Hal Iesaki

2020年、腰を手術。そのリハビリに、歌川広重の五十三次の絵とその現在を訪ねて東海道を…

Hal Iesaki

2020年、腰を手術。そのリハビリに、歌川広重の五十三次の絵とその現在を訪ねて東海道を歩く。今年、日光街道を完歩。現在は、次の街道を模索中。五街道を行くか、それとも芭蕉の「奥の細道」を句碑を尋ねて歩くか…。それともコロナで中断している、バンド活動を再開するか。悩み多き高齢者です。

最近の記事

東海道NOW&THEN 55 「京・三条大橋」

大津から京まで3里。約11.8km。  「車石」の閑栖寺から、小関越えの道と合流するところまで約20分。そこから天智天皇陵を過ぎて、京の江戸口である「粟田口」まで1時間と少し。その先に三条大橋。それが東海道のゴール。   広重が描く京都は手前に三条大橋、その向こうに東山の連峰。後ろの茶色い山は比叡山との説もある。手前の山の中腹に見える青い屋根は清水寺。その右下には八坂の塔もある。橋の上には武士に公家、町人、物売りなど様々な人がいて、都であることを知らせる。だが、この構図は

    • 東海道NOW&THEN 54 「大津」

      草津から大津まで3里24町。約14.4km。  清宗塚から大萱新田村の立場跡を通り、月輪池の一里塚まで約45分。そこから瀬田の唐橋まで、さらに45分。唐橋から膳所城下を抜けて大津宿本陣跡までは1時間と少し。清宗塚から大津宿までは、約3時間半。   広重は、またも『東海道名所図会』の「大津」から着想を得ている。広重は『図会』に描かれた茶店に民家と山を加え、その前に荷を積んだ牛車3台を置いている。「走井」とは、湧き出る泉のことで、絵の左下隅にあるのは、後ろの山からくる地下水が

      • 東海道NOW&THEN 53 「草津」

        石部から草津まで2里25町。約10.6km。  目川のすぐ先に膳所城大手門が移設されている。そこから「従是東膳所領」の領界石を見て、草津宿の江戸口まで約30分。   広重は石部に続き草津でも立場茶屋を描いている。矢倉の立場だ。この茶屋の名物は「姥が餅(うばがもち)」。信長に敗れた佐々木義賢からひ孫を託された乳母が、この地で餅を売って育てたのが、その名の由来。絵の中、茶屋に向かって右の角に道標が立っていて2人の旅人が見ている。これは東海道から折れて、琵琶湖対岸の大津へ湖上を

        • 東海道NOW&THEN 52 「石部」

          水口から石部まで3里12町。約13km。  横田の渡しから40分ほどで夏見の一里塚。そのそばに夏見立場跡。黒蜜をかけたところてんが名物だったそうだ。その先、家棟川のたもとに「奉両宮常夜燈」。伊勢の内宮・外宮の常夜燈だ。そこから20分ほどで石部の江戸口。  広重の五十三次「石部」は「目川ノ里」。目川は、石部と次の草津の間の立場で、石部よりは草津に近い。この絵に描かれているのは、菜飯田楽を名物とする茶屋「いせ屋」。実は、この絵は『東海道名所図会』の中の「目川」そっくりで、『図

        東海道NOW&THEN 55 「京・三条大橋」

          東海道NOW&THEN 51 「水口」

          土山から水口まで2里25町。約10.6㎞。  土山から水口へ行く途中、間の宿大野村がある。間の宿としては規模が大きく、現在でも街道沿いに「丸屋」「中屋」「日野屋」など10数本の「旅籠跡」の石標が並ぶ。そこから水口の江戸口まで1時間ちょっと。  広重が描いているのは、水口名物の干瓢作り。芭蕉も「夕顔に かんぴょうむいて 遊びけり」と詠んだほど、水口干瓢は知られていた。慶長のはじめ、領主が干瓢作りを奨励したといわれ、水口の地場産業として全国に広く知られるようになった。それが下

          東海道NOW&THEN 51 「水口」

          東海道NOW&THEN 50 「土山」

          坂下から土山まで2里18町。約9.8km。  鈴鹿峠の万人講常夜燈から峠の道を下ると、国道1号線に合流。そこから土山宿の東端の田村神社の手前にある、広重が描いた田村川に架かる橋まで1時間ちょっと。鈴鹿峠から西は滋賀県。近江の国だと思うと、京はもうすぐだと元気が出る。  鈴鹿峠を下ったところにある坂上田村麻呂を祀った田村神社。田村麻呂が東征の折、この地で人々を苦しめていた山賊を成敗したことから、ここに祀られている。広重が描いているのは、その手前の田村永代板橋を行く大名行列。

          東海道NOW&THEN 50 「土山」

          東海道NOW&THEN 49 「坂下」

          関から坂下まで1里24町。約6.5km。  関の京口を出ると、しばらくは国道1号線に沿って歩く。約10分で「転び石」。夜な夜な怪しげな音をたて街道へ転げ出るので、恐れる里人たち。弘法大師が供養をすると鎮まったといわれる石だ。そこから20分ほどで、広重が描いた筆捨山が右に見える。坂下宿までは、さらに40分。   広重が描いた「筆捨嶺」は、国道1号沿いの歩道から見ることができる。かつては岩根山と呼ばれていた。室町時代、狩野派の著名な画家が描こうとしたが納得できる絵にならず。筆

          東海道NOW&THEN 49 「坂下」

          東海道NOW&THEN 48 「関」

          亀山から関まで1里半。約5.9km。  昼寝観音から「関の小萬のもたれ松跡」まで約40分。そのすぐ先、関宿の江戸口に追分がある。伊勢神宮の鳥居があり、東海道から伊勢別街道への分岐点。別街道を行くと、日永から来る伊勢参宮道に津で合流する。京方面からの伊勢参拝者は、この関宿江戸口の追分から伊勢神宮を目指した。  「本陣早立」。その題名のとおり空はまだ暗く星もなく、早朝の出立の準備に忙しい本陣の前を広重は描いている。と思いきや、左手前、しゃがんでいる奴たちは出立前のひとときを煙

          東海道NOW&THEN 48 「関」

          東海道NOW&THEN 47 「亀山」

          庄野から亀山まで2里。約7.9km。  庄野の「女人堤防の碑」から10分ほどで、亀山藩領界石。そこから能褒野(のぼの)神社の二の鳥居までさらに10分。この神社には日本武尊の墓とされる古墳がある。鳥居から神社までは、東海道を右折して北へ約3km。東海道は、鳥居から亀山宿の江戸口まで約1時間半。  広重の絵は、右上隅に亀山宿の京口門を描いている。雪の中を門へ向かって行列が上って行く。亀山宿は江戸口と京口の東西どちらにも門を構えていた。東海道通行の番所としてではなく、役割として

          東海道NOW&THEN 47 「亀山」

          東海道NOW&THEN 46 「庄野」

          石薬師から庄野まで27町。約2.9km。  石薬師の一里塚から庄野宿の江戸口まで約30分。そのほとんどは国道1号線の歩道を歩く。国道1号の庄野北の交差点を右折すると、庄野宿の案内板がありそこが江戸口。  広重の絵は、突風を描いた四日市の絵「三重川」を彷彿させる設定。「白雨」とは夕立ち、あるいはにわか雨のこと。場所は庄野宿外れの坂道、そこへ突然の強風と激しい雨。筵を頭からかぶり急ぐ人、駕籠かきたちは客を濡らさないように合羽を駕籠にかけている。坂を下る旅人は傘を斜め前にして強

          東海道NOW&THEN 46 「庄野」

          東海道NOW&THEN 45 「石薬師」

          四日市から石薬師まで2里27町。約10.8km。  江戸から100番目の日永の一里塚から、日永の追分まで約20分。この追分には伊勢神宮の大きな鳥居があり、東海道が伊勢神宮へ向かう「参宮道」と分かれる所。そこから石薬師の江戸口までは1時間半。  広重は石薬師寺の山門を左に描いている。石薬師寺の本尊は、弘法大師が石面に彫った薬師如来。山門をくぐり右へ行くと本堂がある。絵の中にも、本堂の屋根らしきものが描かれている。山門から右へ民家の屋根が連なっている、それが石薬師の宿場。昔は

          東海道NOW&THEN 45 「石薬師」

          東海道NOW&THEN 44 「四日市」

          桑名から四日市まで3里8町。約12.7km。  タカハシ酒造の少し手前に「壽命長久」と刻まれた多賀大社の常夜灯。近江の国の多賀大社は伊勢神宮の天照大神の親神にあたるところから、伊勢参拝をする人の多くが立ち寄ったのだとか。常夜灯から次の四日市宿の手前の三ツ谷の一里塚までは約6km。1時間半。  広重が描いているのは、四日市宿の手前にある三滝川(広重は「三重川」と記している)に架かる橋。折からの強風で大きくしなる柳の枝、菅笠を飛ばされあわてて追いかける旅人、橋の上には強風にあ

          東海道NOW&THEN 44 「四日市」

          東海道NOW&THEN 43 「桑名」

          宮から桑名へは海上7里。約27.5km。  「七里の渡し」で海上を桑名へ。約2時間。名古屋港の防波堤を出ると、さすがに波が高くなり風も強くなる。木曽三川の河口を過ぎて桑名の渡し口へ。  揖斐川の河口のすぐ近くに桑名の渡し口。広重はその桑名の渡し口を桑名城を背景に描いている。桑名城は三方を海にかこまれているため「扇城」と呼ばれたそうだ。絵の中、沖にある船は湊を出たばかりなのか帆に風をはらませて、さらに沖に向かっている。手前の舟が帆を下ろしているのは、渡し口が目の前になってい

          東海道NOW&THEN 43 「桑名」

          東海道NOW&THEN 42 「宮」

          鳴海から宮まで1里半。約5.9km。  鳴海宿の京口・丹下砦跡を出て、20分ほどで江戸から88番目の笠寺の一里塚。そこから次の宮宿手前にある89番目の伝馬町一里塚まで1時間。  広重は熱田神宮の神事「馬の塔」を描いている。馬の塔は、祭礼のときや雨乞いのときに馬を神社に奉納する儀式。尾張では熱田の他にも数カ所で行われていた。熱田神宮では端午の神事だったが、今は行われていない。馬の塔には「本馬」と「俄馬」があり、本馬は趣向を凝らした馬具で馬を飾る。一方、俄馬は綱を付けた裸馬を

          東海道NOW&THEN 42 「宮」

          東海道NOW&THEN 41 「鳴海」

          池鯉鮒から鳴海まで2里30町。約11.0km。  池鯉鮒を出て1時間半で「戦人塚」、桶狭間の合戦で戦死した今川方兵士2500名の供養塚。その先に「桶狭間古戦場跡」。池鯉鮒から鳴海までは、間の宿・有松を挟んで3時間弱。  広重は鳴海と題して、実は間の宿・有松を描いている。有松は鳴海の東1里ほどのところにあり、「有松絞」の生産地として知られる。有松絞は鳴海絞と並び、尾張藩が藩の特産品として保護していたこともあり、当時、江戸・京・大坂などでの需要も多く全国的に知られていた有力な

          東海道NOW&THEN 41 「鳴海」

          東海道NOW&THEN 40 「池鯉鮒」

          岡崎から池鯉鮒まで3里30町。約15.0km。  岡崎と池鯉鮒の間は約15㎞。道は平らかとはいえ、けっこうな距離だ。途中、名鉄・新安城駅近くに青麻神社。江戸から明治にかけて活躍した力士・清見潟の石像がある。清見潟はこの辺りの出身。そこから池鯉鮒の江戸口までは、さらに45分ほど。  「首夏」とは、夏の初め。広重の絵の題は「初夏の馬市」。毎年4月から5月にかけて池鯉鮒の東の外れで開かれていた馬市を広重は描いている。街道や宿場では馬は重要な役割を持つ、そのため馬市は大変なにぎわ

          東海道NOW&THEN 40 「池鯉鮒」