『アラブ、祈りとしての文学』岡真理
はじめに:文学作品の存在意義とは
今回も、女史の敬愛する、アラブ文学者岡真理さんの作品について述べる。
テーマは文学作品の意義だ。前回女史が紹介した、『ガザに地下鉄が走る日』とは切り口の異なる作品だが、岡真理さんらしい、フィールドワークへの熱意とアラブ諸国への深い知見が存分に詰まっている。
戦争、内線、国家間の経済・政治における闘争、企業間競争etc...世の中は、暴力的もしくは非暴力的な争いに満ち溢れている。このような世界の中で、果たして文学作品なぞ存在する意味があるのか。これが本書のテーマだ。
文学作品と言われると、長文小説、短編小説、詩、映画など、色々なものが思い浮かぶ。きっと女史の読者様たちも、こういう文学作品が大好きに違いない。女史も大好きだ。
しかし、ここで文学作品の存在意義に関する岡さんの葛藤が始まる。文学作品は、存在する意味があるのか?文学作品には、学問書のように、科学的根拠に裏付けられた仮説検証があるわけではない。本屋でよく見る自己啓発本のように、読者に明確に行動指針やマインドセットを提示するわけでもない。文学作品を読んだからと言って、金を稼げるコツなんて身につかない。
岡さんは、そのアラブ文学やパレスチナ等中東諸国におけるフィールドワークの経験から、”ペンよりもダイナマイトや銃が力をもつのではないか”とまで記載している。
岡さんは、このような争いに溢れた世界の中だからこそ、文学者として、文学作品の存在意義を再度証明していく。
*岡真理さんの著作、『ガザに地下鉄が走る日』岡真理についてのサマリと意見が気になる人はこれもチェックしてみてくれ。
その際、女史のnote記事の読み方はこちらを参考にしてほしい。
文学作品とは:祈り
文学作品とは、祈りである。
戦争や差別等、様々なテーマを持つ文学作品が存在する。
それらは、”その惨状の場にいない者、いなかった者達が、当事者達に捧げる祈りである”、と岡さんは定義する。
”祈り”とは、当事者ではない者が、当事者の実情を知った上で、彼らに共鳴する意思表示の手段である。
例えば、東日本大震災を想像して欲しい。毎年3月11日が来ると、当事者も当事者でない人も、黙祷をしたりするのではなかろうか。震災を経験したことでない人でさえ、被災者の皆様の心境を微小ながらも感じ、共感し、祈る。
共鳴とは、ここで言う、被災者の皆様の心境を微小ながらでも感じることである。
そして、文学作品とは、共鳴していることを表すための黙祷と同じである。
故に、文学作品とは、”祈り”なのである。
文学作品にのみできること:空想を描く
ここでは、祈りとしての文学作品の存在意義を証明するために、文学作品の最大の利点を描きたい。
ある事象の当事者に共鳴したいとすれば、文学作品以外にも、テレビニュースや新聞記事等のジャーナリズムも共鳴の手段となるのではないか。
その通りである。世界には、非常に高い志を持ったジャーナリストが存在し、命を懸けてまで、世界の実情を我々に知らせようとしてくれる。一時期話題になった”戦争カメラマン”もその一人だ。彼らは間違いなく、世界のありとあらゆる闘争の被害者に共感し、共鳴し、祈っている。
ただし、文学作品とジャーナリズムの最大の違いは、文学作品が空想を描くことができる点だ。文学作品の冒頭に”この話はフィクションです”という注意書きをよく見るだろう。文学作品とは、実際には存在しなかった事象、人物を、経験をせずとも題材にすることができるのだ。
これが文学作品の最大の特徴である。当事者に共鳴し、自分の願いを自由に作品に込め、祈ることができる。そして、それは読者の情緒に強く訴えることができる。
現実世界では国民全員が不幸になったとある戦争の中で、小さなハッピーエンドを描くことができる。読者は、戦争の痛みと少しだけ幸福を心に感じる。
現実世界では権力を持っていて立派な政治家を、面白おかしく描くことができる。読者は、権力への怒りとたくさんの笑いを心に感じる。
これが、文学作品で祈りを捧げる際の最大の利点であり、存在する意義である。
祈りを捧げるために:知る努力
最後に、文学作品によって祈りを捧げるために必須な、”下準備”について述べたい。
これを読んでいる皆様に、今から小説を書いて欲しい。と、女史が言ったら、皆さんは何を書くか。自分の話、家族や友達の話、旅行での出来事、関心のあるスポーツ、自然災害、 etc... 色々思い浮かぶことだろう。そして、皆様の心に思い浮かんだ事柄はおそらく、皆様が非常によく知っている事柄であるはずだ。
つまり、文学作品を書くには、とある出来事やその当事者を、詳しく知っておく必要があるのだ。”知る努力”が、文学作品を作る上で、非常に重要な過程なのである。
岡さんが文中で紹介するアラブ文学作品の多くは、出来事と当事者の特徴をしっかりと捉え、読者の心を鷲掴みにするような作品だ。
それは、その著者たちが、文献を読み込み、実際に現地に赴き、当事者に密着し、心の底から彼らを知ろうと試みたからだ。
祈りを捧げるために、相手を知る努力が必要なのだ、と著者は述べる。
文学作品をただ読むだけでは、筆者たちのこれらの努力は見えない。しかし、この努力なしには文学作品は存在しえないのだ。
おわりに:無関心は罪
女史は、文学作品によって祈りを捧げるための”相手を知る努力”が、岡先生のキーメッセージであると感じた。
”無関心は罪”である、と女史は心に刻み込んで生活している。物事や個々人に関心を持たなければ、身の回りの出来事の存在に気づけない。
前回の『ガザに地下鉄が走る日』の記事でも述べたが、例えば遠いパレスチナで男性がイスラエル人に殺されたニュースを気にする人が日本に何人いるだろうか。自分には関係ない、日本から遠い国の話だから関係ない、自分の仕事に影響しないから関係ない、知る必要はない、興味もない、知りたくもない。我々は、多かれ少なかれ、こういうことを思って生きている。
人間とは、意識して自分の思考を変えようとしなければ、無関心という波に飲み込まれてしまうのだ。
波に飲み込まれると、他人への共感なんてそっちのけで、自己利益をひたすら貪る人間ができあがる。
そして、世界がこれほど争いに満ちているのは、多くの人が無関心という波に飲み込まれてしまっているからだ、と女史は思う。
女史の記事を読んでくださっている方は、そのような波に抗って生きている人達だと思う。本当に尊いことであるし、今後も是非、女史と共に無関心の波と戦ってほしい。
ここまで読んでみて、岡真理さんが気になり始めた人は、ぜひこちらの記事『ガザに地下鉄が走る日』岡真理についてのサマリと意見をチェックしてくれ。
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