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【小説】 母と娘。


 この時の時計ほど埒のあかない遅いものはなかった。清々しい太陽を遮光カーテンで締め切ったせいで、夜明けを待っているかのように錯覚した。流石に住民からの苦情が入り、インターホンが押されることは無くなったが、家の前には報道陣が大挙しているに違いない。渦を描くような体勢で身体を丸めたまま、床から動けない。永久に夜が続く気がした。
 どれだけ時間が経っても携帯電話が鳴らないことに、逆に恐ろしくなる。時の進みが鈍すぎる。砂時計をシャカシャカ振るみたいにして、時間を早めたい。何時間経ったのか分からない。もしかしたら、一瞬、眠ってしまったかもしれない。

「ヒロナ、何してるの?」

 母の声がした。身体が持ち上がった。持ち上げられたんだ。目を開けると、母がいた。眉間にシワを寄せているけど、怒ってる顔ではない。心配と不安が入り混じってる。私はポカンと「お母さん」と呟いた。母はカーテンを開け、窓を開け、澱んだ空気を入れ替えた。窓から差し込む光が目に染みる。
 あれ、まだ朝のままなの? 私、やっぱり寝てたのかな? あれ、なんでお母さんが家にいるんだろう? 日付が変わったとか?

「ご飯は食べたの?」

 母は、服もメイクも決まっていた。仕事モードのやつ。それもカッチリした会議や打ち合わせを思わせる雰囲気だった。白と黒で服はまとめられ、女性らしさを消している。勝負服って感じ。時計をみると、昼を回ろうとしていた。なんでこんな時間に母がいるのか分からなかった。

「ヒロナ、ご飯は?」
「いらない」
「……そう」

 そう言うと、私の目から涙が流れ落ちた。泣いてしまった。それまで泣くことを忘れていた。とめどなく溢れる水を私は抑えることなく、床にボトボト落としていった。苦痛と恐怖で握りしめられた心が、泣けたことで僅かに癒された気がする。自分の涙の一滴が、胸の渇きを潤わせた。
 母は黙って私を抱きしめてくれた。頭を撫でてくれた。髪の毛の先まで私は強張っている。怖かった。震えが止まらなかった。

「アキちゃん、死んじゃった……」

 母は、うんうんと言いながら、ぎゅっと身体を抱いてくれる。

「ごめんなさい、アキちゃん、ごめんなさい、アキちゃん、ごめんなさい」

 消え入りそうなくらい霞んだ声が漏れる。精一杯の心の叫びだった。
 母は赤ん坊をあやすみたいに、私を抱いたままユラユラと身体を揺らした。
 秒針が動くみたいに、一定のリズムで。私はそっと、母の手を握り返した。

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