見出し画像

東海道NOW&THEN 40 「池鯉鮒」

岡崎から池鯉鮒まで3里30町。約15.0km。

 岡崎と池鯉鮒の間は約15㎞。道は平らかとはいえ、けっこうな距離だ。途中、名鉄・新安城駅近くに青麻神社。江戸から明治にかけて活躍した力士・清見潟の石像がある。清見潟はこの辺りの出身。そこから池鯉鮒の江戸口までは、さらに45分ほど。

 「首夏」とは、夏の初め。広重の絵の題は「初夏の馬市」。毎年4月から5月にかけて池鯉鮒の東の外れで開かれていた馬市を広重は描いている。街道や宿場では馬は重要な役割を持つ、そのため馬市は大変なにぎわいだったらしい。絵の中央に立つ松の木のもとに大勢の人が集まっている。この松は「談合松」と呼ばれ、売り手と買い手が寄り集まって値段を決め、取引が行われた。
 写真は、池鯉鮒の江戸口の手前に立つ石碑「馬市之址」。東海道がちょうど国道1号線と交差するところで、松並木が残され一茶の句碑などが並んでいる。あたりまえだが広重が描いた絵のような風景は、今はどこにもない。ただ、ここに石碑を立てたということは馬市はこのあたりで開かれていたのだろうと推測し、小雨の中で撮ったもの。
 
 池鯉鮒の江戸口の手前に並木八丁と呼ばれた「知立松並木」。その西の端に「馬市之址」碑。国道1号線を地下道でくぐると池鯉鮒の江戸口。問屋場・本陣跡などを通り過ぎると「知立古城址」。代々知立神社の神主が城代を務めていた今川方の城だが、桶狭間の合戦の時に織田信長に攻め落とされた。
 そこから知立神社までは5分。ここの御手洗池が「池鯉鮒」の由来だという。もともとは、この神社の名前から宿場名は「知立」だった(現在の地名は、愛知県知立市)。江戸時代になるとそれが「池鯉鮒」となる。御手洗池には鯉や鮒が多く、この辺りは鯉や鮒の産地でもあった。それが東海道を往来する旅人の評判となり、名物料理に。いつの間にか宿場名も「池鯉鮒」になったという。

 知立神社を過ぎると、東海道は再び国道1号線に合流する。しばらく行くと江戸から85番目の一ツ木の一里塚。やがて東海道は国道と分かれて進む。そこに「洞隣寺」がある。ここの墓地には痴情のもつれから斬り合った中津藩の武士ふたりの墓がある。その果し合いで、どちらも落命。墓は並べて立てられたが、墓に入った後もいがみあっているらしく、どう立て直してもそっぽを向くように必ず傾くというから可笑しい。その隣にもうひとつ、「めったいくやしいの墓」がある。青年僧に恋した村娘が焦がれるあまりに亡くなる。墓からは夜な夜な「めったいくやしい~」との声が聞こえたという。
 洞隣寺から30分ほどで境橋。尾張と三河の国境を流れる境川に架けられた橋。両藩立ち合いのもとで架けられた橋だが、橋の真ん中から東・三河側は土の橋、西は尾張側で板の橋。三河の質素、尾張の派手好きの気風を表していたのだとか。やがて継ぎ橋は明治になり一体とされた。

 境橋から桶狭間の古戦場跡まで約1時間。そこから15分ほどで間の宿・有松。鳴海までは、そこからさらに30分だ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?