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東海道NOW&THEN 54 「大津」

草津から大津まで3里24町。約14.4km。

 清宗塚から大萱新田村の立場跡を通り、月輪池の一里塚まで約45分。そこから瀬田の唐橋まで、さらに45分。唐橋から膳所城下を抜けて大津宿本陣跡までは1時間と少し。清宗塚から大津宿までは、約3時間半。 

 広重は、またも『東海道名所図会』の「大津」から着想を得ている。広重は『図会』に描かれた茶店に民家と山を加え、その前に荷を積んだ牛車3台を置いている。「走井」とは、湧き出る泉のことで、絵の左下隅にあるのは、後ろの山からくる地下水がこんこんと湧き出る井戸。この茶店は、その井戸で名が知られ「走井茶店」と呼ばれていた。次から次へと地下から湧き出てくる水は、さぞかし冷たいのだろうと思われる。井戸の前にいるのは魚屋で、盥の中の魚を冷やしていると解説にある。その茶店も今はなく、現在は月心寺という小さな寺になっている。絵に描かれた走井はこの寺の中に今もあるそうだが、境内へは自由に入れないので残念ながら写真は寺の表だけ。

 大ムカデ退治の伝説で知られる俵藤太を祀る小さな祠が、瀬田の唐橋の東詰にある。唐橋を渡ってしばらく行くと膳所城下の江戸口、その先に「和田神社」。ここには樹齢600年と言われる大イチョウがあり、関ヶ原の戦に敗れ捕えられた石田三成が京都へ引き立てられるとき、このイチョウにつながれ休息をとったという。
 そして膳所城下の京口を出ると木曽義仲の墓がある「義仲寺」。巴御前が名を伏せて近くに草庵をむすび、日々供養したとも伝えられ境内には巴塚もある。義仲の墓の隣には、松尾芭蕉の墓が並んでいる。芭蕉はたびたびここを訪れ、大阪で亡くなったときの遺言によりここに墓が建てられた。芭蕉の辞世の句「旅に病んで 夢は枯野を かけめぐる」の句碑があり、門人・又玄の「木曾殿と 背中合わせの 寒さかな」の句碑もある。
 義仲寺の先に「平野神社」。「蹴鞠の神様」の精大明神が祀られており、古くから芸能の神様としても親しまれているのだとか。 

 JR大津駅から真っすぐの道と東海道は交差する。そこを過ぎると左に「此付近露皇太子遭難之地」の石標。明治になって来日したロシア皇太子を巡査が斬りつけ、国際問題となったその現場だ。その先の交差点が「札の辻」。東海道はここを左折するのだが、大津の名刹「三井寺(園城寺)」に立ち寄り参拝するためにはまっすぐ行くことになる。この東海道の迂回路を「小関越え」と称した。
 札の辻を左折し、本陣跡前を通り進むと「関蝉丸神社」。百人一首の「これやこの 行くも帰るもわかれては 知るも知らぬも 逢坂の関」の歌で知られる歌人を祀った神社。そこからゆっくりとした上り坂になり、上りきるとそこは「逢坂山関址」。歌枕としても知られ、蝉丸、清少納言と三条右大臣がこの関を詠んだ歌碑が並ぶ。そこから10分ほどで、広重が描いた「走井茶店」の月心寺。
 月心寺から30分ほど行くと閑栖寺。その門前に「車石・車道」の説明板。それによると、東海道の京都・大津間の物資運搬をする牛車の通行を楽にするため、車石と呼ばれる花崗岩を敷き詰め舗装した。後には歩車分離が図られ、京に向かって右側が車石道、左が人馬の道と分けられた。人馬の道は車道より一段高く設けられたという。いやぁ、現代と同じ知恵に感心。

 閑栖寺近くの伏見の追分から、天智天皇陵を通り京の江戸口である粟田口までは1時間と少し。

追記:瀬田の唐橋の西詰に瓦店があり、店頭の駐車場に古い鬼瓦や飾り瓦が並べてある。しばし見ながら写真を撮っていると、店主が出てきたので無断撮影を詫びるとにこやかに展示してある瓦について話をしてくれた。古いものでは天正年間の鬼瓦、また200年前に中国で作られた飾り瓦などをはじめ、店の奥にある様々な瓦も見せていただいた。去ろうとすると「一つ持って行け」といわれ、店内を見ると観光客用と思われるミニチュアの鬼瓦が並んでいる。代金を払おうとするが、「瓦に興味を持ってもらえただけで幸せだよ」と言って受け取ってもらえない。結局、鬼瓦のミニチュアではなく、関宿の鏝絵のことも頭にあったので瓦を造る土で作られた、高さ20cmほどの龍をありがたくいただきました。なんだか妙にうれしくて、その斜め向かいにある近江牛の老舗「松喜屋」に飛び込み、すき焼き用を自宅に送ってしまいました。

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