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「王道」の不在は別にジャンプ漫画に限ったことではない〜王道外し・邪道ばかりが持て囃される「模範なき令和」という悲しき時代〜

誰もがここ数年のジャンプ漫画に対して思っていたことを遂にBixに言われてしまったわけだが、これに関しては私も以前から警鐘を鳴らしていたし、何なら最近こちらの記事が反響を呼んだ。

ご覧いただければお分かりだが、久々に香ばしい鬼滅キッズが湧いてきて、終わりなき論争・レスバを仕掛けてきており、もはや特級呪物認定した方がいいのではないかとさえ思えてくる。
何が凄いって、とにかく「炭治郎のやっていることは決して幼稚な私刑じゃない!」と言いたいが為に、法律の知識から『ウルトラマン』『仮面ライダー』まで引き合いに出してきて論破しようとした。
そして仕舞いにはこんなことまで言ったのである。

そう、「多数派がよしとしているから正しい=OK」という「友達100人できるかな?」理論であり、多数派が支持しているから良くて少数派しか支持していないからダメという思考停止同然の理屈だ。
すなわち、小学生の時にクラスによくいる「みんながこう言ってるよ」という、本来は自分一人しかそう思ってない個人的主観をさも客観的事実=多数派の総意であるかのように言い換えて正当化するやり方である。
しかもその末に「新しいものが上の世代に昔の作品と比べて貶されるのが嫌だ」とガキみたいな屁理屈まで持ち出すのだから話にならならい、だったら最初からそう言えばいいじゃないかと。
ただ、1つ言えるのは『鬼滅の刃』もそうだが、昨今の傾向として間違いなく「王道の不在」がジャンプ漫画に限らずどのジャンルでもままある傾向として挙げられる。

以前から言っていることだが、『鬼滅の刃』は決してジャンプ漫画を代表する次世代の王道漫画では決してない

それはやはり未だに『ONE PIECE』が担い続けているし、原作者の吾峠呼世晴自身も自分が決して王道を描いてるなんて思っていないだろう。
そもそも自身が好きな作品として『ジョジョの奇妙な冒険』『NARUTO』『BLEACH』を挙げるくらいだし、その3つは決してジャンプ漫画の中の「王道」、すなわち時代を映す鏡のような模範にはなり得ないところに位置する漫画ばかりである。
ここに『ドラゴンボール』『ONE PIECE』のような根っからの明るい冒険ロマンや仲間との友情・絆、あるいは壮絶な強さのインフレがあるスカッとわかりやすいシンプルなビルディングロマンスじゃないのがミソだ
そして、それらを抽出して組み立てられた『鬼滅の刃』は王道風を装った王道外し=アンチ少年ジャンプであり、言うなればそのやっているところは結局のところ『新世紀エヴァンゲリオン』『機動戦士ガンダムSEED』とほぼ同じである。

要するに主人公をストレートでわかりやすい善人タイプに設定しておきながら、物語の中で周囲の圧力に心が負けていって、最後は精神崩壊あるいは闇堕ちにして悲劇的な感じに持っていくというパターンだ。
つまり、表面上の形式は従来のジャンプ漫画の王道をなぞりつつも、作劇=意味内容の点に関しては裏切り続けて主人公を闇堕ち=鬼化させることでジャンプ漫画がついぞ超えなかった最後の一線を超えるというものである。
だから実は「鬼滅」ほどジャンプ漫画の王道中の王道からは程遠い作品もないのだが、この作品からジャンプ漫画に入ったような「にわか」と呼ばれる層には当然この感覚がピンとくることはないだろう。
とまあ、そんなことがありつつ、私自身は「鬼滅」は個人的嗜好でいうならば大嫌いな「エヴァ」「SEED」のパターンだからボロクソにこき下ろしているのもあるが、一番の根っこにあるのは動画の黒人ハーフが言ってくれている通りだ。

今の世の中には「王道=模範」が存在しない。

これは決して今に始まった事ではないのだが、ジャンプ漫画に限らずスーパー戦隊シリーズにおいてもライダーシリーズにおいても、いわゆる「時代を映す鏡」「国民的」とも呼ばれる「王道」が存在しないということだ。

以前にも述べたことだが、昭和型のヒーローはy=ax(一次関数型)という直線的成長、平成ヒーローはy=xa乗(指数関数型)のような成長曲線、そして残り2つがy=0のアンチヒーローとy=logax(対数関数型)の成長曲線である。
私たちの時代辺りまでは前者の2つが王道だったが、どちらにも言えるのは「とにかく上を目指す」というビルディングロマンスであり、やはり主人公たちは常に高みを目指して努力し続ける姿がかっこいいとされていた。
しかし、どうやら2010年代に入り『進撃の巨人』『鬼滅の刃』からは明らかにそのパターンではなくなり、むしろ後者のような横ばいの成長しない作品やなだらかな成長曲線ばかりのものが多くなっている。
いうまでもなく「鬼滅」はy=0なのだが、他にもジャンプ+で流行っていた『ファイアパンチ』『チェンソーマン』、マガジンの『東京リベンジャーズ』、サンデーの『葬送のフリーレン』はy=logax(対数関数型)の成長曲線だ。

すなわち上昇志向がドラマを生み出すのではなく、志が最初から低くそこそこで満足してしまうか成長しているように見せかけて実は全く成長していないというパターンがむしろ今の主流のようになってしまっている。
身も蓋もないことを言えばゴール設定が最初から低いのであって、なおかつ表現の仕方も明らかにクール系というか「お前本当にやる気あるのか?」と思う無表情なスカしたタイプの主人公ばかりだ。

いいか!ジャンプ漫画におけるクール系主人公なんて『テニスの王子様』の越前リョーマで十分なんだよ!2人も3人もいらない!

今でも感想・考察を書かせていただいている『テニスの王子様』『新テニスの王子様』は決してジャンプ漫画の王道ど真ん中ではないが、その分徹底したピカレスクロマンのあり方がよくできている
それでいて全盛期のジャンプ漫画が持っていた上昇志向がドラマを生み出すというビルディングロマンスも外していなかったわけで、許斐先生は生粋のジャンプっ子だから男心をくすぐる要素を押さえているのだ
かつて「テニプリ」はいわゆるアニメ・ミュージカルなどの様々な表現形態で若い女性たちを中心に人気だったことから「腐女子向け漫画」なんて揶揄されていたが、本当にそんな漫画だったら私もここまでハマっていない。
ジャンプ漫画のバトルの形式・メソッドは王道をなぞりつつも、物語としての内実や展開は良くも悪くも先を読ませないし、何よりも敵が圧倒的に強い奴らばかりだから絶望感もあるし読んでて飽きないのである。

しかし、ここ最近のジャンプをはじめとするバトル漫画はそういう満ち満ちた生命力やエネルギーを全く感じないし、主人公が最初から最強のなろう系で敵も単なるやられのために出てきたような奴しかいない
まるでボーリングのピンのようにあっさり倒されてしまうようなのばかりで、まるで人生に疲れ果てた定年退職したサラリーマンみたいなくたびれた雰囲気漂わせてるようなものしかないのである。
「王道外し」「邪道」「覇道」というのは中心に王道の「THE」が存在しているからこそカウンターとして映えるのであって、今はむしろ王道の「THE」がなくて「王道外し」「邪道」「覇道」しかない
なおかつ、作品としてのあり方も徹底されておらず中途半端で、変化球をやるならやるでとことんまで突き抜けるくらいやればいいのに、どうしても変なところで世間体を気にして日和ってしまっている。

だがこれはしょうがないのかもしれない、今の時代「模範」がどこのジャンルにも存在しない以上、「アンチ模範」もまた存在しようがないのだから

スーパー戦隊シリーズにしたってそうである、結局のところ『星獣戦隊ギンガマン』がなんだかんだ言って「時代を映す鏡」としての「王道=模範」をきちんとやり通した最後の作品であった
しかし次作『救急戦隊ゴーゴーファイブ』からはやはりどこか「王道外し」か『未来戦隊タイムレンジャー』のような「邪道」か、あるいは『轟轟戦隊ボウケンジャー』『侍戦隊シンケンジャー』のような「覇道」しかない。
まあその中で比較的『魔法戦隊マジレンジャー』はギリギリ「王道=模範」たり得たという感じはあるのだが、それでもやはり作品として持つ強さや神話性ではとても「ギンガマン」に太刀打ちできるものではないだろう。
結果として近年は「リュウソウジャー」〜「キングオージャー」までほとんどが「王道外し」「邪道」「覇道」ばかりで、いわゆる時代を映す鏡としての「王道」がない

それはやはり男性アイドルグループで言うと嵐が最後の「王道=模範」だったり、女性アイドルで言えばAKB48がなんだかんだ最後の「王道=模範」だったのと同じようなものだろう。
ジャンプ漫画もそれは同じで、結局のところ『ドラゴンボール』『ONE PIECE』に続く王道=模範と言える作品を生み出せなかったのが今になって響いているのではないだろうか。
むしろ近年はジャンプ漫画がどんどんマガジン・サンデー路線のようなスカした感じになっていて、逆にマガジン・サンデーの方がジャンプ路線にシフトしつつもあるようだ。
あるいはバトルに関して言えば下手なジャンプ漫画よりもなろう系の方が面白かったりするものだから、もはや何が王道で何が邪道かすら論じる意味がなくなってきているのだろうか。

そういう時代に『鬼滅の刃』が持て囃されたのもある意味では時代の必然だったのだろう、コロナが流行って社会全体がまた落ち込んだ時、人々に必要なのは決して嵐や『ONE PIECE』ではなかった
あの時、人々に必要だったのは『鬼滅の刃』『ファイアパンチ』『チェンソーマン』のようなネガティブなどん底にいる主人公が地べたに這いつくばって格闘し足掻こうとする暗い作品だったのだから。
そんなものが民衆の支持を得ている状況というのは本来であればあり得ないことだが、コロナ禍で平成までの模範・基準が全部吹き飛んでしまったとも言えるのである。
しかし、そういう時こそ一番危惧しなければならないのは「自由と無責任の履き違い」であり、まさにこれである。

昔は確かに「あれをやったらダメ」「これじゃいけない」といった制約と誓約があったわけだが、それが逆に言えば1つの模範となっていたのではないだろうか。
そういうものが全てなくなって誰しもが「自由」を簡単に手にしてしまえる今、逆に今度は自分の目で見て自分の価値観で、決して周囲に流されずに、決して身勝手・我儘にならないように決断していく必要がある。
私が「鬼滅」を批判し続けているのは決して個人的嗜好だけではないし、「エヴァ」「SEED」の再来を民衆が挙って支持しているという状況の奇妙酒ではなく、また昔の作品と比較しての懐古主義だけでもない。
こういう目先の快楽を狙って作られたものに縋って救いや共感を求めるような安易さをこそ私は批判しているし、何より「鬼滅」があれば救われるなどという体験を共有したがる姿勢こそが私は反吐が出るほど嫌いである。

王道の不在とはすなわち模範になるものがないということ、だからこそ今度は自分たちが模範となるべくしっかり考えて決断していかなければならない。
自由と無責任を履き違えた先に待ち受けているのはそれこそ「鬼滅」のラストで発生した炭治郎の鬼化でしかないのだから。


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