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女史と読者のnoteの使い方


はじめに

今回は、異郷から来た女史がどのようにnoteを使用していくか、そして、読者は女史のnoteをどのように読めばよいか、という2視点を定義していきたい。定義を設けておくことで、不要な認識の相違を防げるからだ。

*異郷から来た女史とは誰か、気になる人はまずこれを読んでくれ。

女史自身がNoteをどう使うか:自身の知識発展

女史は、このnoteを女史自身の知識の発展を大目標として使用する。そしてこの大目標を達成するための手段は下記だ。

・読書内容のサマリ、女史の意見(女史は年間およそ200冊読書する)  カテゴリ:経営学、経済学、哲学、政治、歴史、イスラエル が主

・社会問題や事象のサマリ、女史の意見

・コンサル業界の実情、女史の意見

以上だ。無論のこと、後々新たな手段が追加される可能性は大いにある。

この手段群には、必ず「女史の意見」との記載がある。これは、女史が、外部知識を吸収し、自分の脳内で咀嚼、既存知識とブレンドした上で吐き出すという過程に重きを置いているからだ。この過程を繰り返すことで、女史の大目標である知識の発展が行われるのである。

そしてこの過程は、人間社会に対する多くの痛烈な批判を含んでいることが多い点も注目してほしい。これらの過程は全て、女史の敬愛してやまない科学哲学者カール・ポパーが知識発展に関して述べた、反証主義及び批判的合理主義に基づくものである。

*ポパー先生の詳しい理論は後々女史のnoteで解説する。

以上、女史が自己内での知識発展の手段としてnoteを使用していく旨を解説した。

読者が女史のNoteをどう読むか:壮大なる事象の欠片

女史は、読者の皆様に、女史のnoteが壮大なる事象の切れ端であることを肝に刻んだうえで、女史のnoteを読んで欲しい。

カントは、人間が事象の本質を100%理解することは不可能であるとした。人間は、感覚器官を用いて目の前の事象の一部を切り取り、理解したつもりになるのである。

例えをしよう。AさんとBさんが、1つの赤くて丸いリンゴを見たとする。AさんとBさんの脳内では、寸分違わず同じリンゴが思い浮かべられているだろうか。否、実はそうではない。Aさんが見る赤色と丸さ、Bさんが見る赤色と丸さが同様であるなど、誰にも証明できないというのだ。

カントの理論を用いると、女史がnoteで述べることは、女史の感覚器官によって切り取られた、壮大な一事象のほんの一部でしかない。女史が述べる事象は、他者にしてみれば全く別物として受け取られる可能性があるわけである。

百聞は一見に如かず。女史の感覚器官で切り取られた事象を、ぜひ読者の皆様自身の感覚器官で切り取って咀嚼してみてほしい。

女史が、とあるの本のサマリ及び意見を投稿したら、是非読者の皆様も、自分自身でその本を読み、自分の感覚器官を用いて理解に努めて欲しい。なぜなら、女史のサマリや意見は、女史の感覚器官が無意識に選別した、事象の欠片であるからだ。

おわりに

本noteの2視点の定義は以上だ。女史は自身の知識発展のためにnoteを使用する。これを読む皆様には、あくまでも、事象の一部に過ぎないことを念頭において読み進めていただきたい。読者の方が、女史のnoteを見て、事象を自分自身の感覚器官で切り取ることを試みられたら、女史は非常に嬉しい。と、そういうわけである。

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