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追悼 坪井直さん

 2021年10月24日、坪井直さんが96歳で亡くなられました。

 すぐに記事を出したかったんですが諸事情で叶わず、5ヶ月が経とうとする中で書くこととなりました。
 坪井さんと過ごさせていただいた濃厚な半日については、以前noteに書いています。

 ここに書き逃していたエピソードとしては、坪井さんと街を歩いていると、道行く人々がひっきりなしに坪井さんに声をかけていたことが印象的でした。全国メディアにも毎年一度は登場しておられたと思いますが、地元広島ではなおのこと機会が多かったのだろうと思います。また、坪井さんは現役時代は中学校の数学教師で、校長も務められていました。一報を伝える中国新聞のfbページでの投稿には、教え子からのコメントも見受けられました。
 そして、この写真も載せていませんでしたが、追悼の思いも込めて掲載することにします。(10年以上前のものとは言え、noteに自分の写真を載せるのは初めてです。最初で最後になるかもしれません^^;)

坪井さんは、背後に掲げられている「被爆当日の写真」に写っている中で数少ない生還者でした

 上掲のnoteでも坪井さんについてかなり述べていますが、このnoteでもそれなりのものを…と思い、すべてのきっかけとなった2009年9月15日の坪井さんの講演要旨と私の感想(一部加筆修正)を転載します。転載元は、この講演を含む3日間の日程で行われた高校の行事「ヒロシマ修養会」の報告書です。たまたまこの部分の執筆を私が担当していたので、なおのこと転載のハードルは低かったなぁと(^^;;

【要旨】
 原爆投下の朝、当時20歳だった私は後輩3人と一緒に大学の食堂で朝食を食べていた。先に食べ終えた私に後輩の一人が「もう一食食べてください」と食券を差し出してくれたが、申し出を断って私は先に食堂を出た。
 原爆が炸裂した瞬間、爆心から1kmのところにいた私の視界いっぱいに光が広がった。太陽が落ちたと錯覚するような熱さと光だった。直後、爆風で10mほど飛ばされた。シャツやズボンの一部は飛び、血管があらわになっていた。また、シャツの背中の部分は時間が経っても燃え続けた。いくら余裕がなかったとは言え、あらゆる宗教が神聖なものとして扱っている死体をいくつも踏みつけたという負い目は一生消えないだろう。
 昼過ぎになって、罹災証明を求めて警察署の派出所に向かった私は、そこにいた兵士に抱えられ、優先的に軽トラに乗せてもらった。軍は「戦争に最も協力できる人材」を優先的に治療し、そうでない老人や子どもはゴミ同然に扱っていたのだ。
 トラックが行き着いたところで再会した同級生は、野戦病院がある似島(にのしま)に一緒に行かないかと誘ってくれた。彼は抵抗する私を説得して、助けてくれた。島へ向かう船の中で、私は他人の目を憚らずに涙を流し続けた。地獄のような状況で見た親友の愛が、たまらなく嬉しかったのだ。
 野戦病院に入ってから4、5日経って、大量の負傷兵が運ばれてくるので民間人は出て行くように、と兵士に命じられた。また、一日二日で死ぬような奴を助ける必要はない、という命令も耳に入った。数日後、私は40日間に渡って気を失った。私を探しに、母は死体の山をかき分け、名前を呼びながら粘り強く探してくれた。このことを聞いた時、親は絶対的な存在だと思わずにはいられなかった。そうして、私は9月25日に自宅で目を覚まし、1年がかりでようやく再び歩けるようになった。
 その後、私は数学教師として中学校や高校で働き、中学校の校長にもなった。84歳になった今でも、平日の日中は被団協の事務所で働いているし、暇があれば他人のために尽くさねば、と思って毎日を生きている。
 私が今日話した内容の一つでも二つでもいいから、それを覚えてしっかりと感じ取ってもらいたい。私のモットーは“Never give up !”だ。今のうちにしっかりと勉強して、諦めないでいろいろなことに挑戦してほしい。頑張れ!

【感想】
 講演の様子を見るだけでは、坪井さんが重い心臓病を抱えているとは思えなかった。2時間近く立ちっ放しで語る言葉の一つ一つに力がみなぎっていた。しかも、話し終えてもまだ話し足りないと言わんばかりの様子だった。被爆から60年余に渡って命を与えられている被爆者としての責任感がそうさせているのだろう。
 生還した被爆者の一人一人が「奇跡」を経験していることに気づかされた。だからこそ、いのちの尊さを感じながら、私達に被爆体験を語ってくださっているのではないだろうか。また、世界初の原爆投下によって命の輝きがかき消されたかに見えたその地に、なおも存在し続けた愛の尊さをも思った。親友を必死に助けた同級生と、我が子を死体の山から何とか救い出そうと探し続けた母―二人の愛がなければ、坪井さんは今生きていなかったのではないか。
 そして、何度も生死の境をさまよった坪井さんが、戦いのない現代に生きる私たちに贈ったメッセージは「諦めるな!」だった。私たちを取り巻く現状がすべて良いものとは思えない。戦中に生きた人々の方が、言わば「平和ボケ」した私達よりも必死に生きていたと思う。何気なく毎日を過ごすのではなく、直面する課題に果敢に挑戦してそれを乗り越えていくことが大切なのだと思う。そして、身近なところから平和のためにできることをためらわずに行なうことが、広島で学んだ私たちが最初にできることではないだろうか。

 坪井さんからは、大変恐縮なことに毎年年賀状をいただいていました。fbに投稿していた画像をご紹介したいと思います。

2013年 当初は手書きの一筆も入っていました。
2015年 2013年末に右手を骨折されたため、その翌年の年賀状からは印刷のみでした。
2017年 fbに毎年投稿していたと思っていたんですが、案外この3枚しかありませんでした。

 この他にも、坪井さんの情報が目に入るたびに投稿していましたので。その断片をまとめてご紹介したいと思います。写真中心ですが、それに添えた文章も適宜引用します。

2015年8月6日本放送(撮影したのは8日深夜の再放送)
NHKスペシャル「きのこ雲の下で何が起きていたのか」
現在と同様、帰省しないとテレビが見られないという状況で目にできた貴重な番組でした。

2016年5月27日 アメリカ・オバマ大統領との対面(見出し画像)
 17分余りに及んだヒロシマ演説。平和公園でスピーチすらしないのではないかと見られていた当初に比べれば、大きく意義深い変化だったと思います。
 そして、演説を終えた大統領が最初に声をかけた被爆者は坪井直さん(91歳)でしたが、2人の笑顔が印象的でした。これが終着点でないことは、坪井さん自身が一番考えておられることだろうと思います。

2016年9月19日 日本テレビ「NEWS ZERO」
北朝鮮の核実験は翌2017年で6回を数えています。

2016年9月26日深夜
 さっきたまたま、坪井直さんを追ったドキュメンタリー(NHKで8/6本放送 ※「決断なき原爆投下~米大統領 71年目の真実~」と推測されますが…)の再放送を見たんだが、その中で被爆直後は本名を名乗らずに生きていたというくだりがあった。原爆で死んでいても不思議じゃなかったからそこまで苦にはならなかったと話されていたが(つくづく精神力の強い方である)、そもそもこのエピソードは今まで聞いたことがなかったように思う。
 いくら精神力の強い坪井さんでも、被爆当時のことについて隠していたかったことがおありだったのかもしれないなぁと。そして、それを明かしてまでも何とか核廃絶を勝ち取りたいんだなぁと。その決意を改めて見る思いでした。

2019年8月6日 NHKスペシャル「“ヒロシマの声”がきこえますか ~生まれ変わった原爆資料館~」

 去年テレビで拝見しそびれたので2年ぶりだったと思いますが、現在は車椅子生活をされているんですね… 20歳で被爆されて御年94歳。声はお元気だったので安心しましたが。
 被爆当日の写真に写っていて生存した方(5人だったか?)の中で、現在生きておられるのは坪井さんだけなのだそうです。

 これが、(テレビ越しではあるものの)生前最後に見たお姿となりました。2013年の年賀状に書かれていた手書きのメッセージを改めて読み、再会が叶わなかったことの後悔の念が再びよみがえってきました… 早くから「葬儀には列席させていただきたい」とは思っていたんですが、昨秋は学生の立場で、しかもコロナという時勢でしたのでねぇ…
 訃報を聞いて、坪井さんとは直接関係ないもののすぐに思い出したことがありました。

※画像にリンクを貼っています

 一昨年10月の報道を聞いた時にすぐに「もしかして…」と思い確かめたのが、佐々木禎子さんの命日でした。日本で第一報が報じられた日と禎子さんの命日が一致したのです。そして、翌年の2021年。ホンジュラスの批准は現地時間で10月24日でしたが(広島市HP)、坪井さんが息を引き取られた日と一致したのです。
 このような日付の一致に人一倍敏感なんですが^^;、この「二重の一致」には特に心震わせられるものがあります。

 坪井さんが亡くなられた直後は全国ニュースや番組でも大きく取り上げられていたようですが、テレビのない寮生活では全くそれらに触れられませんでした… 

 と言いながら、最近も新たな番組が放送されていたことをようやく知る(汗 8月にもまた番組が放送されるといいんですが。

 学業が落ち着いた冬休み(というか年末)にようやく見ることができたのは、死去に合わせて広島ホームテレビテレ朝系)が公開してくださった1時間のドキュメンタリー番組でした。(まだ再生回数が1,000に至っていないのは残念な限り…)

(同局のニュース映像も貼りました)

 noteを書くに当たって改めて見ましたが、この番組で初めて知ったこと、また聞いたことがあったはずなのに久々に思い出したことがいくつもありました。主な点を挙げます。
・治療に臨んでおられる様子、特にその身体を見ると、(衰えという要因もあるでしょうが)原爆による影響を改めて思わされて心痛みました。
・2017年から被団協への出勤が減り始め、翌年6月以来被爆証言ができなくなり、その年の原爆の日を最後に公の場には出られなくなってしまっていたのだそうです。そして、2019年1月に新設された県被団協「理事長代行」に務めを託すことに。
・教師時代も生徒に被爆証言を伝える等していたものの、教師を退職するまでは被爆者団体で全く活動されていなかったそうです。教育者としての気概もまた、核廃絶への思いを強めるに余りあったんだろうと思います。教え子との交流のシーンが幾度となく描かれ、非常に印象的でした。
・原爆の影響で左目が使えなくなっていたのだそう…
・15分過ぎに語られている「人間の知恵の使い方」についての話… 続く映像で出てくる森瀧さんのお連れ合い(春子さん)の講演も「ヒロシマ修養会」でお聞きしていました。
・体調不良と隣り合わせで続けていた教員生活の間に、クラス担任をできたのは2クラスしかなかったそうです。そのうちの一クラスの同級会は、坪井さんの誕生日会から「励ます会」へと名称を変えて晩年まで継続。
・21分過ぎから紹介されている演劇「島」は、主人公が坪井さんをモチーフとしているが、坪井さんはこれについてほとんど話してこなかったそうです。
・「人は、理想を失った時に歳を取る」という最終盤の言葉。非常に重みを感じました。

 YouTubeで検索すれば他にも見応えのある動画が出てきますので、ぜひご覧いただければと思います。他のサイトでの例として、一つだけご紹介します。(1時間半余に及ぶ証言映像です)

 坪井さんはどれだけの場所で被爆証言をなさったのだろうかと思いますし、ご紹介のように(テレビ番組も含めて)多くの映像も残っていますが(そして映像の方がきっと伝わりやすい)、一つだけ残念だったのは著書を残されなかったことです。できれば、坪井さんの身近な型が坪井さんの遺志を伝える本を出していただけないかなぁと思ってしまいます。

 追悼の取り組みはすでに行なわれているようですし、状況が整えば一度広島へ行かないとなぁと思いを新たにしたところです。リニューアルした資料館には一度も行けていませんし。
 しかも、大都市圏をスルーできる交通手段が誘惑してきます(^^;;

 ちょっとうわついてしまいましたが、今回の記事を書くことによって、ようやく自分なりに坪井さんを弔うことができたのではないかと感じています。
 最後に、戦争という望まざる出来事を通して予想しなかった展開が生まれつつあります。(逆の立場からの発信の方が勇ましいように思いますが…)

 これがさらに進んで、核兵器禁止条約批准にまで進んでいけばいいのですが…

3/22リンク2つ追加:実は、動画ニュースで紹介されている盈進中学高校は卒論調査のためにお邪魔させていただいた学校であり、取材先は他でもないヒューマンライツ部でした。その生徒たちが坪井さんの遺志を受け継ぐ活動をしていたことを初めて知り、本当に感慨深く思います。
 証言冊子は2つ目のリンクからダウンロード可能です。

坪井直先生 訃報に接して|盈進中学高等学校

 このように、広島・長崎を中心にして新たな世代による取り組みがなされています。伝統の継承と、時代の変化にも対応しながら新たな視点の取り入れをしつつ、平和の実現に向けたムーブメントが一人でも多くの人々に広がっていくことを心から期待しています。ご存命の戦争体験者・被爆者がどんどん減少していく中で、このような方々の役割の大切さが注目されているように思います。(1945ひろしまタイムラインを巡る問題など、難しさを覚えることも少なからずありますが)

 先程「本」の話をしましたが、この記事も文字媒体としての末席を汚しつつ、少しでも役割を果たせればと思います。そして、坪井さんと直接出会った一人として私自身もその遺志を受け継ぎ、少しでも「何か」をしていきたいと決意を新たにしました。「ネバーギブアップ!」と自分に言い聞かせながら…

より多くのアウトプットをするためには、インプットのための日常的なゆとりが必要です。ぜひサポートをお願いしますm(_ _)m