文化としてのICT教育の捉え直し

 30年近くICT教育をウォッチでしてきたり、北欧の教育システムやオルタナティブな教育を研究してきてたりしてきた上で30年弱、教育現場に立ってきて思うことがある。つい最近も、とあるクレームがあって考えたことです。

ICT教育への2つの感覚

 日本の保護者はICTが嫌いなんではないかということである。というかフツーじゃないことへの拒否反応がハンパない。
 もう一つは日本の教育界は世界でも類を見ないほど同調圧力に満ち溢れているのではないかということである。

 悪平等という言葉は日本独特の言い回しであると思うが、これが文化として根付いている国は意外に少ないのでないかと思う。
 中国の教育制度しか承知していないのでなんとも言えないが、社会主義国家の教育制度も実は日本ほどの平等優先の教育になっていないではないかと思うという意味で。

 そして30年近くコンピュータを使った教育に携わって得た感覚としてはいつの時代も保護者は画面と仮想空間に対しての良くないイメージに支配されていることを痛感せざるを得ないということである。

 我が家は全員視力が良くないのであるが、圧倒的に長い時間ゲームとテレビと読書に費やしてきた私が一番視力がマシという事実がある。
 なぜか長くディスプレイに接していると視力が良くないというエビデンスのかけらもないような神話が日本では根強い。
 さらに古田さんドラフト問題とパイロット資格の話である。この2つは日本における裸眼視力信仰の大きな原動力になっている。日本のメガネ業界はこの30年で性能的にも価格的にも驚くべき進化を遂げているのだが、眼科医業界は未だに楽であることと儲かることを指向している進化のかけらもない業態である。特に開業医にこうした感覚が多いことが裸眼視力信仰からの脱却を阻んでいると思う。

 もう一つ今の保護者が悪いイメージを抱いているものにLINEいじめがある。これが仮想空間への一般的なイメージである。一時期かなり喧伝されたり、死亡事故の一因として挙げられたりしたので致し方ない側面があるのだろう。チャットアプリとしてのLINEには、実はこれ以外の部分に大きな問題を孕んでいると思っているのだが、一般人がここに気づくのはもう少し後の時代のことになるのだろうと思う。LINEを使った広告産業が今以上に隆盛すればこの問題は顕在化せざる問えないと思うが、今は置いておく。

 仮想空間上でのコミュニケーションには常に幾つかの問題がつきまとう。それが即時性の問題と感情の問題です。これはコスられすぎているのであえて言わなくても良いでしょう。即時性が既読スルー、感情は絵文字多用で回避するハナシです。
 ここから派生していじめや誹謗中傷が起こることに対して日本の保護者が行なった防衛策はスクリーンタイムとフィルタリングの導入およびアプリ制限です。そして中学生からとか高校生からという年齢制限です。
 しかし実際これらは、実は仮想空間上でのコミュニケーションにはなんの効果ももたらしません。実際の仮想空間でのコミュニケーションにおける摩擦回避で最も効果をもたらすのは本人の自己制御とマインドセットだからです。機械やAIに如何に制限や補助を求めても無駄です。自制できない人間は制限や補助を全て乗り越えて欲望のままに進むからです。一律の年齢制限に根拠や効果がない理由はそこにあります。アルコールであれ、ギャンブルであれ、ゲーム課金であれ、友人関係であれ、家族関係であれ、依存症になるのは個別の問題であって年齢の問題ではないからです。アプリの年齢制限を有効活用していく話をする知ったかぶり年寄り管理職がいますが、彼ら、彼女らはそもそも依存症とスマホ中毒が別のレベルの問題であるという認識なんです。スマホは自分の知らない特別な存在で新しいものであるという考えは正しくありません。ただのコミュニケーションツールが置き換わっただけのことにあたふたする姿は見ていて気持ちのいいものではありません。
 仮想空間のコミュニケーション能力でありながら、実は現実世界のコミュニケーションと何ら変わるところはない。他者への攻撃性の質は若干変わるかもしれませんが(変わらないという指摘もあります)、使用者の心持ちの準備については全く同じです。
 保護者はここを非常に紋切り型に対応します。それは仕方ない。保護しなきゃならないからです。しかし教員は違う。教育が仕事です。基本いじめ体質の日本社会、子ども社会においていじめに参画しないコミュニケーション能力といじめから回避するコミュニケーション能力を伝授していく必要があります。そしていじめにならない集団を作っていく必要があります。学級担任制を否定する人間はここが全くわかっていない。中学校や高校でいじめが未解決で自殺まで至ってしまう大きな理由は学級担任が集団を作れない(作らない)まま問題を大きくして放置し責任を回避する(そもそも責任構造がない)からです。小学校に比べて修業年限も半分で積極的不登校や私学・転校・退学という選択肢が多数用意されているにも関わらずこうした結果になる学校に果たして存在価値があるのかは大きな疑問です。

 話がそれましたが、この2つの実情が組み合わさることで実は日本人はICTを使った教育が本質的に嫌いなんではないかと思うようになったわけです。それは教員も保護者も子どももという意味です。
 私は個人的にICTそのものが(というよりガジェットが)好きなので、長く感じていた違和感を少し言葉にして発してみようと考え直した次第です。

日本型学校教育のおけるICT利用の前提条件

 一つは学校内で完結させることなのかなと思います。保護者のイメージ・感覚というのは千差万別です。一般的に自分の子どもへの盲信と他人の子どもに対する攻撃性はなかなか強烈です。ICTの面から言えばzoomやteamsを見ただけでInstagramやLINEと勘違いする人はまだまだ山ほどいます。
 自分の勘違いを世の中の正義だと思ってしまうのは子どもの特権だと思っていましたが、今の大人はそこもごちゃ混ぜになってしまっている人間がいます。また子どものコミュニケーションについての理解が乏しく、自分が見たことのないコミュニケーション手法を取る子どもに対して異様に攻撃性を発揮します。
 こうした観点からICTというフツーと違う(ように見える)取り組みをする場合は家庭で使用状況を見せることは積極的に避けていくのが良いと思います。本来はいつでもどこでも誰とでもがICTや一人一台の利点なのですが、まあクレームや異論が噴出して取り組みどころの話ではなくなります。

 次に書く活動を積極的に取り入れてICTを隠していくことです。実は一人一台にはApple Pencilおよびワコムのペン機能が構想に入っていません。先の丸まった安物は論外ですが、これでしのいでいる自治体がほとんどです。iPadは優れた機械だと思うのですがやはりキーボードよりApple Pencilがあってこその存在です。現時点では検索エンジンがそこに追いついていないし、いくつかの学校使用アプリが対応していないのと入力速度に課題がある点から積極的に使用されていません。何よりバカ高いので自腹はムリです。よって解決方法は紙に書いたものを再利用していくことになります。一手間余計ですがコンピュータの変換機能をは挟まないことが重要なのかもしれません。昔ジャストシステムを追い出された浮川さんが子どもも10回書取りしたら漢字変換できるようにすればいいとおっしゃってましたが、実は漢字を使えるかどうかは書取り回数ではなく、その時点の個人の感覚なんですよね。特に小学校の場合。能力ではなく。個人差がハンパないんで、AIでも処理できない複雑さです。最近noteにアウトプットし続けて気づいたのですが実は入力方法とアイデアの展開・保持はほぼ関係がなさそうです。ずっと手書き派だったのですが今は完全にキーボードでも同じ思考ができるようになりました。もしかしたらキーボードの方が無心に文書作成ができてアイデアが後から追いついて来れる状態にあるのかもしれません。

 さらにマインドセットを鍛えることが重要です。トライアンドエラーがICTの肝だとずっと考えています。これは30年間変わらずです。根気ない人間にICTは無理です。ICTの基本はやり直し、作り直し、よりよくのサイクルです。それがしやすいことが現実の作画、作図、工作、作文とは違う点です。今の子どもはメンタルの課題がある割合が多くなっています。子育てする親がメンタルに問題を抱えているのでやむを得ません。うちの子も親のメンタルが出ちゃってるなぁと思うことしばしばです。また先のLINE問題のように対話にさまざまなワンクッションを挟むことでそれなりのスキルと共にメンタルの強さ(我慢、自制、協調、自己主張、寛容、承認、了解、応答、謙虚、リーダーシップ、フォロワーシップなど)が必要になってしまいます。これらはどれも現実世界のコミュニケーションにとって重要です。しかも別に完全に身につけなくても振る舞い方を覚えることで人間関係においては非常に役立ちます。そうしたマインドセットは実は学力以上に表出する学力に影響するもんなんです。

 最後に撮影技術を叩き込むことです。
 写真にせよ動画にせよ、構図や光加減、そして出来上がりのイメージは重要です。実はこれを使用機器ごとに教えてくれる人はなかなかいないんですよね。きちんと撮影できるだけでこの世の中だいぶ生きていけます。
 私は一人一台で最も重要なのは写真だと思っています。これをうまく操っていくことは字を書くこと並みに重要な学習内容であり、そして学習効果であり、学習課題であるということです。
 なのに現場では写真を撮ることに関して非常に困難を伴います。個人情報保護の観点といじめにつながるイメージがあるからです。せっかくのツールを馬鹿みたいなことに使ってしまうのはよくあるミステイクです。そこに寛容になれない教育現場は自主規制の名の下にほとんどの撮影手段と記録手段を放棄せざるを得ない状況になっています。
 子どもが安全に画像を作成し、所持し、保持し、活用できるようになれば放っておいても教育はイノベーションを起こすでしょう。そのためには文化としてのICTの捉え直しが必要だということです。

文化としてICTの捉え直し

 これは私の仕事ではありません。文科省か大学教員の仕事です。つまりサボっているだけ。道具を用意して、研修を強要すれば解決する話ではありません。残念ながらGIGAスクール第2期構想もここに触れませんでした。つまりやるやる詐欺だということです。
 無能な大学教員による無責任発言の極みである「とりあえずやってみる」を実践して膨大なクレーム処理といじめ対応時間が生み出されていることになっているゲンジツ。口にした人間全員に詰め腹を切らせたいところです。

 そんな鳥井さんのパクリみたいなことを言うなら、彼のように最後まで責任はとってほしいもんですな。
 出来もしないならさっさと文化の方を啓蒙する文章でも書いてみたらどうですかね。無料で添削してさしあげてあげますことよ。


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