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2010年春、広島の記録

 今回は10年以上前に作成していた文章を焼き直してお届けします。当時はfbすら始めていない時期で、Wordで作成して高校の恩師等に配布していたようです。
 「まとめ」で多少言及していますが、私と広島との関わりは2009年8月に初めて訪れたことに始まります。当時私は高3でしたが、在学していた高校には「ヒロシマ碑めぐりの旅」という行事がありました。これは「広島の原爆被害について英文で学ぶ」英語科の選択科目の課外授業として行われていたものの、科目を履修していない生徒も参加できることになっていました。私はその「例外」枠として参加し、4日昼から丸3日、広島に滞在しました。6日朝の平和記念式典にも列席しましたが、その時の感想をfbに昨年書いていたので引用します。

 広島平和式典における街宣車問題は、初めて(=唯一)列席した2009年からすでに起こっていたことです。しかし、このようにアンケートで言及されるということは、市も何か対策を取ろうとしている現れなんでしょうか。最近街宣活動がエスカレートしていたりするんですかねぇ。(10年前にアンケートがあったかどうかすら記憶はない)
 あと、式典後の原爆ドーム周辺では直接原爆に関係ないいくつかの団体がチラシ配布・署名活動を行っていたのが印象的でした。
 その中で最も印象に残っているのは法輪功。中国政府から弾圧を受けているということですが、つまりは「平和を願って集まっている人達に自分たちのことを知ってもらいたい」ということで活動されているのではないかと想像するに難くありません。
 広島は平和のシンボルなんだなぁと、安直すぎますがそういうことを実感したエピソードです。

 それとは直接関係ないものの、初訪広から1ヶ月余しか経っていない9月中旬にも広島へ赴く機会がありました。母校には修学旅行の概念はないものの、その代わりに全学年で2泊3日の宿泊行事があります。3年次の行先は、具体的には学年によってまちまちですがほとんど県外だと思います。自分の学年の行先がちょうど広島だった訳です。
 それ以降の経緯については最後をご覧いただければと思いますが、2010年3月11日(木)の朝に新潟を出て、その夜に東京から夜行バスで広島へ。広島には2日半滞在することとなりました。
 その後10年余が経過していますが、様々な理由から10回以上広島を訪れています。

 以下に載せるのは、簡潔化等のため多少書き換えたものの、大半は10年前に書いたままの文章です。見出し画像は当時の写真…ではなく、2018年11月に訪れた際のものです。fbに上げたところ「夜の原爆ドームの様子を初めて見た」というコメントをいただきました。(当の写真は見栄えが今一つだったのでお蔵入り^^;)

1.広島平和記念資料館国立広島原爆死没者追悼平和祈念館の見学(12日昼)

 資料館:通常の順路で、3度目の見学となった。
 祈念館:平和公園内「レストハウス」隣の地下にある。
     特徴的な展示物としては以下のようなものがあり、資料館よりデジタル要素が強い印象を受けた。、
    ・「平和記念・死没者追悼空間」
    ・原爆による犠牲者の氏名や遺影を見ることができるデータベース
    ・情報コーナー(被爆体験を読んだり、聞いたりできるパソコンや各種資料)

2.資料館の東館地下を見学(13日朝)

 ここには、原爆・平和に関する情報を検索できる「情報資料室」があるが、平日のみの開室なので入ることはできなかった。
 この日見学できたのは、被爆者による絵の展示コーナーと、ある写真展、そして新着資料の展示コーナー。
 被爆者による絵は「通常の順路」でも一部展示されているが、ここには20点余りの絵が展示されていた。絵と、その脇にある説明を順に見ているうちに、私の胸は張り裂けんばかりだった。どんなに人々は辛く、苦しかっただろうか… 水を飲めばすぐに死んでしまうという現実を知ることもなく、ただひたすらに水を求める人々の姿が描かれている絵。そんな人々から必死の頼みを受けても、それに応えられなかった人が描いた絵―彼らがしたためた後悔の念を読むと、また違った形での苦しみがあったのだと知ることができた―。我慢できずに消火栓や井戸に頭を突っ込んで亡くなった人々の姿を描いた絵。この3点が印象に残っている。
 これは、一度は目に焼き付ければならないものだと思った。写真がある意味無感情である一方、絵というものは感情をいくらでも注ぎ込むことができる。しかも、ここで見ることができるのは、原爆に見舞われた張本人達によるものなのだから、被爆の苦しみがより強く、見る者の胸に迫ってくる。

 写真展は、「佐々木雄一郎写真展 第二部 平和を誓う」というものだった。会期は7月12日まで。広島平和文化センターのホームページに掲載されている説明を、報告に代えさせていただく。

 佐々木雄一郎氏は、市井の写真家として広島に暮らし、広島の戦後を撮り続けた。 撮影枚数は、30余年間で10万枚を超える。 被爆の惨状、目覚ましい復興の軌跡、その過程で生じた摩擦やひずみなど、 さまざまな事象を記録した佐々木氏の写真は、広島戦後史の縮図とも言える。
 「第二部 平和を誓う」では、昭和50年ごろまでの30年間を、街と暮らしの再建、 犠牲者の慰霊や被爆者援護の問題、被爆体験継承の動きなど、120点の写真で振り返る。 日々の生活に安らぎと活気が戻っていく中で、残された人々はそれぞれの苦悩を背負いながら、 犠牲者を悼み、心から平和を願った。佐々木氏が半生を費やして撮影した写真から「同じ思いを ほかの誰にもさせてはならない」という被爆者の言葉が、どれほど悲痛な叫び、切実な願いであるかを感じ、 平和への誓いを新たにしてもらいたい。

3.坪井直さんと過ごした半日(13日10時~21時)

 坪井さんは最大限時間と労力を割いてくださった。この間(かん)様々な地を巡り、食事も共にさせていただいたが、坪井さんはすべての費用を負担してくださった。坪井さんがなぜここまでしてくださったのか? この答えは、本章の最後で明らかになる。

1)「会合」前
 朝10時、先程の見学を終え、資料館1階の喫茶コーナーで坪井さんとお会いした。そこで約1時間半、そして広島県被団協の事務所に場所を移して約1時間、とにかく語り合った。そして、お好み村の某店で昼食を取った後、あの場所に向かった。それは、あの日坪井さんが親友の強い勧めによって、野戦病院のある似島(にのしま)に向かう船に乗った、京橋川にかかる御幸橋である、似島を眺めつつ、当時の詳しいお話を伺った。
 その後は、「会合」までの時間つぶし。比治山展望台に登り、広島市現代美術館を訪れた。さらに喫茶店でも語らった。今回お聞きしたのは被爆体験の詳細ばかりではなく、被爆者団体の活動の話や、坪井さんが被爆体験を各地で語った時のエピソード、さらにご自身の人生や生活についての興味深いお話の方が多かった。ゆえに、昨秋の修養会では「被爆者・坪井直」に出会ったのに対し、今回は「(被爆体験を持つ)人間・坪井直」に出会ったのだと思う。

2)「会合」にて
 日もどっぷり沈んだ後、横川駅前にある広島市西区民文化センター(現在はコジマホールディングスが命名権取得)へ向かい、「ひろしま横川映画祭―ヒロシマを伝える二つの自主映画―」に参加した。映画2本の上映後、それぞれの映画の監督と坪井さんがシンポジウム「ヒロシマをどう伝えるか」で議論を交わした。

 一本目の映画は『運命の背中』。結婚した翌年に広島で被爆した夫婦が主人公。2人とも一命は取り留めたが、夫の背中にはケロイドが残った。夫は、数年後にアメリカのジャーナリストから「背中のケロイドを撮影させてほしい」という依頼を受ける。被爆という運命を生き抜いた夫婦の姿を描く。
 この映画は、NHK広島放送局(注:現所属も同じ)の出山知樹アナウンサーが、自らのライフワークとして制作したもの。10年余り広島で勤務してきた出山氏が、ある取材で出会った女性の実話をもとに本作を製作したのだという。

 二本目は『想う力』。全編がインタビューで構成されている。二つの質問に対し、人々はどう答えるのか?
「あなたの生涯において核(核兵器)は、①無くなる ②使われる、と思いますか?」
 この作品は核兵器反対を訴える映画ではなく、人々に「想う力」を呼び覚まさせるものなのだと思う。
 いくまさ鉄平監督曰く、この映画は「成長する映画」だという。事実、今回鑑賞した作品には、原作の上映会に参加した人のインタビューも収録されていた。監督は3月半ばにこの作品を韓国で上映し、そこでもインタビューを撮影するという。その後もインタビューを続け、来年中に「完成」を目指すそうだ。
 そして、「タメルダ」というグループによる主題歌も心を打つものだった。スクリーンには「あなたは○○を想うことができますか?」と疑問が投げかけられる。○○に入る言葉は、「家のない人々」や「兵士の苦悩」、「戦いによりすべてを失った街」など、様々だった。バックで流れる主題歌のサビは「ボクは想うことができない 想い続けることができない ボクに想う力をください 想い続ける力をください」というものだった。想うとは、共感することでもあるのだろうが、それを続けることの難しさを感じずにはいられなかった。

 二作とも自主製作映画であるがゆえに知名度もかなり低く、「作品名+監督名」でYahoo!検索をしてみても、双方ともヒット数は100件に満たない。
 ただ、このような一見小さな活動でも、広島ではこのようにイベントとして行なわれているのである。新潟では出会う機会がなかったかもしれない2本の映画を見ることができただけでも、大きな出来事だったと思う。そして、本職の傍らでこのような映画を作っているお二人の凄さに、ただただ感服の思いであった。

 その後のシンポジウムでは、製作の舞台裏や、監督が映画に込めた想いなど、様々な内容が語られた。そして、坪井さんが強調されたのは、「文化の持つ力の大きさ」と「対話の大切さ~話せば分かる~」だった。
 それぞれについて坪井さんは次のようにおっしゃっていた。
 「平和を創ることにおいて、一見すると政治や軍事力が世界を牛耳っているように見えるが、実は文化(芸術や文学)が持つ力の方が、はるかに大きい」「国籍や人種、世代に関係なく、目の前の人に心を込めて話してみれば、その人は必ず分かってくれる。このことを信じてこなければ、私がここまで様々なところで被爆体験を語ることはなかっただろう」。
 そして、坪井さんは若者に期待していると強調された。終盤の発言で私のことに言及してくださった上で、「きっと新潟で何かやってくれるでしょう」と、お言葉をいただいた。丸一日をかけて行動を共にしてくださったのはそのご期待ゆえだったのだろうと思うと恐縮する他ない。

4.まとめ

 今回の行程は一人で立案したこともあって実にシンプルだったが、得るものは少なくなかった。むしろ、坪井さんにお会いできたことの大きさを心しなければと思う。
 思えば、去年の修養会で坪井さんの講演資料にご自身の住所が記されているのを見つけたのがきっかけだった。年初にさほど考えもせずに年賀状を送ったところ、月末にお手紙が届いた。「次回来広される時にはぜひご連絡を…」という言葉を真に受ける形で、今回の広島訪問が決まったのである。
 「碑巡りの旅」をきっかけに半年余りで広島を3度訪問したが、そこで感じることの中には、毎回感じる普遍的なこともあるし、毎回違う新鮮なこともある。今回の訪問で、自分から動かなければ、という思いが最も強く掻き立てられたと思う。
 一人でできることは当然限られているが、それを続けることで何らかの変化は生まれるのではないだろうか。そして何よりも、平和を願い、様々な境遇に置かれている人々を「想う」―簡単なようで難しいこの二つを続ける努力、これを重ねることから始めていきたいと思う。
 坪井さんがおっしゃっていたように、するべきことは「迷わずに」していく強さを養っていかなければ…とも思わされている。

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