無理解の果て
#1
ずっと分からないことがある。
「必要、最善なことは常に今に起きている。逃げずにきちんと向き合い続ければ、過去の自分も癒される。この世はそんなにむずかしくない」
「今の場所で戦え。賢くなるな。分かろうとするな。なにかもわからず戦った先で見えてくるものがある。見えた先に大きな運命が待っている」
ふとYouTubeを見ていて、発言している人がいた。
わたしはなぜかこの発言に対し、違和感を覚えたので、
ない頭なりに考えてみることにした。
#2
ドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」が真っ先に思い浮かんだ。もはや作品名が一つの名言みたい、なんて考えていると、どうもハンガリーのことわざらしい。
私なりの解釈として、「自分の戦う場所を選べ」とは、『自分の主戦場は、ここではないどこかにある。そのために今いる場所が辛すぎたり、うまくいかないことが多いなら、ここではない、他の場所で戦うために居場所を変えるというポジティブな考え方』そう捉えていることを前提として話を進めたい。
周囲の人間や私のこれまでの人生を思い返す中で、発言に対し違和感を覚えるのは、私が「逃げるは恥だが役に立つ」という考えに共感を覚えるからだろう。生き方のひとつとしての知恵のようなものだと思う。
#3
大前提として人は、生まれてくる親や環境、時代は選べない。「目の前のことは乗り越えるためにある。乗り越えられない壁を神は与えない。それが世の真理だ。」と言われたところで、本人の力ではどうすることもできない、どうにかしようものなら、苦しくなりすぎて、死を感じざるを得ないという状況なんて数えきれないほどである。
人によっては、限界点を超えすぎて死を選んでしまったり、体調が悪くなってしまったり、トラウマのようになってしまったりと色々なパターンが考えられる。
家族を例に考えてみよう。たとえば両親が、未だ承認を他者に求めているため、子に対し、過度に支配的だったとする。子は大人以上に敏感なため、両親を助けようとしたり、うまく振る舞おうと演じたりする。そうして大きくなった子は、自由や愛といった概念がよくわからないまま大人になる。
そうして大人になって、仕事をしたり、恋をしたり、友達を作って人間関係を築いていく。しかし、自由や愛を正しく理解できないままに大人になるので、人との距離感が近すぎたり、遠すぎたりと極端になってしまう。
また繊細なやさしい人なのだとしたら、下心のある人や人から奪うことしか頭にない人の餌食になったりすることもあるだろう。
そもそも子は親に承認されるという過程を経て、適切な自己愛を育てていく。そうした子たちは、他者との適切な距離感を理解し、人と適切な距離間を築いたり、向き合い方ができるように、またはしやすくなる。
長くなってしまった、話を戻そう。
親や環境、時代が選べるのなら、必要なことは今に起きていると言われてもまだ理解できる。なぜなら、自分に選択するという自由があるからだ。自分の意思に基づき、判断を下せる。
しかし、現実はそうではない。置かれた環境は個々で違う。
環境が違う故に発生する、自己愛の認識の違いも生まれる。
自分の愛し方を知らないまま大人になった者は、成功者たちが口にする、「この世は必要なことしか起きない。だから置かれた場所から逃げるな。乗り越えられない壁など神は与えない。」という言葉を目にする。
言葉を間に受け、繊細なやさしい人たちは一生懸命頑張る。何度傷つけられ、痛めつけられても、罵られ、おかしいと言われ続けても、ひとりで静かに頑張っている。
それはかつて、自分の愛し方を知らなかった不器用な親のために今も頑張っている。承認されたかった本当の相手にいつか認めてもらえるように。
自分の愛し方を知らない者。自分は承認されないまま、だれかのために頑張り続けている人。
自分の愛し方を知っている者。自分は世界に承認され、自分のために頑張り続けている人。
前者と後者に、
「必要、最善なことは常に今に起きている。逃げずにきちんと向き合い続ければ、過去の自分も癒される。この世はそんなにむずかしくない」
「今の場所で戦え。賢くなるな。分かろうとするな。なにかもわからず戦った先で見えてくるものがある。見えた先に大きな運命が待っている」
この言葉を投げかけると、どうなるだろうか。
前者は自分の愛し方が分からないから、逃げずに向き合えと言われても、その向き合い方がわからない。言葉の意味がよくわからない。たとえ状況から逃げずに戦い続けたとしても、繊細でやさしい人たちは、相手に原因があるのではなく、自分が悪いと感じてしまったり、他人に傷をつけない代わりに、自身を痛めつけてしまうかもしれない。
後者は自分の愛し方を知っているから、逃げずに向き合うということが、自分と戦い、自分から逃げずに向き合うということを理解した上で、目の前の問題に対処できる。
言葉は受取る側によって意味が異なるのは当然である。
だが、自分の愛し方を知らない者へ向けられてしまった場合、それは時に眼前に刃物を突きつけるような形になってしまうのではないかと思ってしまったのだ。
私は前者のような人たちを身近に見たことがある。
自分の愛し方を知らないまま頑張り続けた者は、皆自分を痛めつけ、迷路に入り、どうすればいいのかが分からないでいた。いろんな言葉に出会っても、もっと頑張れと言われているようにしか聞こえず、これ以上なにをどう頑張れば良いのかがわからない。
その頑張りは、自分の感情に蓋をし、自分より相手を尊重、優遇するという方向へ向けられていた。相手のことを人一倍考え、行動していた人たちであった。
そんなだれよりも与えられる人たちが、傷つき、自分の愛し方を知っている者から発せられる言葉に出会い、また傷つくのだ。
人間にとって当然の、平等に与えられている感情。
自然に湧き出てくる感情に蓋をしなければ、家族仲を保つことができなかった。誰かの感情を代わりに感じてあげること、また問題を対処する人が、家族の中であなた以外にいなかった。そうして感情を感じないようにし続けていると、いつのまにか感情は抑えつけられ、感情を感じるという当たり前の行為ができなくなってしまう。心は硬くなり、自分がどう感じているのかさえ、自分でわからなくなってしまう。
#4
動画で出会った言葉に反発を覚えたのは、人間は経験したことや、身近に起きた問題でなければ、なにも分からないという当たり前さに鬱陶しさを感じたからなのかもしれない。
「乗り越えられない壁はない」という言葉の無責任さ、鬱陶しさ、暑苦しさ。時代遅れ感。
自分に関係がないから吐ける言葉。
経験していないことはすべて自分の想像でしかない。
経験した人のすべてをわかった気になって吐ける言葉。
相手を聴こうとしないから出る傲慢さ。
聴こうとしないで、
咄嗟に出る解決に繋がらない言葉。
たとえあの言葉が、成功者の常識であったとしても、これからの時代の言葉ではないと私は思ってしまう。私が未熟者だから反発したくなるだけなのだろうか。わからない。
むしろこれからは、他人を考えすぎる故に、自分がわからなくなっていった人の輝く時代が来ると思っている。
自分の本当の名を思い出し、自身の魅力に気がつく。
魅力に気がついた者は、これまでの体験、どう考えれば生きやすくなったのかについてシェアしようとしたり、なにかに昇華して表現者となったりするだろう。
その光に魅せられた人々は、また自分の名を思い出し、自身の魅力に気がついていくだろう。
こうした循環が、これから加速していくと信じているし、
そうなっていく社会になることを望んでいるし、そうなっていくんだと強く信じたい。
2024.3.1
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?