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東海道NOW&THEN 55 「京・三条大橋」

大津から京まで3里。約11.8km。

 「車石」の閑栖寺から、小関越えの道と合流するところまで約20分。そこから天智天皇陵を過ぎて、京の江戸口である「粟田口」まで1時間と少し。その先に三条大橋。それが東海道のゴール。 

 広重が描く京都は手前に三条大橋、その向こうに東山の連峰。後ろの茶色い山は比叡山との説もある。手前の山の中腹に見える青い屋根は清水寺。その右下には八坂の塔もある。橋の上には武士に公家、町人、物売りなど様々な人がいて、都であることを知らせる。だが、この構図はまたもや『東海道名所図会』の「三条橋」の構図そのままに近い。さらにこの絵には、広重は東海道を完歩していないとされる大きな理由もある。ここに描かれた三条大橋の橋脚は木だが、実は豊臣秀吉が木製橋脚の脆弱さを危惧して土台を石に造り替えさせている。広重が京へ行った時代には、三条大橋はすでに石の土台であったはずなのだ。
 写真は、地上では絵のような構図で撮影するのが難しく、橋の西詰にあるビルの2階の整体サロンのロビーにおじゃまさせてもらって撮った1枚。これを見ると橋の土台が石だとわかる。また橋の西詰に当時の土台石がひとつ保存・展示されている。

 閑栖寺のすぐ先に「伏見追分」。「みきハ京みち 左はふしミみち」、東海道は京をめざして右へ行く。左へ行くと伏見から大阪へ向かう。参勤交代の行列は京の市中を通らず、この伏見道を通った。その追分から、さらに進むと1時間ほどで東海道最後の峠といわれる「日ノ岡の峠道」。細い急な坂道だ。これを上りきると車石を並べた「車石広場」に出る。そこは粟田口。
 京には7つの出入り口があった。中山道と東海道は、その中のひとつ粟田口から入る。この粟田口には処刑場があって、1万5千人がここで処刑されたという。記録によれば、最後に処刑されたのは大村益次郎を暗殺した元長州藩士ら5名であったとか。万霊供養塔や南無阿弥陀仏の題目碑があったが、明治の廃仏毀釈やその後の土地開発などで破壊された。現在あるのは、昭和になって発掘された断片をもとに復元されたものだそうだ。処刑場跡の先、蹴上の交差点を左折すると三条大橋はすぐそこ。

 親鸞上人の真骨が納められている「佛光寺」を左に見て進むと、「坂本龍馬お龍結婚式場跡」の小さな石標。現在は商業ビルだが、元は金蔵寺という寺。ふたりはここで内祝言を挙げた。そこを左へ入ると「明智光秀の塚」。蹴上にあった塚が江戸時代にここに移され、以来ここが光秀を弔う場所として知られるようになった。光秀の首もここに埋められたと伝えられているそうだ。東海道を挟んだ向かいには「合槌神社」。刀鍛冶が小狐の合槌を得て名刀を作り上げたという伝説があり、その狐を祀った神社。桓武天皇が平安京を造営したとき、都の守護神として京の4隅に祀った大将軍神社の一つが三条大橋の少し手前左にある。
 大橋の東詰には「駅伝発祥の地」の碑があり「駅伝の歴史 ここに始まる」と書かれている。大正6年4月、首都が京から東京に移されて50年を記念する万国博覧会が上野不忍池で行われていたため、三条大橋から博覧会会場正面入り口までの500kmあまりを関東組と関西組の2チームそれぞれ23名が3日間昼夜を問わずに走った。関東組の最終ランナーは、日本初のマラソン選手の金栗四三だった。
 三条大橋付近には池田屋事件にちなんだ場所など、幕末のあれこれを思い出させてくれるものが多く、歴史の苦手な私でも知っていることがたくさんあり、今さらのように京都の町そのものを身近に感じさせてくれる。大橋を渡り切って少し行くと、高瀬川に架かる「三条小橋」があることに初めて気がついた。蹴上から三条大橋までのわずかの間に、これだけのことに出会う。京都は本当に興味深く面白い街だと、ここまでたどり着いてあらためて思う。

 とうとうゴールの三条大橋にたどり着きました。出発点の日本橋にある「東京市道路元標」の「里程標」によれば「京都市まで五〇三粁」、それを1年がかりで完歩。腰の手術のリハビリで始めたこととはいえ、わが身を誉めてやりたい。ここまで、拙いレポートにお付き合いくださって、心から感謝しています。もっともっとお伝えしたかったことがたくさんあるのですが、とりあえずここまで。本当にありがとうございました。

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