見出し画像

東海道NOW&THEN 48 「関」

亀山から関まで1里半。約5.9km。

 昼寝観音から「関の小萬のもたれ松跡」まで約40分。そのすぐ先、関宿の江戸口に追分がある。伊勢神宮の鳥居があり、東海道から伊勢別街道への分岐点。別街道を行くと、日永から来る伊勢参宮道に津で合流する。京方面からの伊勢参拝者は、この関宿江戸口の追分から伊勢神宮を目指した。

 「本陣早立」。その題名のとおり空はまだ暗く星もなく、早朝の出立の準備に忙しい本陣の前を広重は描いている。と思いきや、左手前、しゃがんでいる奴たちは出立前のひとときを煙管をふかしてのんびり。奥の門前にいる武士たちは中の様子をうかがい、緊張している様子。大名の駕籠は座敷の中。「御油」で紹介した、滞在している大名の名を記し掲げた「関札」がこの絵には描かれている。右手前の青竹に掲げられているのが、それ。大名が泊っている本陣だと、それでわかる。写真は関宿の伊藤本陣阯前。街道の幅は絵ほど広くはない。

 関宿江戸口の少し手前に「関の小萬のもたれ松跡」。夫の仇討ちのため、身重の体で旅を続ける妻女。関宿で女児を出産するが病没。その女児は小萬と名付けられ、関の旅籠で育てられる。成長後、亡き母の願いを果たそうと剣術の修行に亀山に通う。修行を始めて3年後、見事に仇を討ち本懐を遂げた。この「もたれ松」は、亀山通いの小萬が若者たちの戯れを避けるために身を隠したと言われる所。
 関宿へ入ると、電柱・電線がない。電柱が宿場の通りから後ろへ下げてある。土地の人に聞くと、理由のひとつは祭りの山鉾巡行のためであり、もうひとつは昔ながらの宿場の姿を残すためだという。街道沿いに「眺関楼」という建物があり、その2階から宿場を見下ろすと鈴鹿峠を背に古き良き宿場の姿を見ることができる。

 電線のない空を見上げながら歩いていて、屋根瓦の素晴らしさに気がついた。鯉の滝登り、雲龍、七福神など意匠を凝らした鬼瓦や軒瓦がいくつもある。桶屋の軒瓦には「器」の文字が並ぶ。瓦だけでなく、壁には竹林の虎や鶴亀などの「鏝絵(こてえ)」もある。漆喰を塗るときに鏝(こて)ひとつで立体的な絵を描く、いわば漆喰彫刻。関宿の屋根の楽しさは見逃せない。
 さらに和菓子の老舗「深川屋」の軒上にある、銘菓「関の戸」の看板。「庵看板」と呼ばれ、阿吽の獅子が飾られた屋根のある看板だ。東海道で現存する「庵看板」はこれだけだとか。看板の文字を西から見ると「関能戸」、東から見ると「せきの戸」。宿場の東にある食堂の看板も「会津屋」と「あいづや」。看板の文字の漢字とひらがなの違いで、旅人は東西どちらの方向に向かっているのかわかるのだという。もっとも一説によれば、西から来る旅人は都人で教養があるから漢字でもOK。一方、東から来る旅人は弥次喜多のようにがさつな町人だから、ひらがなでなければ読めないだろうとの親切心、だそうだ。ま、これは眉唾だと思いますが。
 さらに行くと「地蔵院」。本尊の地蔵の開眼供養を関に滞在していた一休禅師に頼むと、一休は地蔵にしょんべんをひっかけて旅立った。宿場の人たちは地蔵の祟りを恐れ、開眼供養をやりなおす。ところが災いがたびたび降りかかるので、一休を追いかけあらためて供養を依頼すると、一休は村人に褌を与えた。それを関へ持ち帰り、地蔵に掛けると災いはぴたりと止んだという。
地蔵院の先に関宿の京口。大和街道との追分だ。大和街道は、加太越えで伊賀から奈良へ至る道で、本能寺の変のときに家康が伊賀越えをして落ち延びたといわれる道。

 この追分から次の坂下宿までは、広重が絵に描いた筆捨山を右に見て約1時間半。

追記:関宿の瓦と鏝絵を少しだけ。全部お見せできないのが残念です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?