マネージャーの仕事って何?その2 【マネージャーになるまで後編】
マネージャーの仕事って何?
↑前編に続き、後編です。
大学卒業→就職→渡米→帰国→プロの世界へ、そして「Dライズ」のマネージャーになるまで。
こんな時期に、自分のこと書いている場合かと自問する日々ですが、
昔の仲間から、インスタライブで現場で働く人を紹介したいなんて企画の連絡もあったり、この業界を目指す人にも何らかのヒントを与えられればと思い、最後まで僕の物語を残していきます。
武器を身に着けるために【大学卒業→就職】
バスケを仕事にしようと思うも、コネクションゼロの状況では業界にたどり着くのは不可能だと感じ、自分を売り込む「武器」として思いついたのが「英語」でした。
バスケの本場はアメリカ、日本でも多くの外国籍選手が活動していることから、「英語」は絶対に必要なスキルだと。
そして、単純にアメリカに行きたい!
NBAが見れて、英語の勉強もできる、当時の僕にとっては夢の国です。
ただし、留学にはお金がかかる。
アメリカはワーキングホリデーが無く、入国前に何らかのビザを取得していないと長期の滞在が難しい国です。
英語がしゃべれないのに就労ビザが取れるわけもなく、語学留学という形で学生ビザの取得が一番妥当な道でした。
卒業後、留学費用を貯めるために実家(静岡)に戻り、近くの工場で働きます。(大学は広島でした)
油にまみれたライン作業、2交代、3交代、休日出勤、深夜残業、すべて受け入れひたすら仕事しました。
就活して内定をもらった会社もあったのですが辞退し、直近の手取りの金額が高い工場でのライン作業を選び、数年間ひたすらお金を貯めました。
夢の国アメリカへ【渡米】
その後、地元の留学エージェントを利用し、ESLという語学学校にたどり着きます。
カリフォルニア州サンラファエルにある、ドミニカン大学のキャンパス内の語学学校へ入ります。
サンラファエルという街、田舎で日本人や観光客が少なく、そして何よりサクラメントに近いという理由でこの街を選びました。
ドミニカンは、横浜で一緒だった田渡凌選手が通ってた大学です。
時期はかぶってませんが、まさか日本でサンラファエルの話ができるとは思ってませんでした。
アメリカ人ですら、サンラファエルと聞いて場所が分かる人は、西海岸のベイエリアの一部の住民だけでしょう。
語学学校に入学し、半年ほど受講。日本の教育の成果かテストだけはできてしまうので、どんどん上のクラスに上がってしまい半年くらいで一番上まで来ちゃいました。
バカンス以外で来てる学生は、コミカレや大学に進んでいくのですが、生活費と学費で資金が底をつきそうだったので、語学学校は卒業しビザが切れるまで3か月ほど旅をしてました。
グレイハウンドバスという全米を走っている長距離バス会社の、30日間乗り放題チケットを利用し、バックパッカーしてました。
インディアナポリスで見たNCAAのファイナルは今でも一番の思い出です。
車中泊は当たり前、銃声を聞いたり、ヤク中が運転手と喧嘩したり、雪で道がふさがり、知らない乗客10人くらいとホテルの部屋で一夜を明かしたり、留学中の話でも記事が書けそうです。
トライアウト【帰国】
10か月の留学を経て帰国し、
もう一度、各チームにアプローチしました。
なんと、興味を示してくれたチームが、3チームもありました!
コネも武器もない学生時代には門前払いで、手紙を送っても、電話しても話もさせてもらえなかったプロバスケの世界から反応があり、自分の選んだ方法は間違っていなかったと、感激しました。
その中のひとつがブレックスであり、ちょうどDライズをクラブチームからプロチームに移行しJBL2に参入するタイミングで、マネージャーを募集していました。
今思うと、ホームページに現場スタッフの求人を出すことは少ないので、単純に運がよかったのかもしれません。
ただ、運を引きよせるためにも、目的をもって行動する必要があることを身を持って学びました。
ホームページから求人に応募したところ、一度練習に来てほしいと連絡がありました。今まで閉ざされていたプロチームへの道が開いた瞬間です。
当日はガチガチに緊張し、ほどんど覚えていません。
ただのバスケファン自分が、トップリーグのスター選手たちと同じコートに立っている。
数年前には想像できなかった状況です。
緊張しっぱなしで、モップをもってコートサイドに立っているだけで、何もできなかった記憶しかないです。
ところが後日、マネージャー採用の連絡を受け、僕のプロ生活が始まります。
経験もコネもなく、緊張で何もできなかった僕にオファーをくれた栃木には感謝しかありません。
後から聞いた話では、マネージャーの候補者は4名ほどいたそうで、ブレックスのアシスタントマネージャーを1名、Dライズのヘッドマネージャーを1名さがしていたようです。
マネージャーというポジションで、トライアウトを受けた感覚でした。
マネージャーの経験はなく、マネージャーを目指したこともなかった自分が、いきなりプロチームの現場スタッフになりました。
この時で25歳。
まとめ
これが、マネージャーになるまでの僕のストーリーです。
前後編、最後まで読んでいただきありがとうございます。
プロのキャリアを始めた「Dライズ」というチーム。
思い入れがありすぎるので、こちらも記事にしたいと思います。
中学でバスケと出会い(遅い!)
高校で渡米を夢見る(夢見るだけか!)
大学は流されるように過ごし(目的をもて!)
就活に挫折し、渡米のために動き出す(またしても遅い!)
留学しNBA三昧(遊んでないで行動しろ!)
と、自分自身にツッコミを入れるほど無駄も後悔も多い人生ですが、目標をもって行動すれば道は開くことがあることも知りました。
前編で書いたように、バスケ界にとって何物でもないただのファンだった自分が、マネージャー経験もないのに10年もプロの世界で働いています。
ここからの僕自身の課題は、この先なにをするか?
これを考えずに、プロの世界に入ることだけを目的としてしまったのが、今考えると最大の後悔です。
それを考えるためにも、僕のキャリア・マネージャーについて、これからも発信していきたいと思っています。
お楽しみに!
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プロバスケチームのマネージャーを知ってもらいたい。 何でも屋さんと言われる裏方のお仕事を語ります。 チームマネージャーの認知度・価値向上を目指して発信します。 全国のマネージャーにリスペクトを、マネージャーを目指すあなたに勇気と知恵を与えたい。