企業が学校に人材育成を丸投げにしてどうする
昔、ものを知らない頃はよく大前研一さんの本を読んだものだが、教育のない大学を作ったあたりから読んでいない。まだこんなことを言っているのかと思うとマッキンゼーもこの程度のもんなのかと思う。まあ勝間さんがいる時点で株式投資をしている人間からすればこりゃダメだとなるのだけれども。
南場さんや申さんなど最近は外資コンサル出身の人間がYouTubeにも出るようになってその内実を語るようになったので縁のないところでも無くなったような気がしている。
それなりの理解を持って言わせていただければ、彼らの手法はシステマティックすぎるように思う。
そもそも変化を波という表現をする発想は学問の世界においては非常にありがちなものでそんなにありがたがることはない。それは歴史上後から見てただ評論するだけのことなのでそれが本当に波になっているかどうかは時間軸の取り方によって変動してしまう。
これは二酸化炭素が増えているかどうかということなどからも議論の分かれる点である。彼はおそらく株式投資のような短いスパンでしかこうしたグラフを見たことがないのだろうけれども20億年の横軸を取ればそれを変化と呼んでよいかどうかは変わってきてしまう。変化と誤差は紙一重である。
トフラーによるか、キットラーによるか、それともユヴァル・ノア・ハラリによるか、そういうだけの話であるのかなと思う。
「正解」探しがしたければ、判断がつくようになってからすればよい。
それは学校の仕事ではない。それがビジネスのことしか考えないのであればなおさらである。エストニアがデジタル大国だからといって一人当たりであれ日本のGDPを抜いてはいない。そもそも一人当たりのGDPに何の意味があるのかよくわからないけれど。日本は人口動態にしたって産業構造にしたって行政の手法にしたって政治にしたって国際的に見て良いところは何もない。それなのにここまで国家が踏ん張っているのは教育がそれなりの一定の役割を愚直に遂行しているからに他ならないと思う。
いつも思うのだが財界はそんなに自分たちの人材育成がうまくいかない理由を教育のせいにするのだろうか?自分の大学がダメだということは株価がはっきり示しているのではないか?そこの責任はないのか?
100歩譲って教育の中でも高等教育はそうした実学に寄与する部分はあってもよいとは思う。しかし初等、中等教育にそうした観点を持ち込もうとする意味がよくわからない。小学校でプログラミング教育や生成AIを取り入れたところでみんながそうした職種を選ぶとは限らないからである。金融教育を取り入れれば全員が拝金主義者になるとは限らないのと同様である。それはもはや百姓の子は百姓という中世の発想と変わらなくなってしまう。こうした主張を行う人たちは一体何時代の人たちなのだろうと思わざるを得ない。悪いとは言わないけれど。
彼が言う程度の知識の習得は大人になってからでもいくらでもなんとでもなるからである。
デジタル教科書がダメな理由などいくらでもあげつらうことができる。それでもおそらく導入されれば教育現場はそれなりに対応していくだけの狡賢さは兼ね備えている。
そもそもプログラミング教育が持っている価値の認識は、財界と教育界では全く違っている。特に初等教育では。それを全く理解しないまま、内容だけの話しかしない人間が学長を名乗る大学を教育機関として認定することは真っ当なのだろうか?
おいおいバブル崩壊後の低迷は、財界の経営者が無能だったせいでしょ。銀行がうまく自分の会社をコントロールできなかったせいでしょ。官僚が日本独自の方法で改革できなかったからでしょ。政治家が指導力を発揮できなかったからでしょ。そして最大の要因はあんたらエセ知識人がテキトーなことを言って欲に固まった人間を煽ったからでしょ。
はっきり言っておく。日本は教育後進国ではない。何なら先進国といってもいい。そもそも他国と比較対象になる程度の教育ではない。学習以外の面でさまざまな取り組みをしている稀有な教育国家といっても過言ではない。それはひとえに教員の自腹によって成り立っているのである。それが良いか悪いかは別にして。
残念ながらあなたの煽りには反応しない。これからも粛々と国家の繁栄に必要な人材の根幹を育てることに注力するだけです。プログラミングにしたって生成AIにしたってSTEAMにしたってそのエッセンスだけを必要な学びにスパイスとして加えていくだけのことです。あなた方財界人はそうした教育の取り組みに感謝した方が良い。責任転嫁はやめにして。