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うどんの時間/エッセー


 胃の中で小さくて丸い、水の塊がひとつ、熱々と回っていた。今までのことは何ひとつ覚えていなかった。
 歯医者さんに行き、麻酔をする私。歯医者さんに行くのは人並みに好きではない。あのいやな響きを聞きながら、叫ぶように口を開け続ける。治療しているのが口の中じゃなかったら、口からは声が出ていただろう。人類が誕生したずっと前の時代には考えられないような、スピードを感じる人工的なスピン音。こんなのが正しいのだろうか。こんなことまでして生きなければいけないのか。人類は間違った方向に進んでいるのではないか、なんて本気で思うのだから、自分の意志で来たのに都合のいい脳みそだ。でもその時、何を考えたらよかったんだろう?瞑想でもできたらよかった。
 麻酔をした瞬間から、心をドキドキさせながら、体が反応しているみたいにお腹には熱い水の塊がぐるぐる回る。そのあとすぐに、ぎゅっとつむる目に意識。先生はどんな精神状態なのだろうか?どういう人間なんだろうか?医者ってすごいなぁ。音。あぁ私の体の一部が削れていく。音。私のかわいい白いやつが。深く、大人しく響く振動はその瞬間をイメージするのには十分すぎた。次の瞬間から頭の前に浮かぶのは、自分の意識ではなく、あたたかい「うどん」だったのだけど。
 聞こえてくる音を頼りに像をつくり続ける私の脳みそに抵抗する術は、一刻も早くあたたかいうどんを思い浮かべて、集中することだった。「うどん」。例の治療されている「口の中の白いやつ」には絶対に当たらず、ぬるりと喉にぬけそうだ。やわらかく、生ぬるい。安全なんていう危険な言葉が存在する必要さえないほどに。その瞬間は、あまい油揚げが浮かんでいるような出汁と、うどんで満たされるのだ。「うどん」「うどん」と唱えながら、それが消えないように集中する。これは瞑想? なにか(うどん?)と繋がり、意識はどこかへ。なんて、そんなことも終わりを告げられた瞬間には、1秒も待たずに消えるのに。最初からなかったように、うどんのことはすぐに忘れるのに。
 治療台から体を起こすと、うどんなんてイメージは、何ひとつ、どこにもない。私はすぐに、今日は「このため」、つまりは治療のために来たんだと、大丈夫だったじゃないかと不安を打ち消す保身に入っていた。都合のいいわたし!あの時、脳裏に浮かんで私を助けた、あのあたたかい「うどん」。帰り道に思い出して食べたりなんかしないけど、今度食べるときには、うんと美味しくいただこう。


エッセー:うどんの時間

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