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東海道NOW&THEN 52 「石部」

水口から石部まで3里12町。約13km。

 横田の渡しから40分ほどで夏見の一里塚。そのそばに夏見立場跡。黒蜜をかけたところてんが名物だったそうだ。その先、家棟川のたもとに「奉両宮常夜燈」。伊勢の内宮・外宮の常夜燈だ。そこから20分ほどで石部の江戸口。

 広重の五十三次「石部」は「目川ノ里」。目川は、石部と次の草津の間の立場で、石部よりは草津に近い。この絵に描かれているのは、菜飯田楽を名物とする茶屋「いせ屋」。実は、この絵は『東海道名所図会』の中の「目川」そっくりで、『図会』では「菜飯田楽が名高い茶屋」の文が添えられている。構図がヨコかタテか、視点の高さの違いこそあれ、描かれている茶屋やその前を通る旅人たちなど、ほとんど『図会』の「目川」を模写したような絵なのだ。広重の五十三次は、京に近づくと『名所図会』など他の絵にヒントを得ることが多くなっていると広重の画集の解説にある。それが、広重は本当に五十三次を京まで旅したのかと疑われる理由のひとつでもあるらしい。写真は、現在の「いせ屋跡」。「田楽発祥の地」の石碑も近くにある。

 家棟川の手前左に北島酒造。文化年間創業の銘酒「御代栄」の蔵元。1本、自宅に送りました。川を渡ると「うつくし松自生地」の案内看板。幹が多数に枝分かれしたアカマツの変種で、国の天然記念物。
 石部宿江戸口を入ってすぐに「吉姫神社」の鳥居。女神を祀ってある。一説によれば日本の神話の「木花之開耶姫(このはなさくやひめ)」が祭神であるとも。石部宿の京口の少し手前にある男神「吉御子神社」と対を成すという。宿内を行くと高札場跡、問屋場跡、本陣跡などがあり、吉御子神社の参道入口の前に、広重の絵を再現したとされる「田楽茶屋」。正直にいえば、それほどそっくりに造ってあるわけじゃない。残念なので、写真はなしです。

 京口を出ると小さな公園があり、「目見改場跡(めみえあらためば)」の説明。それを読むと、西から来た大名行列は、ここで衣服を改め行列を整えてから宿内に入ったのだとか。
 先へ進むと右手に野洲川が流れ、その向こうに近江富士・三上山が見える。紫式部が「打ち出でて 三上の山を ながむれば 雪こそなけれ 富士のあけぼの」と詠んだ山。それより知られているのが、俵藤太(藤原秀郷)の大ムカデ退治。その昔、俵藤太が大津の瀬田の唐橋で水神である龍の頼みを聞き入れ、この三上山を7巻き半するほどの大ムカデを腕に覚えの弓で、その眉間を射抜き仕留めたという伝説。
 その先、東海道は二つに分かれる。かつて東海道は野洲川沿いにあったが、度重なる洪水で埋没することたびたび、それで山側へ迂回する上道が造られた。私は、旧街道つまり川沿いの下道を行く。ほどなく行くと「新善光寺」の案内看板。街道から離れるが立ち寄ってみると、立派な山門の大きな寺。平重盛の末裔、小松宗定が長野の善光寺如来の分身をこの地に安置したのだという。

 さらに進むと、徳川家康の腹痛を癒したとして「和中散」と名付けられ評判となった「和中散本舗跡」。そこから、広重が描いた目川の里のいせ屋跡までは1時間と少し。草津宿まではさらに30分

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