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現実には「たったひとつ」のことしか起きない 〜ゆきづまった時の解毒剤〜

前回、「現実には、常に『たったひとつ』のことしか起きません。ですから、すべてが運命であり、すべてが偶然なのです」と書きました。前回、そう書きながら、これは結構、重要なことのように思えたので、今回は、そこから書き始めたいと思います。

「すべては必然で、すべては偶然」

「すべては運命で、すべては偶然」ということは、「すべては必然で、すべては偶然」と言っても同じことです。裏返した言い方をすれば、「すべては必然でも偶然でもない。すべては、その中間の『必然とも偶然とも、どちらともつかない、あいまいで雑然としたもの』なのだ。」ということです。

「現実には、常に『たったひとつ』のことしか起きない」ということは、あらためて言うまでもないほどあたり前のことです。しかし、このあたり前のことを、とかくわれわれは忘れてしまいます。実際に起きている「たったひとつのこと」の向こう側に、なにか別のものごとがいつも潜んでいるような感じ(一種の「錯覚」)を持って生きているのです。

「もし、ああでなかったら」という仮定

そのような「錯覚」の典型的な例のひとつは、「もし、ああでなかったら、こうにはならなかったろう」と思うことです。実際には、「ああだった」わけですから、「もし、ああでなかったら」という仮定から出発するお話をいくら展開していっても、そんなことは架空のお話で、目の前の現実を考える上では無意味です。

「偶然」と「必然」のはてしない議論

「現実には、常に『たったひとつ』のことしか起きない」ということは、間違いのないことですが、ただ、その「たったひとつ」のことが、どのようにして起きてくるかで、「偶然」と「必然(運命)」のはてしない議論が起きてきます。「出来事は偶然の連続なのか、それとも必然の連続なのか」という議論が、古代ギリシア以来、二千年以上にわたって行われてきたのです。

「偶然」とは、「必然」とは

現実には、常に「たったひとつ」のことしか起きないということを出発点として、「偶然」と「必然」について考えてみましょう。起きる可能性のある出来事はたくさんあったが、たまたまその中の「ひとつ」が起きたのだと考えれば、それは「偶然」の出来事ということになります。サイコロを振って出る目のようなものです。

一方、どんなに原因と結果が複雑にからみあっているとしても、原因と結果の関係から起きることは、常にひとつに決まるのだと考えれば、起きた出来事は、「必然」の出来事ということになります。このような考え方からすれば、「偶然」の代表のように思えるサイコロの目でさえも、投げる角度や方向、投げ出す位置やサイコロの弾性等々の無数の複合的な原因の結果として、必然的にその目が出たということになります。

「偶然論」と「必然論」は似た者同士

ここまで考えてみてわかることは、このような「偶然と必然」の議論は、たぶんどこまでいっても決着はつかないだろう、ただ偶然と必然というものは、その言葉の意味する内容自体は正反対だが、それぞれの考え方をくらべると、実はその中身は結構似ているということです。

無数の複雑な要素がからみ合ったものごとの中から、あるひとつの出来事が起きてくる。そのことを人間がなんとか一貫した理屈で説明しようとして出てきた理屈が、たぶん「偶然論」と「必然論」なのです。もともとふたつの論が出てきた経緯自体は同じなのですから、どこか似ている(似た者同士な)のもあたり前かもしれません。ただ、どちらも致命的な欠点を持っていて、それが決着のつかないひとつの理由にもなっています。

「偶然論」と「必然論」の致命的な欠点

その致命的な欠点とは、「偶然論」は、起きる可能性のある出来事はたくさんあったくせに、なぜその中の「ひとつ」が起きるのかが、説明できません。「たまたまそうなった」というのが「偶然論」ですが、その「たまたま」とは、言い換えれば「偶然」ということになるのですから説明になっていません。そもそも、起きる可能性のある出来事はいくつもあったという主張の根拠も、「偶然論」は説明できません。

同じようなことは、「必然論」にも言えます。必然論は「原因と結果」の結びつきを「必然」だと考え、その根拠として同じ原因がそろえばば、必ず同じ結果が生じると主張します。つまり、「必然論」の根拠は、同じ出来事の「くり返し(反復、再現)」です。そのため、たとえサイコロの目であっても、まったく同じ条件で投げれば、同じ目が同じように出ると「必然論」は主張します。しかし、よく考えてみればわかりますが、そもそもまったく同じ条件でサイコロを投げること自体が、機械などを使っても、厳密に言えば不可能なことです。つまり、ものごとの「必然性」とは、あくまで頭の中の仮説です。

「偶然」も「必然」も人の頭の中にしかないもの

つまり、「偶然論」にしても「必然論」にしても、実際に起きていること(たったひとつのこと)が、なぜ、どのようにして「ひとつ」になるのかを人間がなんとか理解しようとして、考えついた説明です。それぞれの説明を聞けばどちらの説明も「正しい」ように思えます。しかし、それぞれが言っていることは、絶対に相容れないことなのです。しかも、今述べたように本当にそれが「正しい」説明であることの根拠は、現実の世界に求めようがありません。このことからわかることは、どうも「偶然」も「必然」も、いわば人の頭の中にある抽象的な考え(観念や概念)であって、そういうものが実際に目の前の世界の中にあるわけではないために、こんなおかしなことが起きるのではないかということです。

18世紀のドイツの哲学者、イマヌエル・カントは有名な『純粋理性批判』の中で、このような「理性」がもたらす矛盾を「アンチノミー(二律背反)」と呼び、「理性」の無制限な使用がこのような問題を起こすのであるから、「理性」の使用には制限が必要だと考えました。

「親ガチャ」という言葉が意味するもの

しばらく前に「親ガチャ」という言葉がはやりました。このような言葉がはやった背景には、「親がダメ(財産や地位や容姿や生活意識等が劣る親)だと、子は不幸になる。なのに、子は親を選べない。」という考え方があります。この考え方の前半「親がダメ(財産や地位や容姿や生活意識等が劣る親)だと、子は不幸になる」は、原因と結果の「必然論」ですが、後半の「子は親を選べない」は「子と親の組み合わせはランダム(偶然)なものである」であるという「偶然論」です。

たぶん「偶然の出来事(自分の誕生)から、必然的に自分の人生の「幸/不幸」が決まってしまっている」という若者の悲哀が、この言葉の流行の背景にあるのでしょう。いくら努力しても報われないとわかってしまった日本社会の閉塞感や経済の停滞(後退)感が、たぶんその背景にはあるのです。その意味では、このような言葉がはやることには、もっともな理由があります。

みんな「偶然」と「必然」をごちゃまぜにしている

ただ、「親ガチャ」という言葉の背景にある、今述べたような考え方を検討してみると、その中にあきらかな矛盾があることがわかります。それは、ひとつの出来事(たとえば、自分の現在の不幸)について、本来、必ず対立するはずの「偶然論」と「必然論」をごちゃまぜにして使っていることです。

ただ、人が「偶然論」と「必然論」をごちゃまぜにして使うこと自体は、別にめずらしいことではありません。「親ガチャ」という言葉の流行に眉をひそめて、「なにを言っているんだ。人生はたしかにある程度、偶然(当たり外れ)の要素がある[偶然論]。しかし、だからといって努力することをあきらめてはならない。努力すれば、必ずそれなりの成果はある[必然論]。わたしなんか、若い時は……」と熱く語り始める説教おじさんの理屈も、偶然論と必然論をごちゃまぜにして使っている点では、まったく同じです。

なぜ、「偶然」と「必然」の「ごちゃまぜ」が起きるのか

なぜ、このような「ごちゃまぜ」が起きるかといえば、最初に書いたように、現実には、常に「たったひとつ」のことしか起きず、すべてが運命であり、すべてが偶然だからです。この「すべては運命で、すべては偶然」ということは、裏返した言い方をすれば、「すべては必然でも偶然でもない。すべては、その中間の『必然とも偶然とも、どちらともつかない、あいまいで雑然としたもの』なのだ。」ということです。この「必然とも偶然とも、どちらともつかない、あいまいで雑然としたもの」から、このような「ごちゃまぜ」が起きるのです

人は、どんなことにも「原因と結果」を見てしまう

ふつうに考えれば「偶然」と思われる出来事にも、人は「原因と結果」を見たいと思う、見てしまう生き物です。その理由のひとつは、なにか出来事を理解する時に、「原因と結果(因果関係)」が人にとって一番理解しやすい(受け入れやすい)「ストーリー(説明)」だからです。逆に、実際に目の前で起きていることが、すべて脈絡のない、偶然に起きていることだと考えることは、ふつう人にはできません。Aの出来事の後に、Bの出来事が起きれば、人はAがBを引き起こした(AがBの原因になった)のだと、とらえてしまいがちなのが人という生き物なのです。

「意志」の仮説(ストーリー)の呪縛

ふつうに考えれば「偶然」と思われることにも、人が「原因と結果」を見たいと思う、見てしまう理由はほかにもあります。それは、人が「自分がこうしたいと思って、こう行動したから、こうなったのだ」という「意志」の仮説(ストーリー)から抜け出せないことがあります。

「意志(自由意志)」というものが、本当に人間にあるのかどうかについては、「偶然と必然」の議論同様、宗教や哲学で二千年以上にわたる議論があります。しかし、実際には人は、さまざまな出来事の背景には、必ず(神などを含めて)だれかの「意志」があるという仮説からなかなか逃れられないのです。だれかの「意志」が「原因」で「出来事」が起きる。起きた出来事は、必ずだれかの「意志」による「結果」なのだという考え方からどうしても逃れられないのです。

「集団ストーカー現象」はどのようにして起きるのか

この考え方が極端にまでいくと、以前、このnoteに書いた「集団ストーカー現象」になります。自分の運転する車の前に、自分の誕生日の月日(四ケタ)の数字を並び替えたナンバーの車が走っていたことも、アパートの部屋で体に時々痛みを感じようになったことも、すべて「ある集団」の自分への警告や攻撃の「意志(悪意)」のあらわれだということになるのです。(くわしくは、「『集団ストーカー』現象はどのようにして起きるか(その1)」、「『集団ストーカー』現象はどのようにして起きるか(その2)」などをご覧ください。)

人が「ゆきづまる」時とは

「原因と結果(因果関係)」が人にとって一番理解しやすい(受け入れやすい)「ストーリー(物語)」であるということと、人が「意志」の仮説の呪縛から逃れられないということとは、実際には緊密に結びつき合っています。そして、わたしを含めて多くの人は、先ほどの説教おじさんではありませんが、程度の差はあれ、「人生のある程度は偶然または必然だが、ある程度は自分の努力(意志)でなんとかなる(変えられる)」と思って生きています。そのような生き方が、人にとって一番、現実的で「幸せ」な生き方なのかもしれません。しかし、人はそのような漠然とした「納得(了解)」の中で生きていられなくなる時があります。それが、ゆきづまった時です。

人がゆきづまるのは、今述べた「ある程度は自分の努力(意志)でなんとかなる(変えられる)」という思いを持てなくなった時です。

自分の親を「毒親」だと思う人は

自分の親を「毒親」だと思う人は、もしわたしの親が「ああでなかったら」、つまり「毒親」でなかったら、今のわたしは「こんなにつらい、苦しい思いはしていないのに」と思います。ただ、このようなとらえ方の一番の問題点は、「もし、ああでなかったら」という、仮定しても意味のないことを仮定してあれこれ考えていることではありません。一番の問題点は、そう考えることで、今のわたしがつらく、苦しい思いをしていることが、親が「毒親」であることから「必然的にもたらされた、変えようのない現実だ」と、とらえられてしまうことです。結果として、親を変えない限り、自分はつらく、苦しい今の思いから自由になれないということになってしまうのです。しかし、親をいくら変えようと思っても親は変わりません。結果として、親を変えようという自分の「意志」の無力さにぶつかり、ゆきづまってしまいます

自分を「繊細さん」だと感じる人は

同じようなことは、自分を「繊細さん」だと感じる人についても言えます。「繊細さん」は、自分の生きづらさが、自分の「繊細」という特性から来ていると考えます。そして、もし自分のまわりの人たちが自分の特性を理解し、特性に合った対応をしてくれれば、こんなに生きづらさを感じないですむのにと考えます。そして、アドバイザーなどの助言に従って、自分の「考え方」や習慣を変えたり、また、まわりの人たちが自分の特性を理解し、特性に合った対応をしてくれるようにしよう(変えていこう)としたりします。ところが、実際にはなかなかそれはうまくいきません。結果として、自分やまわりの人を変えようとする自分の「思い(意志)」の無力さにぶつかり、ゆきづまってしまいます

「必然論」と「偶然論」の「すき間」に入り込むもの

「自分の意志で、自分の人生(運命)は変えられるものだ。」人はふつうそう思っています。自分の中の「自己愛(自分への満足欲求)」が、そうさせるからです。そして、よく考えれば、理屈からすれば、「必然論」と「偶然論」とも矛盾するようなそのような考えが可能になるのは、「必然論」と「偶然論」の間に、いわば「認識(ものごとのとらえ方)の『すき間』」が生じるからです。この認識の「すき間」に、あれこれの占いや宗教的祈願やスピリチュアルなお話の入り込む余地が生まれるのです

意志の「仮説」がうまくいかなくなった時、人はゆきづまります。ゆきづまって身動きできなくなった人に対して、あれこれの占いや宗教的祈願やスピリチュアルな誘いかけは、「こうすれば、あなたの人生(運命)は変えられますよ」とささやくのです。

「だまされる」とは、他人の意志に支配されること

あれこれの占いや宗教的祈願やスピリチュアルな誘いかけは、自分の意志や努力で正面からものごとを変えることに行きづまった人に、いわば正面からではなく、あなたの気づいていない「別の方面から」ものごとを変える方法がありますよとささやくのです。そのような誘いは、「自分の意志」を捨てて、さまざまな教えや占い師の助言やスピリチュアルなルールに従い、たびかさなる祈願や献金や物品の購買やさまざまな行動等をすることを勧めます。そうやって「自分の意志を捨てて、自分以外のものの意志に従うことが、結果として、あなた自身の(本当の)意志の実現になるのだ」とささやくのです。もちろんこれは、間違いなく「だまし」です。そのような「別の方面から」の手段を使って実現されるのは、あなたの意志ではなく、あなたを「だました」人たちの意志だからです。

ゆきづまった時の、解毒剤に

では、どうすればいいのでしょうか。とにかく、自分の意に沿おうが、沿うまいが、現実には、常に「たったひとつ」のことしか起きないという、ごくあたり前の事実を事実として認めることです。言い換えれば、「自分の意志で、自分の人生(運命)は変えられる」という思い(願い)を、とりあえず「括弧」に入れることです。「起きることは、常にたったひとつなのだから、自分の意志で変えることができたと思える時もあるが、そう思えない時も実際にはいくらでもある。そして、それでいいのだ。」と認めることです。そう考えることが、人が思いつめ、ゆきづまった時の、解毒剤になるのではないかと思うのです。


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