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人権に関わる「ぶつかり合い」をどう解決するか(その2)

前回、同じテーマを考え、その時の仮の結論として、「1 今、起きている問題の解決は、具体的にその問題の中で行うしかない。」、「2 自分の『正しさ』を、対立している相手に向けても心の溝を深めるだけで、問題の解決からは遠ざかってしまう。『正しさ』を向けるべき相手は、対立している相手ではなく、組織の責任者や制度をつくっている人である。」ということを書きました。この結論がどんな場合にも有効なものかどうかを、以前「目の前の人に人権尊重を要求できるか」で提示した【思考実験2】(不登校問題)で、もう一度考えてみたいと思います。

子どもの不登校について【思考実験】をしてみる

【思考実験2】はこのようなものでした。
不登校になった子(Bさん)が、早く学校に行ってほしいと思っている親に向かって、「わたしはもう学校に行かない。子どもには不登校になる権利(学校に行かない権利(自由))があるはずだ」と主張したら、親はどう対応するでしょうか。(あなたがその子の親だったらどう思うでしょうか。)

もちろん、以前にも書いたとおり、これはあくまで起きていないことについて、もしそんなことが起きたらどうだろうかと頭の中で考えてみたもの(思考実験)です。実際に家庭でこんな会話が行われることはふつうありません。子どもの中にも、「学校に行かなければならない(なのに、行けない、親にも申し訳ない、だからつらい)」という思いは強くありますし、無理やり登校させることが、子どもを苦しめることになるということは親にもわかっているからです。

子どもの不登校で「問題になっていることは何か」

今回の【思考実験2】の解決と、前回の【思考実験1】の解決のどこが違うのでしょうか。まず、【思考実験2】において、前回と同じように、「今、何が問題なのか」「ここで、本当に問題になっていることは何か」を考えてみましょう。

【思考実験2】で「何が問題になっているのか」と聞かれれば、ほとんどの人は、「不登校になった子(Bさん)が、学校に行かない(行けない)ことだ」と答えそうです。そして、問題が「学校に行かないこと」であるならば、その解決は「学校に行くこと」だと考えてしまいます。それならば、前回の仮の結論「1 今、起きている問題の解決は、具体的にその問題の中で行うしかない。」にもぴったり一致しそうです。しかし、残念ながらそのような解答は間違いです。なぜ、間違いかと言えば、「本当に不登校になってしまった子が、学校に行くようになることはまずない」からです。ありえない解決を、この問題の解決としてしまったら、親も子も苦しくなるだけです。このことはたぶん、不登校の児童・生徒に対応したことのある教員なら、経験的にわかっていることです。そうだとすると、【思考実験2】には解決がないことになるじゃないかと思われる方もいらっしゃるかもしれません。しかし、「解決」はないわけではありません。

不登校問題の解決は、たぶんひとつしかない

このようなトラブルが起きた時の「解決」は、現実的には一つしかありません。子どもの主張の背景にある、今、子どもが感じている「学校へ行くことのつらさ(行けなさ)」を受け入れて、「行かなくてもいい(あなたは今のあなたのままでいい)」と親が子どもに言うことです。親が自分の「正しさ」に基づいて、「子どもは学校に行かなければならない、だからあなたも学校に行きなさい」と言い続けることでは、問題は解決しません。そもそも、学校に行きたくない子どもを、無理やり学校に行かせること自体、現実には不可能だからです。(親が子どもを、校門の前や保健室まで連れていっても、その後、子どもが家に帰って来てしまえば、それで終わりです。)

現実に訪れる結果としての「解決」

そうは言っても、実際には数カ月から数年の時間の中で、どんな不登校も必ずなんらかの「解決」をみます。そのほとんどの場合は、その子が登校できなくなった学校には「行かない」という「解決(結果)」になります。具体的には、他の学校に行くことになるか、学校そのものに当分の間(数年間から数十年間)行かないという「解決」を迎えるのです。あえて「解決」とカギ括弧をつけているのは、その「解決」が、結果としてはぶつかり合っている、双方(子と親)の了解(納得、満足)には、ならないからです。(親が納得しないのに、学校に行かないでいることは、Bさんにとっても納得できる結果ではありません。)しかし、ここで冷静になって考えてみれば(つまり、両者になんの利害関係もない純粋な第三者から見るならば)、たぶん、そのような結果は一応の(というか、現実的にありうるほとんど唯一の)「解決」だと言えるのではないでしょうか。(そう思えない方は、たぶん、まだどちらかの側に立っている考えているのです。)

不登校問題の「社会的な解決」はあるか

前回の仮の結論の2つ目は、簡単に言ってしまえば、「対立する双方が、自分の『正しさ』を向けるべきは、組織の責任者や制度をつくっている人である」ということでした。しかし、この仮の結論も、どうやら今回の【思考実験2】には、当てはまらないようです。

例えば、もし親が学校に行きたがらない子ども(Bさん)に、その理由を聞いて、たとえば、Bさんが、「部活の顧問の先生の指導が厳しすぎるから」と答えた場合、学校に「顧問の先生の指導を変えてください」とお願いして、顧問が不承不承でも指導の仕方を変えた場合、Bさんは登校するようになるでしょうか。実際には、それでBさんが登校を始めても、ほとんどの場合、それは一時的なもので、また不登校が始まります。これもまた、多くの教員が経験的に知っていることです。なぜ、そんなことになるのでしょうか。

不登校を生んでいるのが、学校そのものだとしたら

子どもの不登校の理由は、本当に個々別々ですし、実際に本人にその理由を聞いてみても、本人自身が隠していたり、本人もよくわかっていなかったりすることがほとんどです。たとえ、今、あげた例のように、本人が「理由(原因)」として述べたことを、実際にある程度解決したとしても、不登校自体は解決しないことが、きわめて多いのです。なぜでしょうか。あえて誤解されることを承知でその理由をひと言で言ってしまえば、不登校を生んでいるのは、本当は周りが考えるような、さまざまな個々の細かなこと(友だちとのトラブル、担任とのトラブル等)ではなくて、実は、「学校そのもの」だからです。不登校が深刻なものになって、わたしが先ほど言ったような「本当の不登校」になった場合、不登校の児童・生徒が本当に望んでいることは、ひと言で言ってしまえば、「この世から学校がなくなること」なのではないだろうかとわたしは思います。一番、根源的な不登校の解決は、簡単に言ってしまえば、「この世から学校をなくすこと」です。しかし、それに賛成できる人は、一般にあまりいないでしょう。それは当たり前だとわたしも思います。つまり、【思考実験1】と違い、【思考実験2】の場合は、その問題の「社会的な解決」ということは、予想以上にむずかしいのです。

もちろん、今の学校という組織には、改善すべき点がたくさんあります。わたしはそのような改善が必要でないと言いたいのではありません。もちろん、そのような改善は必須です。しかし、そのような改善で不登校がなくなるわけではないということは、誰もが考えておく必要があると思うのです。

家族という緊密なつながり合いが、解決をむずかしくしている

【思考実験2】の大きな特徴は、これが【思考実験1】とは違って、家族のようなきわめて親密なつながり合いの中で起きた問題であるということです。【思考実験1】は考えてみれば、社会的な関係の中で起きたことです。【思考実験1】は所詮、赤の他人同士の間で起きた話なので、通りがかりの人は、車いす利用者のAさんから、何を言われても、無視して立ち去ることができます。また、電話でAさんから、「すぐに来て、店に運び入れなさい」と言われた店員のCさんにしても、店内にいたお客さんに「すいません、実は…」と事情を説明してAさんを店に運び入れ、Aさんや他のお客さんが帰った後、「なんだよ、あのわがままな態度。ああいう人には二度と来てほしくない」と店の中でぼやいて、終わりにすることもできなくはないのです。社会的な関係の中であれば、このように、無視したり、一応は相手の言うとおりにしながら、心の中では相手を否定したりすることもできます。そして、現在の日本において、障害者に対する差別の根底にあるものは、このような「その人を自分の相手として『避ける』、『相手としない(否定する)』」という態度、心のあり方です。こういう態度、心のあり方を「忌避(避けて遠ざける、関わらない)」とわたしは呼んできました。しかし、ふつう家族の間では、このような「忌避」は不可能です

自分が(形の上では対応しても、本当には)関わらないですむ相手であれば、そんな人は所詮、他人ですから、「トラブル自体」が成り行きによって時間とともに終わってしまえば、そのことも、その人も、実はどうでもいいことになります。「愛の反対は、憎しみではなく、無関心だ」と言った人がいますが、他人とは「わたしが無関心ですませられる人」のことです。しかし、家族はそうはいきません。家族とは、すでに関わってしまっている人であり、これからも関わらざるをえない人のことです。家族とは、「すでに本質的に関わってしまっている人」のことなのです。「本質的に関わってしまっている人」に対しては、わたしは「愛する」か、「憎む」かのどちらかの気持ちしか抱けないのです。このことをわたしは、ひと言で、「大好きだからこそ、その人が思いどおりにならないと、人は苦しむ」と言いたいと思います。

どうなることが「解決」なのか

ここで前回と今回の【思考実験】を踏まえて、もう一度、人権に関わりぶつかり合いを「解決」することについて、考えてみましょう。人権に関わるぶつかり合いの「解決」は、原理的には可能です。ただ、それは、「解決とは双方が満足できるのが解決だ」と考える前提から見れば、解決は不可能です。双方が、それぞれ自分の「正しさ」にこだわっている以上、【思考実験1】においても、【思考実験2】においても、現実に可能な(わたしが述べたような)「解決」が、双方を満足させることはありえないからです。

ここでわたくしたちは、ひとつの選択をしなければならなくなります。A:「双方が満足できることが解決だ」という大前提を貫いてさらに対立を深めるのか、B:「現実に実現しうること(結果としてもたらされるもの)こそが、現実にありうる『解決』なのだ」という考え方に切り替えるかです。

昔から「何事も時間が解決する」という考え方がありますが、それは後者(B)の考え方に近いものではないかとこの頃、思うようになりました。現実世界に「解決」というものがあるとすれば、それはAではなくBでなのだろうと、今は思っています。

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