【小説】 ハルの風が吹いた。


 死んだつもりで生きようと決心したその日から、私の心に平和が訪れるようになった。平和とはなんだって感じかもしれないけど。とにかく私は、人々の行為を素直に受け取ることができるようになった。あらゆる人の心を、謙虚な喜びを持って感受できる。
 時々やってくる不可思議な力は、外遊している時に私の心を締め付けた。それは外からの強い刺激に反応するらしく、私を冷笑し、押さえつけるような力が働いた。その力は目から鼻から口からも入り込み、身体中を重くする。私はグテリとしてしまうため、徐々に私の生活は波瀾も曲折もない単調なモノとなっていった。
 歯痒い気分に襲われたことは多々あった。どうしてもじっとしていられない時もある。だから、その度に、この牢屋からの脱走を図ってきた。しかし、逃れることはできなかった。それは必ず私の胸を締め付けにくる。その不可思議な力は、決して自由を許さなかった。そうして私の活動を八方から塞いでしまうのだ。
 唯一、自由に開けてくれたのは、音楽の道。少しでも動く以上は、私はその道を歩んでいくほか、自由は残されていなかったんだ。

 俗世間への価値観が失われていくのと反比例するように、私の楽曲は評価を高めていった。年を重ねるごとに名声を手に入れるようになり、気付けば業界の第一人者のような立場になっていた。しかし、私の心は常に凪いでいた。仲間も増えていたと思うが、それは私が女であることも関係していたような気がする。女性の社会進出がなんとかと言い、近づいてくる者もいた。が、私には全てどうでもいいこと。私はやるべきことを淡々とこなしているに過ぎなかった

 「ヒロナは人間が変わったね」と、久しぶりに再会したミウに言われてしまった。「そうね」と答えたが、私の心は淋しかった。幼い頃からの親友のお腹の中には、新たな命が宿っていた。
 ミウとお茶をしているとき、マキコちゃんが出演しているドラマや映画を見てるとき、そして、リオンくんのピアノを聴いているときは、私の心が騒ぐことはなかった。赤子のような気分になれる。

「名前は決まったの?」
「まだまだ。生まれた顔を見て決めたいなぁ」
「そっか。きっとミウに似て、可愛い子なんだろうな」
「別に似なくてもいいんだけどさ。赤ちゃんのクセに可愛くなかった時が心配。愛せなかったらどうしようって」

 ミウはぽこりと膨らんだ腹を撫でながらそう言った。
 言葉とは反対に、すでに我が子を愛しているように見えた。

「大丈夫だよ。大丈夫」

 私の言葉に偽りはなかった。

「お、久しぶりに聞いたかも。ヒロナの根拠のない自信」

 ミウは嬉しそうにクスリと笑った。
 その笑顔を見た途端、自分の心を覆っていた偽善とでもいうべき膜が剥がれ落ちていくのを感じた。まるで自分の胎盤が流れて、月のものが流れ出すみたいに。

「……アキちゃんにも、抱いて欲しかったね」

 ミウはあっけに取られた顔をしていた。そして破顔した。
 目に涙を溜めながら笑うミウは、ハンカチを差し出しながら、何かを言っていたけど、自分の声のせいで何を言っているのか聞き取れなかった。周りの人たちも呆然としていた。私たちは顔が差すから、なおさら目立っていたに違いない。
 でも、ミウは穏やかな瞳をして、私の頭を撫でてくれた。きっと、母になるって、こういうことなんだろうと思った。


 ◯


 ショッピングモールと駅をつなぐ連絡デッキには動く歩道がある。なっちゃんは、ミウに「走らないで!」と注意されていたけど、構わず動く歩道を走り抜けた。弾力のある歩道をぴょんぴょん跳ねるようにして、小さな身体はエネルギーを撒き散らしている。周りの視線が痛いようで、ミウはペコペコ頭を下げながら、なっちゃんを追いかけた。
 私が「大丈夫だよ」と言うと、ミウは「なにが? 大丈夫じゃないでしょ! 危ないから! 転んだらどうするの?」と叫んだ。そう言った矢先、なっちゃんは動く歩道を降りたところでペシャンと転び、固まった。
 「ほらぁ」とミウは怒り、私は「あちゃぁ」と呟く。

 なっちゃんはビービー泣いた。こんな小さな身体から、どうしてこんな大声が出せるのか不思議でならない。耳だけでなく、腹の底までキンキン響く声だった。このままの発声方法を保つことができれば、将来、モノになるかもしれないなと、私は呑気に考えていた。
 ミウは「だから言ったでしょう。お母ちゃんの言うこと聞かないから!」と説教するばかりで抱っこしないから、なっちゃんはますます大声で泣いた。身体の大きくなったなっちゃんを抱っこするのは、もうそろそろツラくなってきているらしい。仕方がないから、私が抱っこをする羽目に。なっちゃんも、もはや当然のごとく、私に両手を伸ばしてきた。

 ビタリと身体にへばりつく子どもの体温が気持ちよかった。私は、いつまで経っても孤独に陥らなければならないという強迫観念じみたものに囚われていたから、なっちゃんとの肉体的な触れ合いは、他では得られないような癒し効果があった。「女の子なんだから、顔に傷とかつけて欲しくないの」とグチグチ怒るミウを横に、私はなにも言わず、なっちゃんの心臓の鼓動に耳を澄ませた。
 想像よりも早いペースで小さな胸はリズムを刻んでいた。私も、こんなふうに生きていた頃があった。初めてドラムを叩いた時、自分の心臓を叩いているような錯覚を起こしたこともあったっけ。もう、すっかりスティックを握っていない。ドラムを叩かなくなって、何年が過ぎたのだろうか……。

 ヒックヒックとなっちゃんの嗚咽がおさまりかけた時、ギターの音色が聞こえたきた。音の方を振り返ると、アコースティックギターを抱えた女の子がマイクの前に立っているが見えた。

「こんなとこでもやってるんだねぇ」

 ミウの言葉に私は頷く。
 自然と足が動いていた。

「なんか懐かしいなぁ、初めてバンド組んだ時のこと思い出しちゃう」

 きっとミウは私に向かって言っていたんだけど、私が何も答えないから、大きな独り言のようになっていた。私の胸には妙な緊張が宿っていた。
 いよいよギターの彼女に近づいたタイミングで、ちょうど曲はイントロからAメロに乗り移った。
 彼女が歌い出した時、思わずなっちゃんを抱いていた手を離してしまった。スルスルとなっちゃんは私の身体を滑り落ち、ペタンと地面に立ったのが視界の端に見える。
 ミウも同じ気持ちだったと思う。
 まるで半分眠りながらみた映画みたいに、記憶の断片が細切れにフラッシュバックした。大きな楠がそびえ立つ公園。ギターを抱えながら歌うアキちゃんの姿。思い出すだけで胸がビクビクして、鼓動が早くなっていく。

 目の前で歌う女の子の声は、アキちゃんよりもちょっと低かった。そして、アキちゃんよりもちょっと掠れた声をしていた。でも、アキちゃんと似た空気をまとっていた。全体的に透明というよりはマットな感じ。でも、胸に通る声で、思わず聞き入ってしまう魅力がある。彼女が歌い始めた途端、人がポツポツと足を止めた。
 彼女の足元には名前が書かれた段ボールが置いてあり、そこには「ハル」と書いてあった。そうか、だから、こんなにあたたかい歌声をしているんだ。

 ハルは世界を祝福するように、満面の笑みを浮かべていた。

 なんだか泣きたくなった。世界は色々ありすぎる。
 せっかく落ち着いたと思ったのに、どうしようもなく私の胸は高鳴ってしまっている。見えていないものがたくさんあったと思う。淋しくて、淋しくてたまらなかくて、アキちゃんと同じ道を進もうとしたことも何度もあった。でも、どうしても偽善的な理性が私の邪魔をした。そして、音楽の世界に逃げ込んだ。
 でも、もしかしたら、そうじゃないのかもしれない。私は音楽で肯定したかったのかもしれない。自分の選択を、そして、自分の淋しさを。世界を救うことはできないし、死んだ人を生き返らせることもできないけど。音楽の中でなら出来ることがある。私は、音楽に逃げたのではなかった。
 音楽に救いを求めていたんだ。

 演奏が終わると、ハルは恥ずかしそうに「ありがとうございました」と一礼した。私たちは、目一杯拍手した。たぶん、ヘクソな拍手だった。ミウは「ほらこれ、あげてきて!」となっちゃんにお金を渡し、なっちゃんはそのお金をハルに差し出した。

「あたし、なつ、って言うの。だから、お姉ちゃんの次だね。春と夏!」
「ふふふ。ありがとう。なつちゃんは、歌は好き?」
「好きー!」
「よかったぁ。じゃあ、もっともっと好きになってもらえるように、お姉ちゃん、頑張るね!」
「うん! なつね、お姉ちゃんの歌、好きだよ!」
「わぁ。ありがとう!」

 ハルはそう言ってから、なっちゃんの頬についた涙の通り道を拭いた。
 私は二人に見惚れていた。本当の姉妹みたいだと思った。
 その時、背中がポンと押され、私はつんのめるようにして一歩出た。
 ハルと目が合い、私は自然と口を開いていた。

「あ、あの。私と一緒に音楽を作りませんか?」

 柔らかい春の風が吹いた。



おわり。

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