信用なんてものは無くていい。

 大事なのは時間だ。

 その人間が一生のうちに使える時間と能力、環境、モチベーション、その他もろもろの情報だ。

 それさえあれば、信用なんて無くても、その人間が何ができるか、何をすべきかというものは一目瞭然なのだ。

 それにより資産を与えればよい。

 全体から見て割り当て可能な資産を可処分所得として支給するのである。

 データというものがこれほど簡単に入手できる時代がかつてあっただろうか。

 いや、なかった。

 それが何を意味するかと言えば、我々はデータの扱い方というものをまだ発見できていないのである。

 先人にいくら聞いても、それはデータが限られていた時代の知見であり、これほど情報が氾濫した時代に何をすべきかというのは現代に生きる我々にしか発見することはできないのだ。

 信用がなぜこれまで重要視されてきたのか。

 それは、人間の内面というものがまだまだ未知の部分がたくさんあって、とてもじゃないけど把握し切れないという前提があったからだ。

 何を考えているか分からない、裏で何をやっているか分からないという状況であれば、信用というものが大事になってくるのもわかる。

 しかし、今は違う。

 ピクシブアカウントさえわかれば性癖すらもいくらでも把握できてしまう現代社会において、もはや信用というものは無用の長物になりつつある。

 信用より遥かに信用できるのはデータだ。

 その人が何が出来て、どれくらい生きる見込みがあって、どういう分野に興味を持っているか。

 このデータを徹底的に把握すれば、もはや上司が常に部下に目を光らせて監督する必要すらなく、最適な仕事を最適な人物に割り振るアルゴリズムを組んでコンピュータで自動化することも可能なのである。

 そのためには従来の信用ベースの価値観をとことん破壊する必要がある。

 この人はこうだからああだからと独自の評論を並べ立てる親戚だの知り合いだのそういううざい連中の価値観をとことん破壊する必要があるのだ。

 そういうのはただの感想に過ぎず、なんのエビデンスもないただの集積物なのだ。

 それを集めまくってビッグデータにしてAIに分析させたものこそが、信用のおけるエビデンスのあるデータなのであり、もはや個人の判断など他人の足を引っ張る有害な何かでしかないのである。

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