教育現場での目の前に横たわる課題への教職員の態度

 他の方のnote(自分が書いたことに極めて近い内容だったと記憶している。実はそういうことが結構多いんです。別にパクったわけではないのですが・・・)を読んでいて日常教育現場において課題に対してどういう態度を示すかというのは私にとってその教員の人間としての評価基準になっているなぁということに気がつくわけです。そして同時にどういう人間が管理職になっているかについて一つ気がついたことがあったんです。そしてそうした傾向が管理職としての一般化につながっているのではないかという仮説も生まれてきました。
 「管理職として生まれてくるのではなく、管理職になっていく」これはとある有名な言葉のパクリですが、悪い意味で言うと教育現場が悪くなっている原因、そして自浄作用がはたらかない原因がこの辺にあるのだろうということです。
 それはたぶん管理職だけでなく、教職員個々が目の前に横たわる課題(あえて横たわるという表現をします。それは立て直すことに困難が伴うという意味と同時に横たわっている様子はさほど不自然でもなく、誰の責任でもないという意味などいくつかの要素を内包しています。)に対してどういう対処法をしているのかによって、どう対応する人間で組織されるかによって学校組織そのものの運営が変わってくるのではないかということです。
 少し考えられる行動形態を思いつくままに分類してみながら思うところを書きつけてみようと思います。

見て見ぬ振りをする

 すぐ思いつくのはこれです。これは自己防衛の手法としてはアリなのかもしれません。いわゆる逃げの行為です。これには積極的なものと消極的なものが存在するようなのですが、私はあまりこの言説の意味を感じません。個人の思いは見えないから積極的か消極的かを判定できないからです。あるにはあるのでしょうがそれ自体の価値を論ずることにはならないと思います。
 今回は行動の善悪を決定することに意味を持たせるつもりがないのでそれはおいておきます。
 ここで一つ語っておけばそうした態度というのは成功体験を伴って再来することを予言します。不正に手を染める人間が不正を止められなくなる中毒状態を内包してしまうようなイメージです。そういう人間はそうなってしまいます。
 見て見ぬふりには考慮や迷いがありながらもそれを捨て去る選択をするところにその特徴があると思います。

自分に関わる問題で起こった事象にだけ対応する

 これも逃げの一種ではあると思います。学級担任制の悪弊として言われることがありますが私はそうは思いません。こうならざるを得ない状況に追い込まれる要因がさまざまあると考えるからです。これはシステムの課題というよりは運用上そうせざるを得なくする上司がいることに問題があることの方が多いと考えるからです。こうしたことを選択せざるを得ない社会的風潮や学校運営はわりと今に始まったことではなく、昔からそういう選択に追い込まれることがずっと続いているんです。実は。

自分に関わる問題のなかで問題になりそうなことにも先回りする

 そのなかでも何とかしようともがけば、こういう選択肢も生まれます。
 これはウデはあるけど、他人に口出しをしてしまうことをおこがましいと考えるタイプに教員がとる行動様式だと思います。事前に学習されることによって問題を回避しようと努めるためにはそのクラスルームをよく観察していなければダメです。この部分を指して生活指導を含むとみる見方もあると思います。欠点は膨大な準備もしくは重厚な経験が必要になるところです。今の教職員が陥っている大問題にも関連があると思います。

どんな問題にもアンテナが感知しない、口出ししない

 見て見ぬ振りは見ています。これは見ようともしない。おそらくお願いされても関与しないタイプの反応です。そうしたサバイブ方法を身に染み込ませるのは実は学校の事情ではなく、個人的な(家庭や能力、性格など)事情であることに特徴があると思われます。
 そうした選択をした人間はかなり意固地です。さほどその手法は個別最適化です。この言葉はそうした状況を指し示すのに非常に適しています。あまり公立学校、特に日本の初等教育には世界で一番馴染まない言葉だと思います。同調性の高い日本人はしょうがいは個性などとは思えないからです。私はこれは恵まれた人間の戯れ言だと思うからです。さればこそ私はそうした子どもの教育により尽力するわけです。個性だと規定する教員はしょうがい児に対して徹底的に手を抜いて放置します。個性だからです。こんな都合の良い言い訳はなかなか示現しません。
 それましたがこうした個別化の権化と協働することはなかなか難儀な作業となります。私はやりたくない。時間を無駄にするから。

他人の問題にも突っ込んでいく

 この人には善意しかないと思います。ただ問題はこれがいい方向に進むばかりではないことを前提に了解されて行動しているかどうかによります。
 昔は私も、私の知識を以てすればなんでも解決できると信じていました。若かったなぁ。しかしそれでは委ねるということができない。信じることができない。そういうことになってしまいます。と同時に他人が介在する以上自分がやるようにフルスロットルをハンドル操作だけでは避けきることは不可能です。そのことを理解しきれてなかった。そういうことです。
 まあ半々くらいで良い方に向くこともあるし、支えられてる感覚もいだけるので助けられる方にしても有益かもしれません。もし負担に感じなければ。

他人の問題になっていないことにまで突っ込んでいく

 この人は善意の塊なんでしょう。そう思います。しかしながらこれは明らかに越権行為だと受け取られます。そもそも自分の都合よく考え解釈したがる人間からすればこうしたことをする人間は邪魔でしかありません。そんなことは起こるわけがないと信じているからです。
 簡単な話ですけどこれどちらも間違っています。未来がどうなるかは誰にもわかりません。しかしこれも単純な話ですが準備する必要はあると思います。つまり私は準備のために問題提起するこのタイプの人間がいることはある意味では良い面もあります。弱点はつねに最悪の事態を想定するタイプが多いので、考えの及ばない人間からすればうっとおしいだけです。特にこのタイプが自説に固執することは時間を無駄にします。
 たまにカッコウだけこういう風に振る舞う管理職がいますけどそれはたぶん覚えたての生半可な知識を開陳したいときだと思って無視してあげてください。


 これらはどれが良い悪いではなく、どれくらいのバランスで学校内に存在することによってその学校全体の方向性が決まっていくのかということに関わるのではないかと思います。
 つまり現在位置によってその方向性の良し悪しがある程度予測できるということです。その現在地と行き先のバランスが著しく安定性を欠く状況になっている場合はその学校にはあまりいい未来が訪れないのではないかと予想することができるということです。とくに的中率が高いとも思えませんが学校文化を俯瞰するためには借り物ではない視点だと思います。どの役割でもできて学校状況によって使い分けできる人が得難い人材なのではないかなと思います。特に管理職は本来学校に欠けているタイプを補完できる人が合うと思うんですがね。

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