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東海道NOW&THEN 41 「鳴海」

池鯉鮒から鳴海まで2里30町。約11.0km。

 池鯉鮒を出て1時間半で「戦人塚」、桶狭間の合戦で戦死した今川方兵士2500名の供養塚。その先に「桶狭間古戦場跡」。池鯉鮒から鳴海までは、間の宿・有松を挟んで3時間弱。

 広重は鳴海と題して、実は間の宿・有松を描いている。有松は鳴海の東1里ほどのところにあり、「有松絞」の生産地として知られる。有松絞は鳴海絞と並び、尾張藩が藩の特産品として保護していたこともあり、当時、江戸・京・大坂などでの需要も多く全国的に知られていた有力な地場産業だった。絵には、その店舗が2軒。どちらも黒板塀で囲まれ瓦屋根、軒の上に看板を掲げた立派な建物で有松絞の評判に違わず商売繁盛しているように見える。写真は有松宿。軒上看板こそないが、広重の絵を十分に彷彿させてくれる宿場の町並みを撮った1枚。

 1560年、今川義元は2万5千の大軍を率いて上洛せんと尾張へ侵攻。織田信長は豪雨の中を今川の本陣を急襲し、今川義元を討ち取る(正面から、あるいは迂回して、さらには別動隊がいたなど諸説あるようです)。「桶狭間古戦場跡」は東海道のすぐ脇にあり、義元の墓や戦死した場所などが示されている。道を挟んだ向かいには「高徳院」がある。もとは高野山の寺院だったが、明治になり桶狭間の戦死者を慰霊するために移転してきたのだとか。「今川義元本陣跡」の石碑や桶狭間の戦死者の亡霊を鎮める地蔵もある。
 桶狭間古戦場跡から15分ほどで、間の宿・有松。古い町並みを残している。有松・鳴海絞会館には、歴史や資料そして有松絞のさまざまな作品を見ることができる。日によっては実演もあるらしいが、それは見ることはできなかった。何かお土産をと思い、有松絞のマスクを購入。

 有松を出て40分ほどで鳴海の江戸口。道は、説明の表示がなくても「お、桝形だ」と分かる折れ具合。その角に和菓子「菊屋茂富」。安政年間の創業というから東海道を行く旅人を見守ってきた店だ。おいしそうな羊羹を購入。
 その先に本陣跡。そこから東海道は右に曲がり、如意寺。本尊は「蛤地蔵」。飢饉のときに、その足元を掘ると蛤が現れ、人々は飢えをしのぐことができたという。さらに信長の弟・有楽斎が寄進した薬師如来を本尊とする長翁寺が並び、そこを過ぎると信長が今川義元の侵攻に備え防衛拠点とした「丹下砦跡」。ここが鳴海の京口。
 鳴海の京口をを出てすぐに「千鳥塚」。芭蕉の「星崎の 闇を見よとや 啼く千鳥」の句碑がある。芭蕉が生存中に立てられた唯一の句碑だそうで、碑面に刻まれた句の筆跡は芭蕉の直筆だとか。

 そこから次の宿・宮の江戸口までは、約1時間半。

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