井川文文

小説。短編小説。物語。

井川文文

小説。短編小説。物語。

最近の記事

【小説】 ハルの風が吹いた。

 死んだつもりで生きようと決心したその日から、私の心に平和が訪れるようになった。平和とはなんだって感じかもしれないけど。とにかく私は、人々の行為を素直に受け取ることができるようになった。あらゆる人の心を、謙虚な喜びを持って感受できる。  時々やってくる不可思議な力は、外遊している時に私の心を締め付けた。それは外からの強い刺激に反応するらしく、私を冷笑し、押さえつけるような力が働いた。その力は目から鼻から口からも入り込み、身体中を重くする。私はグテリとしてしまうため、徐々に私の

    • 【小説】 死んだ気で生きる。

      「どうして音楽を作り続けるのですか?」  真っ白なスタジオの中。私はカメラの前に立っていた。バシャリ、バシャリと眩い閃光が目をくらませる。インタビュアーの言葉の端々から、アキちゃんに対する、初出しエピソードを引き出したいという下心が透けて見えた。  私はただ苦笑するしかなかった。 「バンドが解散されてからも、HIRONAさんは、作曲家・プロデューサーとして大変多くの楽曲を制作なさっている。その原動力をお聞かせいただければと思うのですが……?」  インタビュアーは、常に頭

      • 【小説】 本物の淋しさ。

         何を思い出したかのか、リオンくんはアキちゃんのお墓参りに行こうと言い出した。私は意味もなく、ただ、ギョッとした。 「一緒にお参りしたら、谷山さんもきっと喜ぶと思うんだ」  私はリオンくんの顔をしげしげと眺めた。一点の曇りもない。彼に「どうしたの?」と言われて、ハッとした。リオンくんは何も気づいていない。そんなことってあるの? あなたは彼女に惹かれていたのでしょう? あなたたちは互いの気持ちを分かっていたのでしょう?  ドス黒い粒子が私の心の中で吹き荒んだ。全身にバチバチ

        • 【小説】 悲しい導火線。

           式場で私たちはアキちゃんの生前について何も語ることができなかった。いや、語るほどの余裕がなかったという方が正しい。アキちゃんには家族が一人しかいなかった。母と子の二人三脚で生きてきた。我が子に先立たれた母親の前で、どんな話ができようか。私たちは、ひたすらに黙していた。  アキちゃんのお母さんは目を真っ赤に染めていたが、気丈に振る舞っていた。自宅に遺書らしきものが残されていたため、警察も自殺と処理したのだという。手紙の内容もごく簡素で、しかも抽象的な内容だった。  「私は弱い

        【小説】 ハルの風が吹いた。

        マガジン

        • バンド 【完結】
          384本
        • 人物記録
          5本
        • チャプター 【完結】
          33本

        記事

          【小説】 母と娘。

           この時の時計ほど埒のあかない遅いものはなかった。清々しい太陽を遮光カーテンで締め切ったせいで、夜明けを待っているかのように錯覚した。流石に住民からの苦情が入り、インターホンが押されることは無くなったが、家の前には報道陣が大挙しているに違いない。渦を描くような体勢で身体を丸めたまま、床から動けない。永久に夜が続く気がした。  どれだけ時間が経っても携帯電話が鳴らないことに、逆に恐ろしくなる。時の進みが鈍すぎる。砂時計をシャカシャカ振るみたいにして、時間を早めたい。何時間経った

          【小説】 母と娘。

          【小説】 血の気と、腹の虫。

           私は分別なくリビングをぐるぐる歩き回っていた。脳が無意味でもそうして動いていろと命令する。私はなにかしなければいけないと思っていた。でも、同時に、もうどうすることもできないと思っていた。ときどき、足にピチャピチャと床に濡れたココアがつく。ココアをつけた素足がリビングのフローリングを甘くしていった。  テレビ画面では、とうにニュースは終わっていた。街に出て美味しいグルメを探している。そういえば、朝ご飯を食べていなかった。その途端、腹の虫がグウとなり、私はようやく床のココアを拭

          【小説】 血の気と、腹の虫。

          【小説】 運命の恐ろしさ。

           その日の朝は、やけに静かだった。いつも聞こえてくるはずの子どもたちの声が聞こえてこない。家の前を走る車の音さえも聞こえず、静かすぎて寂しいくらいだった。朝の冷え込みが、さらに寂しさを誇張させたんだと思う。  朝にクラシックを流すのがルーティンになっていたのに、私はたまたまテレビをつけていた。消音にしていても、画面が明るくなるだけで部屋を彩ってくれる。五分ほど画面を眺めていたが、改めてテレビとは変なハコだと思った。事故のニュースが流れる。コメンテーターが物悲しそうな顔をしてる

          【小説】 運命の恐ろしさ。

          【小説】 雲の影。

           楽屋に戻ってからも、しばらく頭がボンヤリしていた。身体には疲労感があり、終演した手触りは残っているのに、ライブの記憶が抜けている。四人で宙にプカプカ浮かびながら、自分達の演奏を眺めているという妙な映像だけが残っていた。夢を見ていたかのような、奇妙な体験だった。  冗談めかして「私、ライブちゃんとできてた?」とマキコちゃんに聞くと、「何言ってんの?」と鼻で笑われた。たぶん、できていたんだと思う。  会場を出てからも、家に着いてからも不思議な浮遊感は消えなかった。耳鳴りのよう

          【小説】 雲の影。

          【小説】 俯瞰したライブ。

           身体がビリビリと震える。  ステージ奥に設置された巨大スクリーンにオープニング映像が流れると客席が揺れた。演奏前だというのに、客席は総立ちになりタオルを振り、身体をよじらせ、黄色い声を上げている。人間が持つ欲望がエネルギーとなり、大きな塊としてぶつかってくる。  人物紹介の映像に合わせて私たちがスクリーンの前に登場すると、さらに会場の熱気が高まるのを感じた。私たちは、後光に煽られながら、それぞれの持ち場につく。4つのシルエットの準備が終わると同時に映像が終わり、会場は真っ暗

          【小説】 俯瞰したライブ。

          【小説】 チグハグの開演前。

           私たちはチグハグのまま時を過ごしていた。  私はチグハグを見ないフリをしながら過ごしていた。  自分の作った曲が映画で流れ、CMにかかり、街中を歩いていても聞こえてくる。それだけで私は十分だった。自分の中での優先順位の比重が、ドラム演奏から作曲活動、プロデュース活動に移っていた。バンドでライブをすることよりも、作曲家、プロデューサーとしての活動の方がやりがいを感じ、充足感を覚えていたのだ。  知名度を獲得したことによる影響力が、ここまで追い風を吹かせるとは思っていなかった

          【小説】 チグハグの開演前。

          【小説】 波紋。

           芸能の世界は水商売だと言われたりする。それは音楽も同じこと。ミュージシャンだって、源流は一緒なんだと思うんだ。水のように掬っても実態は見えない。音楽をしているだけなのに、どうしてお金が稼げるのか。どうして人が集まるのか。人気って、どこから発生するのか。本質的には分からない。  水に石が放り込まれると波紋はどんどん広がっていくように、バンドの評判も広がっていく。風が吹いたら波が起きる。波のエネルギーは累乗されていく。  私たち『HIRON A’S』は、まさにそんな大波の中にい

          【小説】 波紋。

          【小説】 実感のない、告白。

           プロポーズされた。でも、あまり実感がなかった。  メールをもらってから数日後、同じ言葉を直接聞いた。それでも、やっぱり実感は湧いてこなかった。私は、二つ返事で「はい」と答えていた。ほとんど反射だった。リオンくんの顔には、安堵が浮かんでいた。  お互いに忙しくなり、会う時間は減っていたのにも関わらず、突然の告白。それも重大な決断を、私たちはいとも簡単に決めてしまった。とはいえすぐに婚姻届を出すとか、そんな具体的に話が進んだワケではない。たぶん「婚約」というやつだ。ここからまた

          【小説】 実感のない、告白。

          【小説】 違和感とビート。

           タオルで額の汗を拭う。大きく息を吐き、鏡に映る自分を見た。肌には張りがあり、毛穴も閉まっている。どこを見てもシワの一本も見当たらない。とはいえ、目元とほうれい線の気配は感じる。若いといっても、確実に大人へ近づいているらしい。ライブが終わっても、充足感はなかった。残っているのは空虚な疲労感だけ。そこら中から「お疲れ様でした」という声が聞こえてくる。  携帯電話を開くと、リオンくんからのメールがあった。“ライブお疲れ様、なんとか留学できそうだよ”とのこと。おめでとう。心の底から

          【小説】 違和感とビート。

          【小説】 楽しくないライブ。

           誰が見ても順風満帆なバンド人生だった。デビューして間も無く注目を浴びて、人気者になった。知名度に自分達の技術が追いつかず、苦しんだこともあったが、私たちは努力を怠らなかった。楽器には時間が刻まれる。練習の軌跡が演奏に現れる。それこそが私たちの売れた要因だとも思ってる。  誰も慢心しなかった。現状に甘んじる者が一人もいなかった。日々の積み重ねを後押しするように、大きな会場、贅沢な環境を与えられ、演奏技術は掛け算のように向上していった。もちろん、まだまだ未熟な部分はあるけれど、

          【小説】 楽しくないライブ。

          【小説】 大きな、穴。

           アキちゃんの声が戻った。しかも前よりパワーが増している。  久しぶりのスタジオ練習が終わり、バンドに活気が戻った。懐かしの空気感を共有し、昔の楽曲を何度もさらい、まるで高校時代にタイムスリップしたような感覚だった。当時の記憶と現在の自分たちの演奏技術の違いに驚いた。身体があの頃の曲を覚えていたことに驚いた。私たちはリハーサル中、どこか照れくさく、でも、ずっと笑っていた。  コミュニケーションが減っていても、たった一曲であの頃に戻れることができる。演奏すれば繋がれる。私たちは

          【小説】 大きな、穴。

          【小説】 久々のスタジオ練習。

           スネアドラムをジャジャジャンと叩く。みんな一様にアンプのつまみを捻り、エフェクタを足でガシガシ操作しながら、ギュアンギュアンと爆音を響かせていた。スタジオにキーボードはなかった。ミウがベースで、アキちゃんとマキコちゃんがギター。私がドラム。懐かしの高校時代の編成だ。 「なんか久々ー!」  轟音のなか、声を出してみたけど、誰にも届いている様子はない。各々が、過去にタイムスリップしたかのように、自分の音楽の中に入っている。特に楽器が戻ったミウとアキちゃんは、野に放たれたかの

          【小説】 久々のスタジオ練習。