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東海道NOW&THEN 51 「水口」

土山から水口まで2里25町。約10.6㎞。

 土山から水口へ行く途中、間の宿大野村がある。間の宿としては規模が大きく、現在でも街道沿いに「丸屋」「中屋」「日野屋」など10数本の「旅籠跡」の石標が並ぶ。そこから水口の江戸口まで1時間ちょっと。

 広重が描いているのは、水口名物の干瓢作り。芭蕉も「夕顔に かんぴょうむいて 遊びけり」と詠んだほど、水口干瓢は知られていた。慶長のはじめ、領主が干瓢作りを奨励したといわれ、水口の地場産業として全国に広く知られるようになった。それが下野国に伝わり、今では栃木が全国一の干瓢生産地だそうだ。絵を見ると、原料となるユウガオの実を包丁でむく女性、それを干す女性、通りの向かいの家の軒下にも干瓢を干す姿が見える。水口あげて干瓢作りに励んだというのが、よくわかる。写真は京口を少し出たあたりの田園風景。もちろん、かつてのように村あげて干瓢作りにいそしむ姿はなく、普通の田畑があるだけ。干瓢干しは夏の風物詩だそうで、甲賀市では昨年夏、ここ水口でかつてのような干瓢干しイベントを開催したという。

 間の宿大野村を出てすぐに国道1号との交差点。その脇に「大日如来」の小さな祠。中を覗いてみると石仏ではなく、大きな石があるだけ。説明も由緒書きもない。人々の古くからの信仰心なのだろうか。
 そこから40分ほど歩くと「岩神」。大きな岩に由来書きがある。かつてここには奇岩・巨岩が多くあり、景勝地として知られていた。そのため「義経腰掛け石」「景清力比べ石」など岩にちなんださまざまな言い伝えが生まれた。「弁慶の背くらべ石」にいたっては、休憩した弁慶が隣に立つ岩が自分よりも大きいことに腹をたて殴ったところ、その岩は二つに割れて飛んでいったという。街道沿いにある岩は、子どもが生まれると抱いてその前に立ち、通りかかる旅人に名を付けてもらう習慣があったのだとか。 

  水口に入ると「三筋の町」の看板に出会う。宿内に東海道を挟むように北と南に並行する2本の道があり、東海道と合わせて三筋の町と呼ばれている。東海道を行くと文政年間創業の和菓子の店「一味屋」がある。表に「甲賀流忍術もなか」の看板。あらためて、ここは伊賀と並ぶ忍者の里・甲賀だと知る。店の 中を覗くと、忍術の巻物の形をしたもなか。包装紙には大ガマの背に乗った自来也の絵。忍者の町甲賀ならではのお土産。孫にひとつ買い求めました。
 「とびだしくん」あるいは「とびだし坊や」をご存じだろうか?ドライバーに子どもの飛び出しに対する注意を喚起する、交通安全の看板。50年ほど前に、滋賀県八日市市(現・東近江市)の看板製作会社が考案したもの。現在では全国で見られ、各地でその町特有の趣向を凝らした姿かたちをしているものもある。ここ水口では、東海道にちなみ弥次喜多スタイルのとびだしくんだ。
 京口を出て1時間半ほどで野洲川を渡る「横田の渡し」跡。当時、3月から9月までは舟による渡し。10月から2月は土橋が架けられた。東海道中の難所のひとつで、名所図会などにも描かれているという。ここにも大きな常夜燈が残されている。
 
 横田の渡し跡から夏見の一里塚まで約40分。一里塚から石部宿の江戸口近くにある吉姫神社まで1時間半。

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