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東海道NOW&THEN 42 「宮」

鳴海から宮まで1里半。約5.9km。

 鳴海宿の京口・丹下砦跡を出て、20分ほどで江戸から88番目の笠寺の一里塚。そこから次の宮宿手前にある89番目の伝馬町一里塚まで1時間。

 広重は熱田神宮の神事「馬の塔」を描いている。馬の塔は、祭礼のときや雨乞いのときに馬を神社に奉納する儀式。尾張では熱田の他にも数カ所で行われていた。熱田神宮では端午の神事だったが、今は行われていない。馬の塔には「本馬」と「俄馬」があり、本馬は趣向を凝らした馬具で馬を飾る。一方、俄馬は綱を付けた裸馬を若者たちが走らせるもの。広重の絵を見ると、菰を巻き付けた裸馬2頭に綱を付けて走らせていることから「俄馬」を描いていると思われる。
 写真は神宮本殿へ向かう鳥居。絵と比べるとわかるが、広重はこの絵もまたこれまで多くを描いたように、俯瞰の構図で描いている。参道からの鳥居は当然ながら見上げることになる。

 笠寺の一里塚を過ぎるとすぐに「東光院」。巌流島の10年後、宮本武蔵が尾張藩に仕官を求めるために逗留した寺。その斜め前には「笠覆寺」。織田家に囚われていた松平竹千代(後の家康)と今川家に囚われていた信長の兄・織田信弘、その人質交換がこの寺の境内で行われた。「人質交換之地」の石碑がある。
 その先に道標。「是より北よびつぎ 是より東かさでら」。よびつぎは「呼続」と書き、この地名は名鉄の駅名をはじめ、現在もこの辺りに残っている。地名の由来は、傾斜地と平地の継ぎ目の意味らしい。昔、この辺りは呼続浜と呼ばれた海岸だったそうだ。

 しばらく行くと「鎌倉街道」の道標。鎌倉街道と東海道の交差点。え?こんなところに鎌倉街道?と驚く。神奈川に暮らしていると鎌倉街道は身近で、単純に鎌倉へ行く道だと思っていた私には、なぜ愛知に鎌倉街道が…と不思議。道標の横にある説明によれば、鎌倉幕府の使者が京への往復に通った道を鎌倉街道と呼ぶという。おおむね東海道を利用していたが、場所によっては当時の地政の関係で違う道を通って京へ上ることもあったのだとか。納得。
 その道標を左折して鎌倉街道を西へ進むと「白毫寺」。昔は寺の裏側、眼下に遠浅の浜があり景勝地だった。その浜の名が「年魚市潟」。「あゆち潟」と読み、これが愛知の県名の語源との説もあるそうだ。
 白毫寺から東海道へ戻り宮宿に入ると、秀吉の小田原攻めの陣中で息子を亡くした母親がその菩提を弔うために架けた「裁断橋」の跡、その隣に「都々逸発祥の地」の石碑。その先には熱田神宮に参拝する人が身を清めお祓いを受けたとされる「鈴之御前社」が並んでいる。さらに本陣などを過ぎると「七里の渡し跡」。宮から次の桑名へは海上を行くことになる。

追記:「七里の渡し」
 宮から桑名へ行くには、「木曽三川」と呼ばれる木曽川・長良川・揖斐川の3つを越えなければならなかった。川幅が広く橋が架けられないので、当然、渡しになる。だが、3つの川を連続して船で渡るには、時間も金もかかる。そこで、それならいっそ河口の外へ出て一気に海上で三川を渡ってしまおうとなったらしい。海上7里を帆掛け船で行く、時間にして約2時間くらいだったそうだ。潮が大きくひいているときは、10里になることもあったという
 船を嫌う旅人は、宮から佐屋街道と呼ばれる道を北西へ6里進み佐屋宿へ。そこから木曽川を舟で3里下って桑名へ出たそうだ。「三里の渡し」と呼ばれている。

 一宮市在住の知人から、七里の渡しを実施しているとの情報をいただいた。もちろん今は、宮・桑名間に定期船などはないので貴重な情報だ。ひとつは名古屋の旅行代理店主催による「七里の渡しツアー」。桑名から宮まで、釣り船をチャーターして渡るもの。もうひとつはNPO法人堀川まちネットが実施している「東海道七里の渡し船旅」。遊覧船をチャーターして宮と桑名を毎年11月に2往復している。幸いこちらに席が取れて宮から桑名まで乗船。熱田と桑名の郷土史家の解説付き。私は「七里の渡し」の気分を味わうために、2時間のほとんどをルーフデッキで海を眺め風を楽しんだ。
※興味を持たれた方は以下のサイトに連絡を。すでに今年の実施要項も発表されています。
 東海道七里の渡し|堀川まちネット (horikawamachi.net)


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