【小説】 違和感とビート。


 タオルで額の汗を拭う。大きく息を吐き、鏡に映る自分を見た。肌には張りがあり、毛穴も閉まっている。どこを見てもシワの一本も見当たらない。とはいえ、目元とほうれい線の気配は感じる。若いといっても、確実に大人へ近づいているらしい。ライブが終わっても、充足感はなかった。残っているのは空虚な疲労感だけ。そこら中から「お疲れ様でした」という声が聞こえてくる。
 携帯電話を開くと、リオンくんからのメールがあった。“ライブお疲れ様、なんとか留学できそうだよ”とのこと。おめでとう。心の底からそう思っているのに、私は返信もせずに画面を閉じた。

 すれ違う人、みんな笑顔を向けてくれた。ライブは大成功。会場も超満員。バンドの勢いは止まらない、といったところか。誰もが喜んでくれている。
 でも、私には分からなかった。違和感だらけのライブだった。音楽の中から言葉が消えて、ただ演奏してるだけ。何も考えずとも演奏はできるし、呼吸も合う。でも、そこに楽しいとう感情もなければ、自己表現の探究もない。独走するアキちゃんに合わせるだけのライブだった。後ろを振り返らずに、突っ走る彼女のエネルギーは凄まじい。歌の力だけで世界を創りだすことができる。彼女だけで会場の全てを埋めることができてしまう。でも、そこに調和はなかった。音楽の糸は、ほどけていた。空疎で弱い。見せかけだけのライブだったと思う。

「やっぱ会場が大きくなると上がるね!」
 ミウは満足気な顔で言った。穏やかで実感のこもった声。その言葉に嘘はなかった。だから私も「いや、ほんとにね!」と笑顔を返す。マキコちゃんも、アキちゃんも、みんな充実感ある表情だった。楽しそうだった。顔を火照らせ、ポッポと湯気が出そうなほど身体に力が漲っている。やりたいことが出来て、応援してくれる人がいて、この仕事は天職とでも思っているのだろう。まあ、でも、これがライブ終了後のあるべき姿なんだと思う。
 浮いているのは、私の心の方だ。

 観客は私たちが何をしても喜んでくれる。それはそうだろう。私たちを観に来てるんだから。でも、それで満足していいのか。本当にそれでいいのだろうか。誰もアキちゃんの変化に、バンドが崩れていってることに気付かないのだろうか。自分との問答が始まる。永遠に繰り返す、ループに入っていく。でも、おそらく違和感を感じているのは私だけだ。もしかしたら、私の思い込みなのかもしれない。頭が重い、心が重い。
 帰り支度を済ませて車に乗り込む。それまでにも、たくさんの嘘の笑顔を振りまいた。スタッフにも、会場にだって感謝はしてる。でも、笑顔にはなれないよ。申し訳ないとすら思ってる。本当ならば、重力に任せた重たい顔でいたいけど、そこをなんとか笑顔にするのがプロなのだ。

 車窓に反射する自分の顔が悲しい。風景が線に変わって流れていく。私の顔の中を通り抜けていく。このまま景色と溶けてしまいたい。
 たぶん、私は自分の違和感を口に出すことはないだろう。だってバンドは上手くいってるんだから。水を差すことになってしまう。それに、言ったところでアキちゃんと摩擦が生まれてしまうだけ。そんなの、ヤダよ。
 大きく息を吐き、携帯電話を開く。
 リオンくんからのメールに返信を出す。“おめでとう”と文字をうち、たっぷりの絵文字を添える。文字だと嘘がつきやすい。無理なく明るく振る舞える。付き合ってるとはいえ、リオンくんともしばらく会えていない。このまま彼は留学してしまうのだろう。距離に比例するように、私たちの関係も終わってしまうのかな。ああ、ダメだ。心が暗くなってしまう。
 ブンブンとかぶりを振って、コンコンと自分の頭を叩いた。

 すぐにブブブと返信がなった。
 リオンくんからだ。こんなに早く返信が来るのは珍しい。
 メールには“結婚しない?”と短い文章が書かれていた。
 私は反射的に、画面を伏せた。
 心臓を刻むビートは、この日一番、速かった。

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