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東海道NOW&THEN 46 「庄野」

石薬師から庄野まで27町。約2.9km。

 石薬師の一里塚から庄野宿の江戸口まで約30分。そのほとんどは国道1号線の歩道を歩く。国道1号の庄野北の交差点を右折すると、庄野宿の案内板がありそこが江戸口。

 広重の絵は、突風を描いた四日市の絵「三重川」を彷彿させる設定。「白雨」とは夕立ち、あるいはにわか雨のこと。場所は庄野宿外れの坂道、そこへ突然の強風と激しい雨。筵を頭からかぶり急ぐ人、駕籠かきたちは客を濡らさないように合羽を駕籠にかけている。坂を下る旅人は傘を斜め前にして強い雨風をしのぐ、そのそばを鍬を担いで急ぎ足で駆けてゆく農夫。背景の木々の傾き具合が風の強さを見せている。広重の保永堂版「五十三次」の中でも傑作との評判の高い絵だ。
 写真は国道1号線の歩道。庄野宿江戸口にある案内図に「白雨の坂」とされている場所がここ。坂の傾斜具合も絵ほどではなく、車道に出て写真の構図を工夫しようと思ったが大型トラックがひっきりなしに通るので、ほんの一瞬だけ車道に下り大急ぎで撮った1枚。

 庄野の最寄り駅はJR関西本線の加佐登。東海道をそれて駅から北へ向かい、約40分ほどで荒神山観音寺。時代劇ファンの私には素通りできない場所。「荒神山」と聞いておわかりだろうか、伊勢の博徒ふたり、神戸の長吉と穴太徳の縄張り争いの大喧嘩があったところだ。次郎長一家の大政と三州吉良の仁吉が長吉の助っ人として参加。仁吉の恋女房は穴太徳の妹、長吉に与することを決意して離縁。仁吉は、この喧嘩で鉄砲に撃たれ死亡。仁吉と兄弟の盃を交わしている次郎長はそれを聞いて、大勢の子分を伴って弔い合戦とばかりに伊勢に乗り込んでくる…。とまぁ、義理と人情、愛と涙の別れがあり、派手な喧嘩ありの胸躍るストーリー。浪曲の広沢虎造の「次郎長伝」で有名になった話で、何度も映画やTVドラマになった。この観音寺には、その時に使われた鉄砲などが残されており、境内には広沢虎造が寄進した「吉良仁吉之碑」がある。

 この寄り道に約2時間。急いで庄野宿へ戻る。宿場内の高札場、本陣、問屋場などが並ぶ中に「旧小林家住宅」。嘉永年間の建築で、現在は庄野宿資料館。宿場の文書・民具・農具など貴重な資料が展示してある。その中に手のひらに乗るほどの小さな俵をいくつか束ねたものがある。資料館の人に聞くと道中の携帯食ともいうべき焼き米で、当時はこの宿場のどの軒下にもぶら下がっていて旅人が買い求めたのだという。撮影しようとしたら、貴重な文化財なので撮影は断っているとのこと。写真で紹介できないのが残念。   庄野の京口を出て15分ほどで「女人堤防碑」。このあたりは鈴鹿川と北安楽寺川の合流点で、毎年夏になると氾濫。そのたびに堤防の補強・建設の願いを出すが、藩の許可が出ない。無許可でやると打ち首、それを覚悟でやろうとする男たち。だが男たちが打ち首になっては集落が立ち行かぬというので、菊女という女性が「女だけでやりましょう」と呼びかけ200名あまりの女たちが暗夜を選んで作業。6年の歳月をかけて完成させた。藩主の知るところとなり全員打ち首かと思われたが、家老が一命を賭して藩主を諫めたことで全員助けられた。それどころか見事な働きだったと金一封まで与えられたそうだ。女は強い。

 荒神山へ寄り道したため予定の時間を大きく過ぎているので、次の亀山宿へと急ぐ。庄野から亀山宿江戸口まで約8km。

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