづくり(ニュアンスが違うなぁ)がどんだけ伝わるんでしょうか?
授業見せて一番ヤな感想「すごかったです。」
「何が?どう?」
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