見出し画像

【小説】 波紋。


 芸能の世界は水商売だと言われたりする。それは音楽も同じこと。ミュージシャンだって、源流は一緒なんだと思うんだ。水のように掬っても実態は見えない。音楽をしているだけなのに、どうしてお金が稼げるのか。どうして人が集まるのか。人気って、どこから発生するのか。本質的には分からない。
 水に石が放り込まれると波紋はどんどん広がっていくように、バンドの評判も広がっていく。風が吹いたら波が起きる。波のエネルギーは累乗されていく。
 私たち『HIRON A’S』は、まさにそんな大波の中にいた。

 アキちゃんが復帰してから、年末年始の休日を返上するようにスケジュールは真っ黒に埋まっていった。テレビ、雑誌、ラジオ、広告、あらゆる媒体に自分達の名前と顔が写される。とても運だけで駆け上がれたとは思えないほど、大きなエネルギーを感じた。“選ばれる”という感覚が近いのかもしれない。
 私たちは、社会に選ばれたのだ。
 次々に仕事が決まる。ライブやフェスだけでなく、映画の主題歌、CMソング、海外ツアーの話までもが持ち上がった。一喜一憂する暇もなく、持てる限りのパフォーマンスを出すことに必死だった。

 多忙の中だったこともあり、リオンくんとの結婚の話は駆け足で進んだ。彼の留学の日程もあり、なんとか隙間を縫って、親との挨拶の日取り、結婚後の生活の話し合いなどを重ねていく。仕事もプライベートも毎日がパニック状態だった。大荒れの渦の中に飲み込まれて、目を回しながらも、なんとか息継ぎをしながらもがいている。バンドの現状に目を向ける余裕なんてなかった。

 彼が留学にいく前日に、私たちは婚姻届を役所に提出することになった。結婚後、すぐに離れた別居生活が続いてしまうが、だからこそ彼はピアノに専念できると静かな闘志を燃やしていた。高め合える人がいる。心の拠り所があるからこそ、挑戦ができるのだ。過酷な環境に身を置いていても、心が壊れることはない。自分と闘うことができるんだと彼は言ってくれた。
 思い描いていた結婚とは随分違う。順風満帆の幸せライフとは逆行している気がしたが、互いの家族の同意の上、私たちは共に人生を歩むことにした。
 芸の世界で闘っていく覚悟を決めたのだ。

 季節は残暑が尾を引く秋になっていた。
 緑の葉は朱に染まりながら落ち始め、太陽は疲れたように暮れるのが早くなった。夕方になると一日の終わりと同時に、一年の終わりをも予感させる。なんともなしに寂しさが滲む時節だ。
 夫は異国の地、ロシアで音楽を学び、妻は粛々と日本で曲を制作する日々。生活自体は何も変わらない。それでも、心だけは仄かに移ろい、世界の色が変わって見えた。日を追うごとに、人間関係のしがらみから解放され、自分を覆った殻がバリバリと剥がれていく音が聞こえる。
 私は、やっと決心がついた。

「私、リオンくんと結婚することになりました」

 本当だったら「結婚しました」と言う方が正しいのかもしれない。
 でも、事後報告という後ろめたさが、私にその言葉を選ばせた。
 事務所もメンバーも驚きを隠せていなかった。青天の霹靂といった様子。祝福ムードは後からやってくるような時差があった。人気絶頂の中、結婚のニュースは、あまりにも話題性が高すぎる。マネージャーの阿南さんは、結婚を公にすべきか頭を抱えてしまっていたが、協議の結果、世間に報告することになった。めでたい事のはずなのに、世間の顔色を気にしなければいけないなんて、いかにも芸能界って感じ。それでも発表できたことで、私は全ての殻を破れた気がして、とても清々しかった。

 結果的に、大人たちや世間からは受け入れてもらえた気がする。
 でも、一番距離の近いメンバーの間では、ぎこちない空気が漂っていた。
 友達であるという以前に、「女」という動物的本能が反応していたように思う。
 無意識の中で繰り広げられていた生存競争の中で、私はある種の結論を出したことになる。別居生活とはいえ、オスとメスが一緒になることを宣言したんだから。バンドメンバーという距離間の近さが、琴線に触れることに繋がったのかもしれない。みんな表立っては祝福してくれたが、同時に嫉妬に似たドス黒いベールが見えてしまった。ミウの引きつった顔。マキコちゃんの嫌悪の表情。そして、アキちゃんの無表情が脳裏に焼き付いて離れない。
 音楽のスキル、才能に関してはお互いを尊重し合えていた。そこに妬みの感情はなくて、それぞれの活動を讃えることができていた。血液型を変えられないように各々の特性を認め合い、応援することができていた。
 でも、結婚は違うらしい。

 ただでさえ結婚生活を遠距離で過ごさなくてはならないのに、メンバー同士の心の距離までもが離れてしまった。気付いた頃には、もう遅かった。大きな波を抑える防波堤はとっくに壊れ、街を飲み込み、人を飲み込む。静かな水は、凶器となっていた。
 私は、自分のことしか見えていなかったんだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?