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恋恋台湾/70年代の九份を知る男




🔹モノクロ写真の老夫婦


「ポスターの老夫婦は私のおばあちゃん、おじいちゃんです。おじいちゃんは以前、九份で金鉱を掘るための工具を作る鍛治屋をしていました。おじいちゃんは若い頃、ハンサムでプレイボーイで、よく酒場通いをしていました。

おばあちゃんは九份でも有名な気性の激しい女性で、包丁を片手によく酒場へおじいちゃんを連れ戻しに行ったそうです。私が子供の頃、おばあちゃんはいつもこうこぼしていました。
『吏員役人が厳しければ厳しいほど、かえって盗賊が大きな罪を犯すように、私がおじいちゃんにうるさく言えば言うほど遊びに行ってしまう』」

この文章を初めて読んだとき、私は思わず吹き出してしまった。
盗賊と同じ扱いをされるほど酒場通いに励む旦那と、そんな旦那をいつも強引に連れ戻しに行く女房。

赤提灯の下で毎度のごとく始まる乱痴気騒ぎ。引き戸や飾り窓が壊され、黄色い声が闇を飛び交う。やがて大勢の野次馬が集まってくる。
そんな光景が目に浮かぶようだ。

出刃が登場するあたりはやや物騒だが、男のだらしなさと女の強さはどこでも同じらしい。

もっとも私も男だからおじいちゃんの気持ちはわからなくもないし、おじいちゃんを放っておけなかったおばあちゃんも可愛い。そして、その愚痴を孫にもっともらしく話してしまうあたりも実に人間臭いではないか。

この文の出どころは、実はお店のパンフレットである。
店の名は『阿妹茶酒館(阿妹茶楼)』。文中にも登場するように、金鉱の採掘で栄えた九份という町にあるレストランだ。

その店の、いわば広告コピーである。同じ内容が中国語と英語と日本語で書かれており、広告のアイディアとしてもなかなか秀逸だと思う。

阿妹茶酒館(阿妹茶楼)外観

冒頭でポスターと言っているのは、パンフレットの表紙に印刷されたモノクロ写真のこと。椅子に座った老夫婦を正面から写したもので、かしこまった表情と解像度の甘さとのマッチングがいい雰囲気を醸しだしている。

地色に用いた赤インクのインパクトも効果的だ。
同じものを店の看板としてポスターにも仕立てているが、やはり誰の目にも止まるらしく、その前で記念写真を写していく観光客をよく見かける。

写真の中のおじいちゃんは、確かに鼻筋の通ったなかなかの伊達男だ。一方のおばあちゃんは、いかにも気丈な性格を思わせる目元をしている。

そんな二人が行儀よく並んだ姿を眺めていると、九份という街の"表"と"裏"の顔を二重写しに見ているような気もする。

🔹切なさの記憶

私が初めて九份を訪ねたのは、2000年5月半ばのこと。

ただ、このときは前年に台湾中部を襲った"921大地震"の復興状況を取材するのが目的で、震源地近くの山間部(南投県)を訪ねたあとの、いわば気分転換にすぎなかった。
帰国予定日の前日、さしたる期待も持たずにぶらりという感じだ。

921大地震の被害を知らせる掲示

それまで九份について知っていたことは、ガイトブックに書かれている範囲である。
かつては金鉱山の採掘で潤い、アジアのゴールドタウンと呼ばれたこと。坂道や階段が多く、レトロな風情が残っていること。あるいは侯孝賢(ホウ・シャオシェン)監督が映画のロケ地に使って以来、観光客に人気が出てきたこと……。

こうしたごく断片的な情報のなかで、当時、私の好奇心をわずかでも後押してくれたものがあったとすれば、それは町の履歴よりむしろ候孝賢の名だったかもしれない。

1989年のヴェネチア国際映画祭でグランプリを受賞した『悲情城市』を観て以来、私も一時は侯孝賢の作品を貪るように観たくちだった。『冬冬の夏休み』、『恋恋風塵』、『戯夢人生』、『好男好女』……。

ハリウッド映画にはない淡々とした語り口、登場人物との微妙な距離感、そして対象を凝視し続ける監督の眼差しに少なからず心を動かされた記憶がある。

しかし、いたって地味なタイプの映画だから、その後、王家衛(ウォン・カーウァイ)をはじめとする新たなアジア映画ブームのなかではほとんど意識に上らなくなってしまった。ストーリーに至ってはすっかり忘れていたくらいだ。

にもかかわらず、侯孝賢の名が九份を訪ねるきっかけになったのは、彼の映画表現の底を流れるなんとも言えない切なさ、あるいは喪失感のようなものだけはなぜか鮮明に覚えており、おそらくその記憶が私のその日の気分と微妙に響き合ってしまったからだ。

当時、震災から半年以上経ってもなお、山間の町は復興と呼ぶにはほど遠い状況だった。半壊した銀行やホテルは廃屋のまま放置され、小学校も更地と化していた。

まして震源地となった山では、大地の崩落で行方不明になった人々の捜索すらままならないありさまだった。

そんな現場に立ち合った日の夜、折しも宿のテレビから流れてきたのは、陳水扁(チェン・シュイピァン)氏の総統就任に沸き立つ台北の様子、メディアの熱狂ぶりだった。

当時としては新政権への期待も大きかったし、それを受け止める都市部と山間部とのギャップと言ってしまえばそれまでだ。しかし、そのギャップが無性に切なかった。

震源地となった九份二山

震源地となった山の名は「九份二山」。これも偶然の符合である。
しかし、こうした奇妙なシンクロの連鎖が、私に新たな出会いをつくってくれた気がする。

その日、九份の空は異様なほどに青く、新緑は目に痛いほど輝いていた。

🔹過去と現在が交錯する町


台北市内から東へおよそ30キロ、台北県郊外に位置する新北市瑞芳区。その険しい丘陵地帯に九份の町はある。

台湾国鉄の瑞芳駅から金瓜石行きのバスに乗っておよそ20分あまり、右に左にと大きく揺られながらいろは坂を上る(現在は台北から直通のシャトルバスも出ています)。

海抜は山岳地帯に比べればさほどではないが、ここを訪れる者をまず驚かせるのは、山が海の間近まで迫り、バス通りからして絶景を望めることだ。

眼下に広がる入り江の名は瑞浜湾。その左手には大小の漁船が点々と浮かび、さらにその先には軍港として知られる基隆港が見える。

大小の漁船が点々と浮かぶ瑞浜湾
遠方から見る九份の街並み

そんな景観に見とれているうち、前方右手に九份の街並みが見えてくる。急な山肌に張りつくように形成され、遠目にはいかにも猥雑だ。

昔は三角屋根の民家しかなかったらしいが、観光化の進展は風景を大きく変え、現在は真新しい建物も少なくない。なかには、傾斜地にあんな高い建物を建てて大丈夫なの? と疑問符をつけたくなる建物もちらほら……。

まぁ、この手の不安はえてしてアジア圏の旅につきものではある。不安が現実になることもままあるが、旅心を刺敷するカンフル剤もこういうところにあるから皮肉なものである。

初めて歩く九份は確かに刺激的だった。

特に山肌に沿ってまっすぐ上にのびる豎崎路は、この町のつくりをじかに体感させてくれる。100段以上の石段が山頂付近まで続いており、よくもまぁ、こんな傾斜地に……というのが実感だ。

急峻な石段が続く豎崎路

この驚きは、自ずと九份の歴史に目を開かせてくれる。

金塊を掘り出すためなら命をも惜しまなかった時代の、それこそ、たぎるような情熱がなければ、こんな傾斜地に誰が好き好んで家を建てるだろうか。

この通り沿いには古びた木造やレンガ造の家屋が並んでいる。昔ながらの質素な民家は下のほうだけで、上るにつれて観光客向けの店が増え、喧騒も増していく。

民家をレストランに改装したところもあれば、新しく建て直したところもある。くだんの阿妹茶酒館もこの通りにあって、客引きが盛んな一帯だ。

途中、交差する通りが二本ある。かつてトロッコ列車が走っていたという軽便路と小さな商店街が軒を連ねる基山街だ。この二つの通りを貫くように石段はなおも続く。

心臓破りの最終地点は小学校の門前、その名も「九份小学校」。
ここまで毎日通う子供たちを思うとちょっと気の毒だが、その代わりここから眺める景観は格別である。

海岸線の全貌が見渡せるばかりでなく、幾重にも連なる山の稜線が美しいグラデーションを見せてくれる。

美しい夜景が望める

そんな一等地ともいうべき高台を学校の敷地に選んだのは、ゴールドラッシュが永久に続くと言じて疑わなかった時代の力わざと言ってよいだろう。

ゴールドラッシュの全盛期を彷彿とさせる建物といえば、その最たるものは映画館「昇平戯院」の遺構である。豎崎路と軽便路が交わるところにちょっとした広場があり、その奥に朽ち果てたコンクリートの建物が見える。

私が訪ねた2000年台初頭には、その数年前、台風で屋根が吹き飛ばされたとかで完全な吹き抜け状態。周囲のレンガ塀も崩れかけ、廃墟も同然だった。

が、ディテールを注意深く見ていくと、郊外の映画館とは思えないゴージャスな意匠に驚かされる。2階部分の駆体には曲線が使われ、壁にはアールデコ風のデザインや装飾タイルが貼られていたりする。

屋根がなかった頃の昇平戯院

記録によれば、この映画館はもともとは市場の隣にあり(場所は特定できず)、1934年に現在の地へ移転。この時代、日本の統治下にあったことは言うまでもない。

現存する建物は1951年に建て替えられたもので、事実上の閉館は1986年とのこと。まさに戦前から戦後にわたる半世紀余りの間、この土地の娯楽場を担ったというわけだ。

ゴールドラッシユの最盛期には、連日、チャンバラ映画が放映され、台北の「第一劇場」よりも賑わっていたと伝えられる。

🔹アジアのゴールドタウン

時は1890年、ふもとの町、瑞芳付近で鉄道工事に従事していた作業員の一人が、基隆河の流れのなかに砂金を発見した。一説には弁当箱を洗っていて見つけたという話もあるが、いずれにせよ狂騒劇はここから始まった。

噂は瞬く間に広がり、付近はにわかに砂金取りで沸いた。当時、一攫千金を夢見た男たちが3,000人以上集まったといわれている。

時の政府はあわてて禁止令を出すが、効果はほとんど上がらなかった。やむなく「基隆金砂釐局」なる管理機関を設置し、規定の料金を払えば採金をしてもよいとする認可制の形を導入した。

そんななか、知恵のある野心家たちはまったく別の動きをしていたようだ。山中に眠る鉱床の発見である。なかでもアメリカで金の採掘をしたことのある広東省出身の華僑、李氏一家は、その経験を生かして基隆河を少しずつ遡っていった。

地図で見るとわかるが、基隆河の上流に位置する山のひとつが九份山である。李氏の執念が実ったのは1893年、ついに九份山の頂上付近で金の露頭を発見する。

そしてこの日を境に、九份山一帯は激変の波に呑み込まれていく。

そもそも九份という町の名は、まだ陸路がなかった頃、海路だけで生活物資を運ぶのに九つの包みに分けて運んだことから名づけられたといわれている。当時は農家が九戸しかない静かな村だったのだ。そんな僻村にあちこちから人が集まる。

資本家が参入する。政府も本格的に腰を上げ、公的機関を新設するなど、まさにゴールドラッシュの始まりである。

しかし、それからわずか2年後の1895年、日本が台湾を割譲。日本が宝の山を放っておくはずはなく、当然のごとく経営に乗り込んでくる。

日本が関与したアジア統治のなかで金山経営がほかにいくつ存在したのか、私は寡聞にして知らない。しかし少なくとも、九份の町がのちに「アジアのゴールドタウン」などという、いささか大仰な呼び名を冠したという話が本当なら、当時の日本政府にとっても最大規模の金山だったはずである。

抗日運動が広がったのはここでも例外ではない。闘士たちに阻まれ、金山経営は決して順調には進まなかったようだ。一時は山を封鎖し、採金を全面禁止にする処置まで取っている。

そこに助っ人として登場したのが藤田伝三郎なる男。かつて西南戦争でぼろ儲けした、いわゆる戦争商人の一人である。資本力にものを言わせ、近代設備と日本的な独占管理方式を持ち込み、無理やり金山経営を押し進めていった。

だが、藤田の思惑は20年ほどで頓挫する。どうやら日本的な管理方式が台湾には馴染まなかったようで、採掘の効率が思うように上がらず、時には赤字を出した年もあったからだ。

1918年、藤田はやむなく手を引き、採掘権は地元の有力者の手に移行する。

五番坑の跡

🔹「小上海」「小香港」と呼ばれた時代

九份の黄金時代を築いたのは、このときに採掘権を得た顔 雲年という男だ。顔氏は当初、金鉱現場の治安維持の任務に携わり、金山経営のほうでもしだいに頭角を現していった。経営権を引き継ぐとすぐ「台陽鉱業株式会社」を設立し、企業体として軌道に乗せていく。

こうして1920年代から40年代にかけて、ゴールドラッシュの最盛期を迎える。特に30年代後半、産金奨励政策の刺激を受け、飛躍的な発展を遂げた。

新しい工場設備の導入はもとより、軽便鉄道や自動車道が敷備されたのもこの時期である。人口は増加の一途をたどり、町は大きく変貌していく。
くだんの映画館が移転した時期と重ねれば、当時の喧騒は想像に難くない。

酒場や売春宿が軒を連ね、毎晩のように大枚が落ちていく。血の気の多い男たちの喧嘩沙汰は日常茶飯事だったようだ。その後ろで女が包丁を持って構えているなんて光景も、証言からすると一つや二つではない。

もっとも遠目に見れば、喧騒に包まれた九份の夜はさぞかしきらびやかだったことだろう。この町が「小上海」、「小香港」などと呼ばれたのもこの時代のことである。

🔹モノトーンの面影

九份の金山経営に陰りが差してきたのは、1960年代のこと。戦後は国民党政府のもとで八つほどの企業が経営し、50年代半ばまではかなりの産出量を記録している。

だが、鉱脈はいつか途絶える日がやってくる。金の市場価格とコストとの折り合いもつかなくなり、一気に斜陽化へと向かっていく。こうして1971年、およそ80年におよんだ狂騒劇の幕は閉じられた。

繁栄と凋落……。古今東西いく度となく繰り返されてきたことだが、金鉱山ほどこの落差の大きいものはないかもしれない。その後の九份については、さまざまな資料を繰っても、取り立てて語るべきものは何も出てこない。

お寺の周りに暴風壁がつくられた、祭りが開かれた、そんな程度である。

地元の人たちに聞くと、さらにうら寂しい話ばかりだ。

「閉山後は抗夫も女たちもみんな出ていっちゃいましたからね。この町に残ったのは、年寄りと犬と猫だけですよ」
「工場がありました。電話機の部品工場、ファスナーの工場、それとコンドームの工場だったかな」

そこに見える風景は、人口の流出による過疎化の現実と片田舎でも成り立つわずかばかりの産業……。コンドーム工場は、なんとあの「台陽鉱業」が業態変革をした会社らしい。金山経営からコンドーム作りへの転身とはこれいかに?って感じだ。

鉱物と化学反応をおこした地下水が流れ込む黃金瀑布
日本時代に建造された製錬所十三層遺址」。ここで金の選別から精錬まで全てを行っていた

しかし、ここでちょっと立ち止まってみたい。
時間を止め、当時の風景に思いをめぐらせてみよう。かつて栄えていた日本の炭鉱町を思い描いてもいい。

耳を澄ますと、町の上を吹きすさぶ風の音が聞こえる。あるいは雨風にさらされ、朽ち果てていく民家の壁が見える。立て込んだ民家の間に延びる細い通りに年老いた一匹の犬が淡い陰を落としている。天気のよい日には、どこからともなく現れた猫たちが屋根の上で日向ぼっこをしている。

それは、この時代だからこそ見ることができた九份本来の姿だったはずである。鼻腔をほのかにくすぐる栄華の残り香とともに……。

何もないことの魅力、物語のない物語を、人は時に旅の途上で強く欲することがある。この時代の九份こそ、それにぴったりだったのではないだろうか。もしもこの時代の九份を訪ねていたら、私はきっと無我夢中で歩き回ったに違いない。

90年代初頭、私は偶然、この近くを車で通ったことがある。フロントガラス越しに見えた黒々とした家並みが異様に感じられ、思わず身を乗り出した記憶がある。

同乗していた人から、「あそこは昔、金山だったところで、けっこう栄えていたんですよ」と聞いた。

しかし、車を止め、歩いてみる時間はなかった。車中での大事な会話に戻らざるをえず、意識もほどなく風景から遠のいた。
まして、それ以前に観ていたはずの映画『悲情城市』との結びつきなど知らなかったから、やがて記憶の片隅へと追いやられていった。

それからおよそ10年を経て、自分の足で訪ねた九份の町は刺激的だった。想像以上に興奮した。しかし、"モノトーンの面影"を確かめられるものはわずかしか残っておらず、町全体が鮮やかなカラーに染まっていた。

九份の歴史を知り、現地の知人・友人もたくさんできたからなおのこと、この町の時間を戻してみたくなることがある。

🔹70年代の九份を知る男

豎崎路、軽便路、基山街……いずれの通りも少し気をつけて歩けば、現在でも黒い家々を見ることができる。それは、私がかつて車中から垣間見たモノトーンの家並みだ。現在はカラフルな建物の間に埋もれるようにしてわずかに残っている。

九份は元来、雨の多い地域で、時には暴風雨の通り道にもなる。そのため、この土地の住民は屋根や壁一面にコールタールを塗り込めた大きな厚紙を貼りつけて雨風をしのいできた。これを油毛氈(ゆもうせん)といい、遠目から見ると町は黒々と見える。

実は九份の隣町であるもう一つの金鉱山、金瓜山へ行くと、今でもこの黒い街並みをほぼ完全な形で見ることができる。それを目にすると、九份の変化がどれほどのものかよくわかる。

金瓜石の家並み

「九份も以前は見渡すかぎりモノトーンの世界で、それはそれは魅力的だったんですよ」

昔の九份を知る人が語るこのセリフ。これを聞かされる度に、私は胸がキュンとなってしまう。当人も何度語っても語り尽くせないらしく、口にする度にいかにも残念そうな表情を浮かべる。

彼の名は洪 志勝(フン・チンシェン)。喫茶店のオーナーであり、画家でもある。日本の雑誌にも度々取り上げられているから、台湾通の人なら「九份茶坊」のオーナーと聞けば合点がゆくだるう。

「九份茶坊」の店内

91年に観光客向けの喫茶店をこの町で最初にオープンし、町の活性化に最も貢献してきた人物といっても過言ではない。

私は幸運にも初めての九份歩きで彼と知り合い、奥さま共々良き友人として付き合うようになった。というより、奥さまが日本人であるのをよいことに、台湾を訪ねる度に夫妻を頼り、彼らの好意に甘えて九份通いを続けてきたと言ったほうが正確だろう。

なにしろこの町の表も裏もすべて彼らのお陰で見えるようになったのだから……。

洪さんは、もともと九份の生まれではない。
彼がこの町を知ったのは70年代末、美術高校に通っていた頃のこと。スケッチ旅行で訪ねて以来、いっぺんに虜になったという。

「金山だったなんて当時は知らなかったんです。でも、なにしろ風景に異様に惹かれるものを感じてね」
この話を聞いたとき、私はいっそう彼に興味を持った。

洪さんの九份に対する思いは、その後の経緯を聞けば一目瞭然である。高校卒業後、みずから立ち上げた文房具関係の印刷工場を切り盛りする傍ら、やがて得た収益で九份に一軒の空き家を購入する。これが1988年のこと。

その頃の九份には空き家がたくさんあり、価格もかなり安かったという。
ただ当時はこの町に住んでみたいという思いだけで、後先のことは何も考えなかったようだ。多忙な経営者の身でもある。時にその家にこもり、夢想にふける日々を送った。

「そんなことをやっているうち、自分のなかで少しずつ膨らんでいくものがあったんです。ひたすら無心に絵を描きたいって気持ちです。仕事に追われ、10年くらい遠ざかっていましたからね。絵を描く生活半分、仕事半分、そういう暮らしができたらどんなに幸せだろうって……」

洪 志勝氏の油彩画

🔹町の活性化と変貌の狭間で

ある日、九份の町を歩いていたときのこと。供さんは気になる空き家を発見する。佇まいといい、大きさといい、これならアトリエとして使うのに十分ではないか。そう考えるや、こちらの空き家も手に入れてしまったというから凄い。

実はこの家は、先にふれた金山経営のボス、顔 雲年の右腕というべき人物が住んでいたもので、のちに持ち主が変わってからは町の診療所として使われていた。

もともと有力者のものだから、町の人たちにもかなり特別視されていた家だ。そんないい物件を手に入れたまではいいが、洪さん自身、アトリエだけで維持できるかどうか不安もあったという。

そこで、彼は考えた。いっそ喫茶店を兼ねたつくりにしてはどうか。当時、わずかながらも観光客が訪れはじめていたからだ。時流に鋭敏な人たちである。

洪さんは見逃さなかった。地道にアンケートを手渡し、しっかり顧客名簿まで作成した。こうした先を見すえた地盤づくりのもとに「九份茶坊」は産声を上げる。

それにしても、彼の先見性は大したものである。
台湾で有名な藍山珈琲が九份で最初のCMを撮影したのは91年8月、九份茶坊のオープンは同年12月のこと。しかも藍山珈琲を皮切りに、ほかのCMや郷土紹介の番組などが九份の町をこぞって取り上げ、九份茶坊にも多くのロケ隊がやってきた。

折しも経済成長を続けていた頃の台湾である。変わりゆく生活を前に、さびれた町の風情がかえって新鮮に映ったのだろう。

こうしたメディアの波が、台湾全上の人々に九份の町をふたたび知らしめていくことになる。観光客は一気に増加し、それに刺意を受けた住民たちが次々に店をオープンしていく。映画のタイトルそのままの「悲情城市」、「九份珈琲」、「小上海茶楼」……。

こうして加速度的に回りはじめた町の活性化は、しかし同時に洪さんがこよなく愛していた町並みを失わせていくことにもなる。その板挟みに最も心を傷めているのは、ほかならぬ彼自身だとしても不思議はない。

九份茶坊の一角には、昔の九份の町を写したモノクロ写真が掛かっている。その存在がしだいに影を潜めるように見えるのは私だけだろうか。



(初出:『art magazine』2003年3月号/IFT,INC)

※当原稿の内容、および掲載写真は2000~2003年のものです。したがって街の様子や風景は大きく変わっていると思いますので、その点はご容赦願います。
※街の歴史などに事実誤認がありましたら遠慮なくご指摘ください。





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