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人権について考える中で、自分の中のさまざまな「ものの見方」が変わってきた気がします。「…

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人権について考える中で、自分の中のさまざまな「ものの見方」が変わってきた気がします。「正しさ」から抜け出した目で、人が生きるということを見ていきたいと思っています。

マガジン

  • 人権問題の解決とは 〜「正しさ(正義)」から「責任」へ

    人権問題の解決は、どうすればできるのでしょうか。人権尊重という「正しさ(正義)」を相手に強制してもそれはむだです。「正しさ(正義)」から「責任」へと考え方を切り替えることで、初めて人権問題の解決が可能になります。

  • あなたはあなたのままでいい 〜「義務」から「責任』への転換

    人権尊重が叫ばれても、なぜ人権侵害や差別はなくならないのでしょうか。人権尊重の観点を、「義務」から「責任」へと変えることで、この行きづまりを変えることができるのではないでしょうか。合い言葉は、「あなたはあなたのままでいい」です。

  • パワーハラスメントについて考える

    パワーハラスメントは、人が生活する場のどこにもあります。パワーハラスメントはどうしたら、その進行を止め、解消に近づけることができるかを、加害者でも被害者でもない立場から考えてみたいと思います。

  • 高校生のための人権入門(全27回)

    人権についてわたしが考えたことを、高校生だった自分にもわかるように書いてみました。興味のあるテーマについて書いてある回から読んでいただいても、大丈夫です。

最近の記事

汎ASD論(その2) 〜ASDの人の生きづらさはどこからくるのか(その2)〜

前回は、ASD(Autism Spectrum Disorder、自閉スペクトラム症)の傾向を持つ人の特性について、「想像力」の問題という観点から考えてみました。今回は、そのような特性(違い)が、人と人との関係の中でどう表れるかを見てみたいと思います。 わたしは、「差別や人権侵害を考える上では、『違い』と『共通性』の両方を考えることが重要になる」と考えています。前回から書いているこの「汎ASD論」の結論を先に書いてしまえば、ASDの傾向を強く持つ人は、自分とまわりの人たちと

    • 汎ASD論(その1) 〜ASDの人の生きづらさはどこからくるのか(その1)〜

      「差別や人権侵害を考える上では、『違い』と『共通性』の両方を考えることが重要になる。」 前回はこの言葉を出発点として、「人はみな両性愛者ではないのか」ということを書きました。そのような観点が、いわゆる「性的少数者」への差別や人権侵害の解決(または、解消)に、役立つのではないかと考えたからです。同じようなことが、ASD(Autism Spectrum Disorder、自閉スペクトラム症)についても言えるのではないかとわたしは思います。 ASDの特性の本質はなにかわたしは、

      • 人はすべて両性愛者ではないか 〜「違い」と「共通性」の両方を考える〜

        「差別や人権侵害を考える上では、『違い』と『共通性』の両方を考えることが重要になる。」 昔、誰かがこんなことを言っていらしたのを、時々、思い出します。たぶん熊谷晋一郎さんの言葉だったと思うのですが、わたしの勘違いかもしれません。ただ、この意見については、ずっとそのとおりだと思ってきました。そして、この言葉の中の「共通性」は、「連続性」と言っても同じことだと思うのです。 同性愛を「趣味の問題だ」とする考え方同性愛について、かつては「趣味や嗜好の問題だ」とする考え方が根強くあ

        • 人を、女性と男性に分けることはできない 〜男女別スポーツ競技の破綻(はたん)〜

          「女性」と「男性」の関係について、一般的に広く受け入れられている考え方は、「女性と男性は人間としては同じだが、性としては別だ」というものでしょう。そして、現在、「女性の人権」や「男性の人権」も、このようなとらえ方にもとづいて語られています。しかし、「女性と男性は人間としては同じだが、性としては別だ」という考え方は、よく考えてみるとその中にすでに大きな矛盾を抱えています。 「同じだけど違う」という考え方がもたらす問題「違い」と「共通(同じ)」とは本来、対立する概念です。同じ「

        汎ASD論(その2) 〜ASDの人の生きづらさはどこからくるのか(その2)〜

        • 汎ASD論(その1) 〜ASDの人の生きづらさはどこからくるのか(その1)〜

        • 人はすべて両性愛者ではないか 〜「違い」と「共通性」の両方を考える〜

        • 人を、女性と男性に分けることはできない 〜男女別スポーツ競技の破綻(はたん)〜

        マガジン

        • 人権問題の解決とは 〜「正しさ(正義)」から「責任」へ
          17本
        • あなたはあなたのままでいい 〜「義務」から「責任』への転換
          15本
        • パワーハラスメントについて考える
          7本
        • 高校生のための人権入門(全27回)
          27本

        記事

          言葉のもっとも奥深い秘密 〜「正しさ」は、その不在によって人を動かす〜

          以前、「正しさ(正義)」はそれが現実には実現不可能でありながら、人を強烈に支配するということを書きました。(くわしくは、「『正しさ』についての思考実験が意味すること」などをご覧ください。)実は、このことは単に「正しさ(正義)」にとどまらず、言葉そのものの本質にかかわることです。 「花がある」という言葉は、花の「不在」と切り離せないたとえば、「花がある」という言葉は、いくつもの「ない(不在)」を含んでいます。テーブルの上に白い花が置いてあって、それを見て「(ああ、ここに)花が

          言葉のもっとも奥深い秘密 〜「正しさ」は、その不在によって人を動かす〜

          「痛み」に関する悲しい話 〜相手の「つらさ」にどう向き合うか〜

          前回、「『物質の変化』をどこまでたどっていっても、『感情の変化』につながることはない」ということを書きました。そして、書きながら、ふとこんな「悲しい話」を思い浮かべました。 病院での「痛み」に関する悲しい話体のある部分に不調(たとえば、お腹に痛み)を感じて、すぐに直ると思っていたのですが、いつまでたっても直らないので、やむなく仕事を休んで病院に行きました。一日がかりでさまざまな検査をし、一週間後、また仕事を休んで、どんな診断が出るだろうか不安を感じながら、医師と面談します。

          「痛み」に関する悲しい話 〜相手の「つらさ」にどう向き合うか〜

          脳科学から人間の行動(いじめ)は説明できない 〜似非(えせ)科学にご用心〜

          何年か前に、「いじめはなくすことができない」というような題名をつけた本が出て、ベストセラーになりました。人が心のどこかに持っている、「もしかしたら、人はいじめはなくすことができないのではないか」という思いを、まるで脳科学から証明したかのように受け止められたからです。しかし、脳科学から人間の行動は説明できません。そして、それはまだ脳科学が充分な発展をとげていないからではありません。原理的に、科学は人間の行動の「理由(原因)」を説明できないのです。その意味で、この本に限らず、科学

          脳科学から人間の行動(いじめ)は説明できない 〜似非(えせ)科学にご用心〜

          「する/される」の世界の外に出よう 〜ゆきづまった時の解毒剤(その4)〜

          『中動態の世界』國分功一郎さんの書いた本に『中動態の世界 意志と責任の考古学』という本があります。だいぶ前に読んだ本なので、勘違いがあるかもしれませんが、こんなことが書いてあったと記憶しています。 ヨーロッパの言語には、能動態(「〜する」)と受動態(「〜される」)のふたつがあるといわれるが、実はこれ以外に中動態というものがある。そして、本来は中動態の方が古いと思われるのだが、時代とともに能動態と受動態が主流になり、それにしたがって、中動態は影が薄くなった。 「する/される

          「する/される」の世界の外に出よう 〜ゆきづまった時の解毒剤(その4)〜

          「あみだくじ」式の人生観からの脱却 〜ゆきづまった時の解毒剤(その3)〜

          前回、起きたひとつの出来事とそのひとつの「原因」を、「必然」の関係で結びつけてしまうと、人は自分の「自由」を失ってしまい、ゆきづまることがあると書きました。このようなゆきづまりから抜け出すには、どうすればいいのでしょうか。 「原因」と「結果」が一対一で結びつく人生観わたしたちが今、見ている出来事は、言ってみれば、「あみだくじ」の一番下の「結果」だと考えることもできます。「あみだくじ」であれば、一番下の「当たり」からどんどん上にさかのぼっていくと、「当たりくじ」がどれだったか

          「あみだくじ」式の人生観からの脱却 〜ゆきづまった時の解毒剤(その3)〜

          この「つらさ」はどこから来るのか 〜ゆきづまった時の解毒剤(その2)〜

          前回、人は起きた出来事を「原因と結果」の関係でとらえてしまい、しかも、その「原因」の中に自分や他人の「意志」を、どうしても含めて考えてしまうということを書きました。その結果、人は、「自分が(または、あの人が)こうしたいと思って、こう行動したから、こうなったのだ」という「意志」の仮説(ストーリー)にはまり込み、その結果、思いどおりにものごとが進まない時、怒りや無力感にとらわれて、身動きが取れなくなることがあります。そんなゆきづまった時の解毒剤になればと思って、この文章を書いてい

          この「つらさ」はどこから来るのか 〜ゆきづまった時の解毒剤(その2)〜

          現実には「たったひとつ」のことしか起きない 〜ゆきづまった時の解毒剤〜

          前回、「現実には、常に『たったひとつ』のことしか起きません。ですから、すべてが運命であり、すべてが偶然なのです」と書きました。前回、そう書きながら、これは結構、重要なことのように思えたので、今回は、そこから書き始めたいと思います。 「すべては必然で、すべては偶然」「すべては運命で、すべては偶然」ということは、「すべては必然で、すべては偶然」と言っても同じことです。裏返した言い方をすれば、「すべては必然でも偶然でもない。すべては、その中間の『必然とも偶然とも、どちらともつかな

          現実には「たったひとつ」のことしか起きない 〜ゆきづまった時の解毒剤〜

          起きていることを、ありのままにとらえること 〜「自分」に苦しむことからの解放(その3)〜

          なぜ、人は「自分」に苦しむのでしょうか。誰の中にも、「わたしはこうでありたい」「わたしはこうでなければならない」という思いがあります。このいわば自分の生きる「基準(正しさ)」と、現実の今の自分があまりにかけ離れていることを思い知らされた時、わたしは「こんな自分が嫌でしかたがない」という思いにとらわれ、そんな今の「自分」に苦しむようになります。 「わたしはこうでありたい」という思いのふたつの意味たとえば、職場のある上司が、「わたしは、部下に一目(いちもく)置かれる上司でありた

          起きていることを、ありのままにとらえること 〜「自分」に苦しむことからの解放(その3)〜

          「こんな自分が嫌です」 〜「自分」に苦しむことからの解放(その2)〜

          「こんな自分が嫌で嫌でしかたがない」わたしを含めて、多くの人がそんな思いを、生きている中で持ったことがあるでしょう。そんな思いを一度も味わったことのない人の方がめずらしいかもしれません。 「自己肯定感」は「絵に描いた餅」「こんな自分が嫌だ。」ということを言うと、「それはあなたの自己肯定感が低いからだよ。あなたにもいいところはたくさんあるんだから、いいところをもっと見るようにすればいいんだよ。」というようなことを言われます。もちろんこのようなアドバイスは善意から出ているのです

          「こんな自分が嫌です」 〜「自分」に苦しむことからの解放(その2)〜

          「自己肯定感」なんていらない 〜「自分」に苦しむことからの解放

          「幸せになるためには『自己肯定感』が必要だ」そんなまことしやかな話が、日本を支配し始めてからもう十年以上がたったような気がします。自分を「繊細さん(HSP(Highly Sensitive Person))」だと思う人の中には、「自分が傷つきやすいのは、自己肯定感がたりないからだ」そんなふうに思っていらっしゃる方も多いのではないでしょうか。 一見、もっともに思える主張ですが「幸せな人は、自己肯定感が高い。」だったら、「幸せになるためには、自己肯定感を高めればいい」。「レジリ

          「自己肯定感」なんていらない 〜「自分」に苦しむことからの解放

          なぜ、「正しいこと」が通らないのか 〜「毒親」や自分の「繊細さ」に苦しむ人に〜

          なぜ、「正しいこと」が通らない(実現しない)のでしょうか。なぜ「間違った」考え方ややり方が、いつまでもまかり通っているのでしょうか。ほとんどの人が、そんな思いを持ったことがあるのではないかと思います。 あなたが「間違っている」から、わたしはつらいのだたとえば、自分の親を「毒親(toxic parent(s))」だと考える人は、自分がつらい思いをして不幸なのは、親が「間違っている」からだと考えます。自分が「繊細さん(HSP(Highly Sensitive Person))」

          なぜ、「正しいこと」が通らないのか 〜「毒親」や自分の「繊細さ」に苦しむ人に〜

          なぜ、人は「正しさ」のために争うのか 〜「自己愛」で自分を苦しめないために〜

          人は長い歴史の中で、「正しさ」のためにずっと争ってきました。しかし、なぜ「正しさ」のために人は、自分の生活や命までかけて争ってしまうのでしょうか。 職場のパワーハラスメントの解決に当たったことがある方はよく御存知ですが、パワーハラスメントの加害者と被害者の話し合い(言い争い)は、はたから見ていると、ひどく無意味に思えます。双方が本気で「わたしの方が正しい(だから、あなたが間違っている、おかしい)」と主張していることはよくわかるのですが、双方の主張する「正しさ」がまったく噛み

          なぜ、人は「正しさ」のために争うのか 〜「自己愛」で自分を苦しめないために〜