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東海道NOW&THEN 50 「土山」

坂下から土山まで2里18町。約9.8km。

 鈴鹿峠の万人講常夜燈から峠の道を下ると、国道1号線に合流。そこから土山宿の東端の田村神社の手前にある、広重が描いた田村川に架かる橋まで1時間ちょっと。鈴鹿峠から西は滋賀県。近江の国だと思うと、京はもうすぐだと元気が出る。

 鈴鹿峠を下ったところにある坂上田村麻呂を祀った田村神社。田村麻呂が東征の折、この地で人々を苦しめていた山賊を成敗したことから、ここに祀られている。広重が描いているのは、その手前の田村永代板橋を行く大名行列。行列が向かう先には神社の杜。下を流れる田村川は、降りしきる雨で水かさを増している。広重は庄野でも「白雨」と題して雨の風景を描いている。あの激しい横殴りの雨に比べると、川の流れこそ雨により水かさを増しているがこちらは穏やかな雨だ。写真は、平成になって架け替えられ現在は「海道橋」と名付けられた橋。そこから見た、田村神社の杜と田村川。流れは穏やか。

 田村神社の参道の鳥居の前を国道1号が通り、歩道橋を渡ると田村神社の厄除け名物「かにが坂飴」が売られている。その昔、大蟹が鈴鹿山に住みつき、東海道を行き来する人に危害を加えていた。それを聞いた高僧恵心が大蟹に説法を説くと、大蟹の甲羅は8つに割れ、体は溶けた。手厚く弔い、甲羅と体を竹皮に包み厄除けのお守りとして、恵心は村人たちに授けたという言い伝え。以来、水飴を甲羅のように固め竹皮で包んだ「かにが坂飴」は厄除けとして土山宿の名物になった。
 宿内に入ると数歩ごとに「旅籠〇〇屋跡」の石標が目に入る。街道沿いに20を超える旅籠跡の石標がずらりと並ぶ。かつて土山宿は本陣2軒、旅籠が44軒のにぎわいをみせていた。京口の先には、伊勢神宮と多賀大社を結び中山道の小幡宿へと続く「御代参街道」の追分があるので、一層のにぎわいを見せていたとか。御代参街道は近江商人たちの行商道だったことから、「市場通り」とも呼ばれた。

 旅籠跡「井筒屋」の前の看板に「森白仙終焉の地」とある。森鴎外の祖父は津和野藩の御典医で参勤交代の帰途、この地で病没した。その先には、「森鴎外の泊まった平野屋」の看板。祖父の墓参のために訪れたという。宿場の真ん中あたりに「東海道伝馬館」。東海道各宿場に関する資料が展示され、等身大の人形で問屋場などを再現している。別棟には50cmほどの大きさの人形100体あまりを使って大名行列を再現。迫力。行列を迎える宿場役人は正装の裃に身を包み、地面に正座して頭を下げている。当時の大名行列の権威がわかる。
 土山の京口を出て小1時間ほどで「国史跡垂水斎王頓宮跡」。斎王とは天皇が即位すると、その名代として伊勢神宮に奉仕する未婚の内親王のこと。「源氏物語」の中にも六条御息所の娘が斎王として伊勢に赴く話が出てくるから、ご存じの方も多いかと思う。斎王は京から5泊6日で伊勢に向かい、その途中ここ土山にも1泊。そのために造営されたのが、この「頓宮」だ。

 垂水斎王頓宮跡から、土山と次の水口の間の宿大野村まで約1時間。そこから水口の江戸口まではさらに1時間と少し。

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