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『しん次元!クレヨンしんちゃん』が投げかける難問:「がんばれ」と言いにくくなった時代に、それでも「がんばれ」と言うのはなぜか

僕たちも、人間であるからには、たとえ貧しくともそのために自分をつまらない人間と考えたりしないように、――また、たとえ豊かな暮しをしたからといって、それで自分を何か偉いもののように考えたりしないように、いつでも、自分の人間としての値打にしっかりと目をつけて生きてゆかなければいけない。……
 しかし、自分自身に向かっては、常々それだけの心構えをもっていなければならないにしろ、だからといって、貧しい境遇にいる人々の、傷つきやすい心をかえりみないでいいとはいえない。少なくとも、……君が貧しい人々と同じ境遇に立ち、貧乏の辛さ苦しさを嘗めつくし、その上でなお自信を失わず、堂々と世の中に立ってゆける日までは、君には決してそんな資格がないのだよ。

(吉野源三郎『君たちはどう生きるか』岩波文庫、1982年、130頁)

 2023年8月4日に劇場公開された『しん次元!クレヨンしんちゃん THE MOVIE 超能力大決戦~とべとべ手巻き寿司~』(以下、『超能力大決戦』と略記)は、『クレヨンしんちゃん』シリーズ初の3DCGアニメーション映画である。制作期間7年をかけて2.85Dに調整された3DCGに違和感はなく、本作は看板に偽りなしの「しん次元」を堪能できる挑戦的なアニメ映画に仕上がっている。だが、それとはまた別の意味で、本作は挑戦的な作品だった。ギャグは冴えておらず滑りぎみで、全体を通して爽快感やスペクタクルには欠ける出来であったとはいえ、日本が落ち目であることを認め、非正規雇用の増加に代表される社会問題を取り扱うことを試みた意欲作であった。以下、本稿ではあらすじや台詞の確認のため、適宜ノベライズ版(双葉社ジュニア文庫、2023年)を参照した。映画脚本との細かな異同は確認できていないが、あらかじめご了承いただきたい。

 いまや、『クレヨンしんちゃん』は日本の国民的函数と言うべきブランドになっている。そこに投げ入れられた題材は『クレヨンしんちゃん』流に処理されて、そのときどきの子供たちに向けたエンタメおよびメッセージとして出力され、ときに大人たちに向けても予期せぬエコーとなって響きわたる。この函数に非正規雇用の増加といった社会問題、いや自民党の政治問題に起因する社会不安を投入したら、どのようなアウトプットがありうるだろうか。本稿で取り上げる『超能力大決戦』が挑んだのは、このややもすると暗澹とした結論を導きかねない問いであった。本作の物語は、大予言者ノストラダムス――の隣町に住むヌスットラダマスの予言書に記されたとおり、2023年のある夜、宇宙から暗黒の光と白い光が飛来するシーンから始まる。二つの光のうち、白い光は野原家に降り注ぎ、しんのすけとひまわりの兄妹を超能力者に変える。これに対して、暗黒の光は街へ向かい、30歳の派遣社員で、地下アイドルの応援もとい「接近」に熱を上げる男性・非理谷ひりやみつる(CV: 松坂桃李)に命中する。彼は暗黒のエスパーとして覚醒を遂げ、自分を見下してきた世界への復讐を誓う。超能力が開花したしんのすけは、ひょんなことから非理谷との戦いに巻き込まれ、世界の命運は嵐を呼ぶ園児に託されることになる。そんな本作には前身となるエピソードがある。原作コミック26巻をもとに制作され、2001年1月5日にテレビ放送された「エスパー兄妹 今世紀最初の決戦!」では、暗黒のエスパーとなる青年は会社をクビになったという設定で、街じゅうの「一流」企業の高層ビルから「三流」とされている双葉商事のビルにいたるまで破壊のかぎりを尽くす。これに対して、非理谷は非正規雇用の派遣社員という設定に切り替わっており、制作された時期と問題意識の違いが際立っている(ちなみに、第1次小泉内閣は2001年4月26日に組閣されている。その後の労働関連法制の規制緩和については、下掲の現代ビジネス記事がわかりやすい)。

 『超能力大決戦』の悪役を務める非理谷充の名前は、明らかに「リア充」の否定形である「非リア充」から取られている。「リア充」とは「リアルの生活が充実している」者を指す俗語であるが、「死ね」や「爆発しろ」といったネガティブなコロケーションを持つことからもわかるように、使われ始めた当初は、友達・地元の仲間・恋人などと仲良く楽しげに過ごす者たちを軽薄だとみなす僻み根性を色濃く帯びていた。そして、「リア充」が自称ではなく揶揄に使われがちなのとは裏腹に、「リア充」を妬む視線を持つ主体は自分を「非リア充」とラベリングして卑下する傾向にある(昨今脚光を浴びている「弱者男性」の用法についても同様の傾向が認められる)。したがって、非理谷充というネーミングは、本作の悪役を僻み根性と劣等感の象徴として描こうとする宣言だと受け取ることができる。

 非理谷は駅前でのティッシュ配りの最中に、スーツ姿の若者から「いい歳してなんにもできねえくせによ! ちゃんと働け!!」と凄まれ(ノベライズ版16頁)、一緒に食事に行ったり家の前まで送ったりする関係になっていた地下アイドルの結婚・引退報告に打ちひしがれ、挙句の果てに強盗事件の犯人と間違われて警察に追われるなど、散々な目に遭う。非理谷は「俺には人に見せられる幸せなんかひとつもないのに」(ノベライズ版60頁)、「誰だ……誰が俺をこんなふうにした……」(ノベライズ版61頁)とひとりごちるなど、他責思考が根深く、鬱屈した僻み根性と劣等感に浸かりきっている。そんな自己肯定感の低い男性が保育士のコスプレをしている地下アイドルの色恋営業に搦め捕られ、地下アイドルと「繋がった」と思い込む様子は憐れを誘う。非理谷は暗黒のエスパーとして覚醒した後も、ご執心だった保育士コスプレアイドルの面影を求めてさまよい、本物の保育士がいる保育園に吸い寄せられていく。彼は保育士と園児を人質にとって保育園に立てこもり、園児に「お前らにマトモな未来なんてねえからな」、「この国はな、もうお先真っ暗なんだよ。経済も行きづまって、会社はどんどんつぶれて、大人たちは自分が生きのびることで精一杯で、下の世代のことなんて考えてる余裕もねえ。お前らの夢なんて、絶対にかなわないからな!」などと暴言を吐き(ノベライズ版73頁)、超能力を使って園児に暴行を加える。こうした犯行はすべて行き当たりばったりであり、非理谷の抱える卑屈さと無気力感、その下で抑圧された怒りが爆発的に噴き出しているように見えて、恐ろしくも悲哀を感じさせてやまない。

 しかし、重要なことだが、非理谷は悪賢い思想犯にはなりきれない人物だ。本作の中盤では、「ヌスットラダマス二世」を名乗り、社会に絶望した若者を集めて「令和てんぷく団」を組織した黒幕が登場する。彼は保育園を脱出した非理谷に対して、「新ウィルス蔓延、超少子化、ハイパー高齢化、自治体崩壊、社会保障制度破綻、食料争奪戦……すべてこれから五十年の間に確実に起こることだ。この国に未来などない。そんな国は早めになくなってしまったほうが、よくないか?」と語りかけ(ノベライズ版105頁)、社会に絶望した若者の負のエネルギーを用いた国家転覆計画を明かす。この唆しに対して、非理谷は「そりゃ、こんな国クソだと俺も思ってるけどさ」とは返しているものの(同上)、ヌスットラダマス二世の主張に完全に賛同しているわけではなく、突拍子もない計画に引いた様子すら見せている。このシーンから推察するに、非理谷が園児に「この国はな、もうお先真っ暗なんだよ」と言っていたとき(ノベライズ版73頁)、彼は大きな構造や社会問題を俯瞰して発言していたわけではなく、ままならない現実のなかでもがき苦しむ一人の当事者として、自分を苦しめるものを攻撃していたにすぎなかったと言える。ここには、狡猾な大人の甘言につられて、特殊詐欺の受け子や強盗事件の実行犯として利用されてしまう若年層の問題も見え隠れする。

 前述のとおり、『超能力大決戦』は非理谷のような自暴自棄の人間が生み出される背景に大きな政治問題・社会不安が控えていることを示唆している。『クレヨンしんちゃん』が幅広い視聴者を獲得しているブランドであればこそ、実在の社会問題から出発しつつも、それに対して安易な解決策を提示せず、順当な反応を示すにとどめることの意義は計り知れない。その傍証として、少し回り道にはなるが、『クレヨンしんちゃん』シリーズの他の作品を分析することにする。『超能力大決戦』の比較対象にふさわしいと私が考えるのは、『ガチンコ!逆襲のロボとーちゃん』(2014年、以下『ロボとーちゃん』と略記)である。なぜなら、『ロボとーちゃん』は実在しない社会問題を捏造して、視聴者をして深いことを考えたつもり、わかったつもりにさせる賢しらな作品であり、『超能力大決戦』と好対照をなすからだ。『ロボとーちゃん』は序盤で、家庭に居場所がない父親たちが公園にたむろする様子や、公園でも見知らぬ母親たちから邪険に扱われ、公園から追い立てられる様子を描くことによって、安住の地のない、女性から虐げられる弱い父親像を提示する。そのうえで、父親の弱体化へのプロテストとして頑固親父による亭主関白を復権させようと目論む「父ゆれ同盟」を悪役に設定し、この「父ゆれ同盟」が春日部を混乱に陥れるさまを描き出す。しかし、亭主関白なるものの復権によって何が達成されるのかは一切不明であり、「父ゆれ同盟」の街宣は妻と娘から邪険にされたという総裁の私怨に煽動された、被害者意識を募らせた(今風に言えば「弱者男性」的な)父親たちによる女性への攻撃衝動の具現化でしかない。きわめてグロテスクなことに、「父ゆれ同盟」は女性専用車両や映画館のレディースデーを実力によって占拠するが、こうした行動はインターネットで嫌がらせトロール行為に勤しむアンチフェミニストや、現実に一般社団法人Colaboの「バスカフェ」に突撃する迷惑系インフルエンサーの「カウンター」活動と大差ない。

 さらに悪いことに、『ロボとーちゃん』は視聴者に尻尾を掴ませないよう、本気を感じさせない冷笑的で小賢しい演出を採用している。「父ゆれ同盟」の総裁はマッチョな主張のわりに、金属製のロボットを遠隔操縦したり巨大ロボットという装甲をまとったりしなければ他人に強く出ることができない情けない男性だし、総裁の部下でロボットを開発した科学者も人前でうまく喋れない挙動不審な男性である。しかも、その二人に寄り添ったふうを見せるのがセクシーな姿態を武器にするトロフィー的女性であるから、二人の自信のなさはますます際立つ。加えて、総裁がアジトでいまや女性を舞台から排除する芸能となっている歌舞伎を思わせる見得を切ることも相まって、彼らの主張や思想が滑稽に見えるように調整されてはいる。だが、よく考えればこの演出はきわめてマッチポンプ的である。脚本家が頭のなかで組み上げた机上の空論を自ら否定してドラマをつくっているのか、制作陣の偏った観測範囲に起因する歪んだ認識がうっかり顔を出してしまったのかはわからないが、いずれにせよ外側からのインプットに対して真摯に反応することを避けているのはいただけない。『ロボとーちゃん』は、実在の社会問題に目を向けることなく、「男性差別」または「女尊男卑」といった女性蔑視的な偏見や事実誤認を極大化して垂れ流すことに終始しており、フィクションの持つレバレッジ効果を逆用した問題はあまりに大きいと言わなければならない。

 これに対して、『超能力大決戦』はあくまで実在の社会問題を起点に物語を組み上げており、出来映えはともかく、姿勢として誠実ではあると評価することができる。だが同時に、本作は非理谷がうまくいかない原因を幼少期のトラウマや親との不和といった個別事情にも求めたため、非理谷の僻み根性や劣等感が実際のところ何に起因するのかがぼやけてしまい、実在の社会問題と非理谷の暴走とのあいだの論理的な連関が不明確になったという難点も抱えている。本作の終盤で、ヌスットラダマス二世の差し金で巨大なモンスターと化した非理谷に取り込まれたしんのすけは、幼少期の非理谷と対面を果たす。そこで初めて、非理谷が両親の愛情を十分に受けずに育ったこと、学校でたびたびいじめの標的になってきたこと、両親の離婚を経験して自暴自棄となったことが時系列で明かされていく。しんのすけは孤独な非理谷の成長過程に早回しで寄り添いながら、非理谷のこわばった心を少しずつ解かしていく。そして、しんのすけは非理谷を「仲間」と呼び、非理谷とタッグを組んで、非理谷の心を苛み続けるいじめっ子の影に立ち向かう。こうして、非理谷は自分の変えられない過去を受け止め、暗黒の光の力を振り切って正気を取り戻す。結局、非理谷がしんのすけの力を借りて向き合い、乗り越えるべきは、すでに手の届く範囲にはいないのにいつまでも執着していた心のなかのいじめっ子だったというわけだから、本作は「超能力」を冠するタイトルに反して堅実かつ素直なカウンセリング映画だったとは言える。なお、非理谷は両親の離婚に際して、「俺はひとりで生きていく」と涙ながらにつぶやき、家族・恋人・友達をつくることを拒絶し、「キレイなおねいさん」とだって知り合いたくないと叫んでいた(ノベライズ版176頁)。そんな愛情に飢えた男性が保育士コスプレアイドルに入れ揚げてしまうのも、自分の恵まれない過去に囚われていたからなのである。

 「すべては気の持ちよう」とでも言いたげな本作の幕切れに、納得できない人も多いかもしれない。たしかに、モンスター非理谷との戦いを終局に導く最後のキーアイテムが「悪臭を放つふたつの黒い毒玉」(ノベライズ版196頁)、すなわちしんのすけの父・ひろしの靴下であり、これが「家族の幸せのために一生懸命働きつづける、汗と涙の結晶」(ノベライズ版210頁)と総括され、「たったひとりでも自分を理解してくれて、困ったときに助けてくれる友達や仲間がいれば、人は変われる」(ノベライズ版213頁)、「この国の未来はたしかに明るくないかもしれない。でも、君もしんのすけもひまわりも、みんなそれでも生きていかなければならないんだよ。がんばれ」(ノベライズ版218頁)、「君はこれから、自分を幸せにすることより、誰かを幸せにしようと思え。そうすればな、すっごくがんばれる。誰かを幸せにすれば、自分も幸せになれる」(同上)といったメッセージが立て続けに流れてくると、つらい状況や時代にあっても捉え方次第で人生は好転するといった自己啓発的な考え方が、家庭を持つことをよしとする価値観とともに押し寄せてくるように感じるのは否めない。自分が就職氷河期世代に該当すると認識している人や、「親ガチャ」に失敗したと思っている人にとっては、こうしたメッセージは受け入れがたいかもしれない。しかし、一つだけ確かなことは、どれだけ社会福祉が行き届こうが、どれだけ恵まれた家庭環境に生まれようが、人間がモノのように目的をもってつくられるわけではない以上、国もコミュニティも親もあなたの人生の操縦かんを握ってはくれないということだ。自分の人生の操縦桿は自分で握らなければならない。社会福祉と自助努力は二者択一ではなく両立する。

 しかし、そうはいっても、『超能力大決戦』の発する「がんばれ」という通俗的なメッセージをやはり押しつけがましく、息苦しく感じる人は少なくないだろう。厚生労働省の公表する『令和5年版 厚生労働白書』によると、「雇用者の共働き世帯」の数が「男性雇用者と無業の妻からなる世帯」(専業主婦世帯)の数を初めて上回ったのは1992年のことで、1997年以降はつねに前者が後者を上回り、直近のデータでは前者は後者の約2.3倍にものぼっている。専業主婦世帯が減少の一途を辿る一方で、2040年には50歳時の未婚割合は男性で約29%、女性で約19%に達すると見込まれている(『令和5年版 厚生労働白書』、148-149頁)。また、『令和2年版 厚生労働白書』によると、非正規雇用労働者の数は1989年から2019年にかけて総数で約2.6倍に増えており、その割合も4割に迫っている(『令和2年版 厚生労働白書』、36-37頁)。しかも、就職氷河期世代は2023年時点で分厚い40代を構成している。このような状況にあっては、「自分を幸せにすることより、誰かを幸せにしようと思え」と言われても、時代錯誤の空虚なメッセージに聞こえてしまう人がいるのは避けられない。

 ここで、もう一つの比較対象として提示するのが、『嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』(2001年、以下『オトナ帝国』と略記)である。『オトナ帝国』には、「20世紀」なる仮想の原風景に立てこもり、家族とともに新世紀へ踏み出そうとする者たちを阻止しようとするアベックが悪役として登場する。この悪役の野望を打ち砕き、夢から醒めて現実へ回帰するためのキーアイテムとなるのが、ひろしの靴である。長時間通勤電車に揺られて出勤し、家族のために夜遅くまで身を粉にして働くことによって醸成された「今の匂い」(サラリーマンの靴の悪臭)が「昔の匂い」(ノスタルジー)をかき消す――かかる『オトナ帝国』の展開は、『超能力大決戦』が悪臭を放つひろしの靴下を「家族の幸せのために一生懸命働きつづける、汗と涙の結晶」と評したのと重なって見える。さらに『オトナ帝国』において、ひろしは悪役の二人に対して、「俺の人生はつまらなくなんかない……家族がいる幸せを、あんたたちにも分けてやりたいくらいだぜ」と言い放っている。このように、『オトナ帝国』と『超能力大決戦』には筋書きや台詞のうえで類似した点が認められるが、作品の帯びている説得力には差異があるように見受けられる。この差異は、『クレヨンしんちゃん』の登場人物の年齢が固定されていることに起因している。しんのすけはつねに5年前に生まれた子供であり続け、ひろしも2001年であろうが2023年であろうが35歳のサラリーマンであり続けている。『オトナ帝国』において、ひろしは1966年生まれの純然たる昭和40年代男であった。だから劇中で、ひろしが1970年の大阪万博に行ったことがあっても、ウルトラマンに憧れていても不自然には見えない(昭和第2期ウルトラシリーズは1971~1975年に放送されている)。2001年の時点ではまだギリギリ、35歳のサラリーマンが郊外にマイホームとマイカーを持ち、専業主婦世帯の大黒柱として二人の子供をもうけることに一定のリアリティは保たれていた。しかし、2023年になれば、現実の1966年生まれは57歳になっているわけで、1988年生まれ(私よりわずか2歳年上!)にスライドしたひろしが「がんばれ」と至極普通のことを言っても、時代錯誤のアラカンの説教に聞こえてしまうという事故が起こってしまう(なお、ノベライズ版71頁にも見られる「我々の世代にとってこの車に乗れるのは夢のようですが……」というひろしの台詞も、彼が2023年の時点で35歳であるという設定の無理を露呈させている)。これをもって、『クレヨンしんちゃん』という箱庭の耐用年数が限界を迎えていると結論づけるのは時期尚早かもしれないが、『超能力大決戦』が実在の社会問題から出発したことによって、箱庭を外側からガタガタ揺らして軋ませているのは事実であろう。

 このように不出来な点が認められるにもかかわらず、私は「がんばれ」というメッセージを至極普通のことだと受け取っている。そうである以上は、私も「通俗道徳のわな」にはまっているとの批判を免れないのかもしれない。通俗道徳とは、日本近代史研究者の松沢裕作によると、「人が貧困に陥るのは、その人の努力が足りないからだ、という考え方」である(松沢裕作『生きづらい明治社会:不安と競争の時代』岩波ジュニア新書、2018年、71-72頁)。松沢は明治時代の分析をとおして次のように述べているが、この記述は現代の非正規雇用労働者について語る場合にも大いに参考になる。

 通俗道徳をみんなが信じることによって、すべてが当人の努力の問題にされてしまいます。その結果、努力したのに貧困に陥ってしまう人たちに対して、人びとは冷たい視線を向けるようになります。そればかりではありません。道徳的に正しいおこないをしていればかならず成功する、とみんなが信じているならば、反対に、失敗した人は努力をしなかった人である、ということになります。経済的な敗者は、道徳的な敗者にもなってしまい、「ダメ人間」であるという烙印をおされます。

(同書73頁)

 しかしながら、自助努力と成功を単線的に結びつけ、落伍者を努力不足と責め立て、人々を終わりのない自助努力へ差し向ける「通俗道徳のわな」を批判することは容易ではない。松沢も指摘しているように、「通俗道徳のわな」にあえて逆らい、無頼漢として振る舞ったところで、それを見て無頼漢に憧れる者は少なく、「人のふり見て我がふり直」す効果を生じさせるのが落ちである。それは結局、「通俗道徳のわな」を強化することになりかねない(同書136-140頁)。仮に自暴自棄の人間が自爆テロのような攻撃を繰り返して体制を破壊したとしても、未来をどうするのか、何を理想として打ち立てるのかといったビジョンはそこには伴わない。そのような破れかぶれの行いは残念ながら迷惑行為としか受け取られず、ポジティブに社会を動かす梃子として機能することはないだろう。結局、残された方法は自助努力を他人に強いる、結果偏重の「通俗道徳のわな」を批判しつつも、ひたむきに努力することの価値自体は否定しないという難しい舵取りしかない。意図的かどうかはともかく、努力そのものを斜に構えて腐してみせる向きには警戒が必要である。そのようなことを言っている人は、真に受けた人が失敗しても何の責任も取らないし、実は陰で努力を重ねていることを狡猾に隠している可能性さえあるのだ。繰り返しになるが、自分の人生の操縦桿は自分で握らなければならない。

 そろそろ話をまとめることにする。『超能力大決戦』は端的に言えば、非理谷が自分の人生の操縦桿を握り直す物語だ。非理谷はつらい記憶に満ちた過去を変えて別人になったわけではない。言うまでもなく、何人なんぴとたりとも過去は変えられないのであり、人はつねに過去を反省しつつも未来に向かって不可逆に運ばれていくことしかできない。とはいえ、非理谷一人が過去と対峙して改心し、自分の考え方や生き方を見直したとしても、ヌスットラダマス二世が声高に主張していたような数々の問題が直ちに解消されるわけではない。本作は多形的な社会問題を「がんばれ」という精神論で解決したわけではなく、むしろ実在の問題を温存したわけだが、実はその点にこそ価値が認められる。なぜなら、非正規雇用の増加をはじめとするこれらの難問はフィクションや思考実験のなかで都合よく解決されるべきものではなく、視聴者一人ひとりが本作を見て感じた違和感や物足りなさを現実に持ち帰り、現実を変えるための行動に昇華することによって少しずつ解決の糸口が見えてくるたぐいのものだからである。そして、現実を変える第一歩はまず自分が考え方や生き方を変えることである。本作は視聴者をして深いことを考えたつもり、わかったつもりにさせるのではなく、深いことを考えて行動に移す準備を促す映画であり、決して現状肯定・既成事実への屈服・時代への迎合を推奨するものだと誤解してはいけない。本作は「お先真っ暗」の状況にあっても、未来志向で努力すること自体の大切さや美しさを否定してはならず、決して未来を諦めてはいけないという力強いエールを視聴者に送っている。これをどう受け継いで広げていくかは視聴者一人ひとりに委ねられている。そう思うと、「君たちはどう生きるか」という国民的タイトルは、本作にも妥当するのかもしれない。

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本作はある種の二正面作戦を敢行している。競争相手ありきの自助努力を自分との戦いで撃つことで、努力したくない/努力せずに認められたいという幼児的な自己愛と、努力して現下の体制(特に資本主義)に順応してやるというイキリの双方を批判対象に含めている。

昨今、転職や副業はもはや珍しい事象ではなくなっているが、かかる流動的な環境で働いている人間が幸福を感じているのかについては大きく疑問が残る。もちろん、一箇所の「職場」で徹底的な試行錯誤を重ね、創造的な「職場」の共創に主体的に関わる姿勢を支持するのは、人間が残酷にも「自由の刑に処せられている」ことを肯定的に評価することでもある。だが、それは必ずしも孤独に耐えることや苦悩を甘受することを意味しない。何となれば、「職場」で心理的安全性を向上させる過程で「甘える」相手ができる可能性はゼロではないのだから。

参考文献

松沢裕作『生きづらい明治社会:不安と競争の時代』岩波ジュニア新書、2018年。

吉野源三郎『君たちはどう生きるか』岩波文庫、1982年。

『しん次元!クレヨンしんちゃん THE MOVIE 超能力大決戦~とべとべ手巻き寿司~』双葉社ジュニア文庫、2023年。

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