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人権について考える中で、自分の中のさまざまな「ものの見方」が変わってきた気がします。「…

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人権について考える中で、自分の中のさまざまな「ものの見方」が変わってきた気がします。「正しさ」から抜け出した目で、人が生きるということを見ていきたいと思っています。

マガジン

  • 人権問題の解決とは 〜「正しさ(正義)」から「責任」へ

    人権問題の解決は、どうすればできるのでしょうか。人権尊重という「正しさ(正義)」を相手に強制してもそれはむだです。「正しさ(正義)」から「責任」へと考え方を切り替えることで、初めて人権問題の解決が可能になります。

  • あなたはあなたのままでいい 〜「義務」から「責任』への転換

    人権尊重が叫ばれても、なぜ人権侵害や差別はなくならないのでしょうか。人権尊重の観点を、「義務」から「責任」へと変えることで、この行きづまりを変えることができるのではないでしょうか。合い言葉は、「あなたはあなたのままでいい」です。

  • パワーハラスメントについて考える

    パワーハラスメントは、人が生活する場のどこにもあります。パワーハラスメントはどうしたら、その進行を止め、解消に近づけることができるかを、加害者でも被害者でもない立場から考えてみたいと思います。

  • 高校生のための人権入門(全27回)

    人権についてわたしが考えたことを、高校生だった自分にもわかるように書いてみました。興味のあるテーマについて書いてある回から読んでいただいても、大丈夫です。

最近の記事

「自己肯定感」なんていらない 〜「自分」に苦しむことからの解放

「幸せになるためには『自己肯定感』が必要だ」そんなまことしやかな話が、日本を支配し始めてからもう十年以上がたったような気がします。自分を「繊細さん(HSP(Highly Sensitive Person))」だと思う人の中には、「自分が傷つきやすいのは、自己肯定感がたりないからだ」そんなふうに思っていらっしゃる方も多いのではないでしょうか。 一見、もっともに思える主張ですが「幸せな人は、自己肯定感が高い。」だったら、「幸せになるためには、自己肯定感を高めればいい」。「レジリ

    • なぜ、「正しいこと」が通らないのか 〜「毒親」や自分の「繊細さ」に苦しむ人に〜

      なぜ、「正しいこと」が通らない(実現しない)のでしょうか。なぜ「間違った」考え方ややり方が、いつまでもまかり通っているのでしょうか。ほとんどの人が、そんな思いを持ったことがあるのではないかと思います。 あなたが「間違っている」から、わたしはつらいのだたとえば、自分の親を「毒親(toxic parent(s))」だと考える人は、自分がつらい思いをして不幸なのは、親が「間違っている」からだと考えます。自分が「繊細さん(HSP(Highly Sensitive Person))」

      • なぜ、人は「正しさ」のために争うのか 〜「自己愛」で自分を苦しめないために〜

        人は長い歴史の中で、「正しさ」のためにずっと争ってきました。しかし、なぜ「正しさ」のために人は、自分の生活や命までかけて争ってしまうのでしょうか。 職場のパワーハラスメントの解決に当たったことがある方はよく御存知ですが、パワーハラスメントの加害者と被害者の話し合い(言い争い)は、はたから見ていると、ひどく無意味に思えます。双方が本気で「わたしの方が正しい(だから、あなたが間違っている、おかしい)」と主張していることはよくわかるのですが、双方の主張する「正しさ」がまったく噛み

        • なぜ、法律はこれほど無力なのか

          現代のわれわれが人の行為や生き方などについて、明確な意味での「正しさ」を考える時、その考えるベースになるのは法(法律)です。しかし、実際に人権侵害や差別などの人権問題が起きた時、法(法律)の「正しさ」にもとづいて、人権侵害や差別をした人(加害者)を反省させたり、その言動を変えさせたりすることは、まずできません。そんな時、われわれは「人権侵害や差別をなくすこともできない法律なんて、一体、なんのための法律なんだろう」と思います。この無力な法(法律)への落胆は、どこからくるのでしょ

        「自己肯定感」なんていらない 〜「自分」に苦しむことからの解放

        • なぜ、「正しいこと」が通らないのか 〜「毒親」や自分の「繊細さ」に苦しむ人に〜

        • なぜ、人は「正しさ」のために争うのか 〜「自己愛」で自分を苦しめないために〜

        • なぜ、法律はこれほど無力なのか

        マガジン

        • 人権問題の解決とは 〜「正しさ(正義)」から「責任」へ
          16本
        • あなたはあなたのままでいい 〜「義務」から「責任』への転換
          15本
        • パワーハラスメントについて考える
          7本
        • 高校生のための人権入門(全27回)
          27本

        記事

          人は天使であろうとすると獣(けもの)になる

          わたしたちは、「正しさ(正義)」を目指して人が動けば、世の中はよくなると思っています。しかし、これはたぶん思い違いです。なぜ、思い違いなのかを、今回は考えてみたいと思います。 人は天使であろうとすると獣(けもの)になる十七世紀フランスのブレーズ・パスカルは、その有名な『パンセ』の中に、こんな印象的な言葉を残しています。 「人間は、天使でも獣(けもの)でもない。そして不幸なことに、天使であろうとすると獣になる」(L'homme n'est ni ange ni bête,

          人は天使であろうとすると獣(けもの)になる

          学校の「いじめ」の解決方法とは 〜おとなの「責任」のあり方〜

          前回、ある教員の「教師は(子どもに)だまされていいんだ。それが教師の仕事なんだ」という言葉を紹介しました。この言葉をとおして、今回は、教員やおとなの「責任」と、学校の「いじめ」の解決方法を考えてみたいと思います。 子どもが、教員やおとなを「信頼」できるためには「いじめ」の解決は、子どもの集団の中で「強い立場」の加害者の子ども(たち)が、変わらない限り不可能です。そして、加害者の子ども(たち)を変えることができるのは、さらに「強い立場」である教員やおとなです。(これらの点につ

          学校の「いじめ」の解決方法とは 〜おとなの「責任」のあり方〜

          なぜ、学校の「いじめ」が解決しなかったのか

          これまでわれわれは、実際に起きている人権侵害や差別をなくすことばかりに力を注いできました。その反面、「加害者」と「被害者」の間に具体的にどういう関係をつくることが、人権侵害等の「解決」になるのかを、ほとんど考えてこなかった気がします。その結果、いくらなくす努力をしても、人権侵害や差別が一向になくならないというおかしなことが起きてきたのです。 「仲直り」をさせても、「いじめ」はなくならない学校での「いじめ」で言えば、「いじめ」をした子どもや見て見ぬふりをしていた子どもたちに、

          なぜ、学校の「いじめ」が解決しなかったのか

          「自己愛の罠(わな)」について 〜「恨み」から解き放たれるために〜

          「自己愛(自分への満足欲求)」は、人の「生きる力」と分かちがたく結びついています。そして、「自己愛」は人の「幸せ」と「不幸せ」の両方の原因となります。「自己愛」が満たされた時、人は「幸せ」となり、「自己愛」が満たされなかった時、人は「不幸せ」となるからです。今回、題名にした「自己愛の罠(わな)」につかまってしまうと、人は「不幸せ」から抜け出せなくなります。 人権侵害を生む「自己愛の罠」「自己愛の罠」はいろいろあります。職場において、思いどおりに動かない部下や同僚に対して声を

          「自己愛の罠(わな)」について 〜「恨み」から解き放たれるために〜

          「正しさ」よりもわたしとあなたの「幸せ」を〜「正義」から「責任」へ(その14)

          前回、20世紀フランスの哲学者、ジル・ドゥルーズがスピノザの著書『神学・政治論』について書いた言葉、「なぜひとびとは隷属こそが自由であるかのように自身の隷属を『もとめて』闘うのだろう」(G・ドゥルーズ『スピノザ 実践の哲学』平凡社ライブラリー、P23)を最後に引用しました。(注:この言葉が含まれる一文は、この文章の末尾の注1をご覧ください。) ここでドゥルーズが言っている、「人はなぜ『自らの意志で』、支配者の言いなりになることを選び、なぜそのことに命までかけてしまうのか」と

          「正しさ」よりもわたしとあなたの「幸せ」を〜「正義」から「責任」へ(その14)

          「自己愛」を「更新する」必要がある〜「正義」から「責任」へ(その13)

          何回かにわたって、パワーハラスメントを防ぎ、解決するためにどうすればいいいのか、またそこで出てくる問題点、困難点について考えてみました。困難点は大きくわけてふたつになります。まず個人のレベルでは、自分の中の「正しさ(正義)」を括弧に入れて、「自分をゆるすこと」のむずかしさ。次に集団、組織、社会のレベルでは、その集団等が持つ「正義(正しさ)」を括弧に入れ、その「正義(正しさ)」の徹底に制限をつけることのむずかしさです。この二点について今回と次回でふり返り、「『正義』から『責任』

          「自己愛」を「更新する」必要がある〜「正義」から「責任」へ(その13)

          「本来の責任」が人権トラブルを解決する(その3)~「正義」から「責任」へ(その12)

          前回、パワーハラスメントが深刻化して、加害者と被害者の両方が互いに「あの人はおかしい、あの人のせいでわたしはこんなに迷惑している。ゆるせない。」と思っている場合、つまり、双方が自分を「被害者」だと思っている場合は、第三者が関わっていくしかないと書きました。今回は、前々回にあげた例にもとづいて、パワーハラスメントを解決するために第三者がどのように関わっていくのがよいのか、また、そこで出てくる問題点、困難点について考えてみたいと思います。 第三者がパワーハラスメントを解決するに

          「本来の責任」が人権トラブルを解決する(その3)~「正義」から「責任」へ(その12)

          「本来の責任」が人権トラブルを解決する(その2)〜「正義」から「責任」へ(その11)

          前回、考えやすく単純化したパワーハラスメントの例をあげて、どんな対処が問題の解決をむずかしくするのかを書きました。ではどうすれば問題が解決に向かうのか。また、そうする上で出てくる問題点と困難点について考えてみたいと思います。 人権トラブル解決の「目的地」どうすれば人権トラブルが解決に向かうのかについて考えるためには、まず、どういう状態になれば問題の解決と呼べるのか、つまり「目指す目的地」をはっきりさせておかなければなりません。もちろん、わたしがここで考える解決は以前も書いた

          「本来の責任」が人権トラブルを解決する(その2)〜「正義」から「責任」へ(その11)

          「本来の責任」が人権トラブルを解決する(その1)〜「正義」から「責任」へ(その10)

          前回、人権トラブルを解決するためには、解決の観点を「正義(正しさ)」や「義務としての責任」から「本来の責任」へと切り替えることが必要だと書きました。それは実際にはどういうことなのかを、今回は職場におけるパワーハラスメントを例に考えてみたいと思います。 一般に人権侵害や差別というものは、「強い立場」の人が自分の「正義(正しさ)」にもとづいて、「弱い立場」の人を自分の力で無理やり動かそう(変えよう)とした時に起きるものです。今回、パワーハラスメントを例として取り上げるのは、人権

          「本来の責任」が人権トラブルを解決する(その1)〜「正義」から「責任」へ(その10)

          「本来の責任」が人権トラブルを解決する 〜「正義」から「責任」へ(その9)

          前回、われわれの中に深く根づいている「権利ー義務」という「正義(正しさ)」の観点を、新たな「責任」の観点へと切り替えることが、人権問題の解決につながると書きました。ただ、この「責任」がどういうものであるかが、わかりにくかったと思います。わたしが前回述べた「責任」は、世間一般で言われている責任とは、だいぶ違ったものだからです。 目の前の苦しむ人を放っておけない「本来の責任」わたしがこのnoteでずっと「責任」と呼んできたものは、わかりやすく言ってしまえば、目の前で苦しんでいる

          「本来の責任」が人権トラブルを解決する 〜「正義」から「責任」へ(その9)

          「痛い、やめて」と言ったのに、なぜさらに親はたたくのか 〜「正義」から「責任」へ(その8)

          なにかで親がカッとなって小さな子どもをたたいてしまい、子どもが「痛い、やめて」と言ったのに、親がそれに腹を立てて、さらに子どもをたたいてしまうようなケースがあります。そんな場合、親にその理由を聞けば、親は「(子どもは)悪いことをしたのに、わかっていないから」とか、「なまいきだから、反省させたかった」とか、答えそうです。しかし、たぶん本当の理由を親はわかっていないのです。 なぜ、親に「責任」が生まれないのか前回、人権トラブルにおいて、被害者が加害者を一切非難せずに、自分のつら

          「痛い、やめて」と言ったのに、なぜさらに親はたたくのか 〜「正義」から「責任」へ(その8)

          加害者に自分の「責任」を実感させるには 〜「正義」から「責任」へ(その7)

          前回、人権問題の解決は、加害者の心の中に「反省」ではなく、「責任」を感じさせることによって可能になるだろうと書きました。もちろん、ここで問題にしたい解決は、社会の中での人権問題の解決(社会的運動や法律の制定等)ではなく、具体的な「人と人の関係」の中での人権問題の解決です。(この二つの解決の違いについては、前回の「個人の『正しさ』と社会の『正しさ』」をご覧ください。) 人権侵害がどのようにして起きるのか人権問題の解決について考える前に、まず人権侵害がどのようにして起きるのかを

          加害者に自分の「責任」を実感させるには 〜「正義」から「責任」へ(その7)