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人はすべて両性愛者ではないか 〜「違い」と「共通性」の両方を考える〜

「差別や人権侵害を考える上では、『違い』と『共通性』の両方を考えることが重要になる。」

昔、誰かがこんなことを言っていらしたのを、時々、思い出します。たぶん熊谷晋一郎さんの言葉だったと思うのですが、わたしの勘違いかもしれません。ただ、この意見については、ずっとそのとおりだと思ってきました。そして、この言葉の中の「共通性」は、「連続性」と言っても同じことだと思うのです。

同性愛を「趣味の問題だ」とする考え方

同性愛について、かつては「趣味や嗜好の問題だ」とする考え方が根強くありました。「人はふつう異性を好きになるのだが、ちょっと変わっている人が、同性を好きになっているのだ」とする考え方です。このような考え方からは、「同性愛者は、自分が変わっているということを自覚して、もっとふつうに振る舞うべきだ」という意見が出てきます。つまり、「同性愛者も、まわりの人と同じ人間なのだから、ほかの人(多数派)に合わせて自分を直しなさい(異性愛に変えなさい)」という意見です。このような考え方は、人の「共通性(連続性)」を基盤(口実)にして、その「共通性(この場合は、異性愛)」から外れている同性愛者を「おかしい」として非難するのです

同性愛は「その人の特性だ」とする考え方

このような考え方に対して、当然、「同性愛は、その人の持って生まれた『特性』なのだから、『直す』ことはできないし、『直す』という言葉を使うこと自体が、偏見であり人権侵害だ」という反対意見が出てきます。このような考え方は、「同性愛者」と「異性愛者」の「違い」を強調し、その「違い」の存在を認め、尊重することが人権尊重だと考えます

このような人と人との「違い」を認め、尊重する考え方を広げていくと、いわゆる「多様性の尊重」という考え方になります。現在は「多様性を尊重することが、人権尊重だ」という考え方が、社会全体に広がっているように感じられます。(ただ、わたし自身は、「人権尊重と多様性の尊重は別物だ」と思っています。このことについては、「『多様性の尊重』は人権問題を解決しない(その1)」などをご覧ください。)

「違い」の強調が、新たな分断や差別を生むことがある

ただし、このような「違い」の強調は、それが対象となる人たちの「くくり出し」になってしまった場合、新たな分断や差別を生むことがあります。「性的少数者(いわゆる、LGBTQ+)は、人口の何パーセントくらいいるのか」という問いは、だれもが感じる素朴な疑問です。しかし、実際には、ある人が「性的少数者」であるかどうかは、実は簡単に決めることはできないことです。たとえば、「性のあり方」のひとつの見方である「性自認(Gender Identity、自分の性(性別)をどのように考えているか」ということ)」ひとつをとっても、実際には、その内容は「複雑かつあいまい」なのです

「えっ、だって性自認といえば、自分を女性と思っているか、男性と思っているかだけのことでしょ」と思われる方も多いかもしれません。しかし実際には、たとえば、自分を性的少数者だと感じている人に、「あなたは自分を女性だと思っていますか、それとも男性だと思っていますか」という質問した時、「わかりません」とか、「どちらとも言えません」とか、「どちらかといえば、男性かな」というような答えが返ってくることも多いのです。自分の「性自認」の内容は、年齢とともに、また状況によって揺れ動いていると感じている人も多いようです

前回、「人を、女性と男性に分けることはできない」ということを、男女別競技スポーツを例に書きました。競技スポーツの場合は、身体的要素が問題なのですから、染色体や性ホルモンの量の違いで判断すれば、それで済むように思えますが、実際には、それでは「人を、女性と男性に分けることはできない」ということが、起きるのです。(くわしくは、「人を、女性と男性に分けることはできない 〜男女別スポーツ競技の破綻(はたん)〜」をご覧ください。)

ましてや、これが「性自認」のような、「自分をどう思っているか」というその人の心(思い)がメインになることになれば、「人(自分)を、女性と男性に分けることは簡単にできない」という事態は、当然、起きてきてあたり前のことではないでしょうか。同じようなことは、「性的指向(sexual orientation、どのような性(性別)を好きになるか)」についても、当然、起きてきます。(ちなみに、「性的指向(Sexual Orientation)」と「性自認(Gender Identity)」をまとめて、SOGIと呼びます。)

「性的少数者」と「性的多数者」を区別できるのか

「性的少数者」という言い方は、実は「性的少数者」と「性的多数者」を、何かの基準ではっきり区別できる(線引きの線が引ける)と考えている点で、今、述べたような「複雑かつあいまいである」われわれの性のあり方の実態から、大きく遊離しています。本来、分けられないものを分けようとした(分けてしまった)時点で、つまり特定の人たちの「くくり出し」になってしまった時点で、この行為(判断)は差別的なものになりうるのです。その意味では、LGBTという呼称は、それを使っている人が思う以上に、「特定の特別な人」として、人を「くくり出す」差別的なニュアンスを含んでしまうことがあります。

誤解のないように書いておきますが、わたしは学校や職場で、「性的少数者」への理解や支援を進めることに反対するわけではありません。そのようなことは、現時点でもあまりに不充分なので、一層、強力に進めることが必要だと思っています。ただ、「性的少数者」を、理解や支援の必要な「特別な人」として「くくり出す」ことは、問題を含むということを言いたいのです。

人はみな多かれ少なかれ同性愛的な傾向を持っている

「違い」の強調が生む問題に対応するには、「共通性(連続性)」に着目することが必要になります。「共通性(連続性)」に着目するとは、かつてのような「同性愛は趣味や嗜好の問題だ」というような考えに戻ることではありません。違いの中にある「共通性(連続性)」に着目することです

わたしは、だいぶ前から、「人はみな多かれ少なかれ同性愛的な傾向を持っている。だから、そういう意味で、人はすべて両性愛者だと考えた方が実態に近いのではないか」と考えてきました。中学生や高校生の女子たちが、学校や町の中で、ずっと手をつないで歩いていたり、大会で優勝した時に、男子たちが抱き合って泣いたりする光景は、日常的に見られる光景ですが、「それらはあくまで友情であって、同性への指向(愛情)ではない」と言い切ることは、実はむずかしいのではないでしょうか。同性への友情には、常に同性愛的なものが含まれていると考えるほうが、むしろ実態に合っているのではないかとわたしは思います。

「友情」と「性愛」の違いは、言葉の世界でのもの

こういうことを書くと、「同性への友情と、同性(または、異性)への愛情(性愛)はまったく別のものだ」という意見が出てくると思います。しかし、それは「友情」と「性愛」は、それぞれの言葉の意味が違うように、そのような感情や欲望もまったく別のものだと思い込んでいる(そう思いたい)だけではないでしょうか。「同性への友情」と、「同性(または、異性)への愛情(性愛)」は、確かに言葉の意味は違いますが、その感情や欲望の内容やあり方は、実際にはどこかできっちり区分線が引けるものではありません

「白」や「黒」という言葉の生む錯覚

このことを単純な例で考えてみましょう。ここに白から黒へと連続したグラデーションがあります。両極端の白と黒は、比べてみれば確かにまったく共通性を持たない別の色です。しかし、現実に存在する色は、すべて広い意味でのグレーであって、すべての色(光)を吸収してしまう「黒」も、すべての色(光)を反射する「白」も、この世には存在しません。これが言葉と実物の関係です。


実際に存在するのは完全な「白」でも完全な「黒」でもない「グレー」

これを人にたとえてみるならば、人は、実際には自分はグレーでありながら、「自分は白だ」とか、「わたしは黒だ」とか思い込み、そう信じて、あくまでそうだと言い張っていることになります。そんな人に「いや、あなたは、はたから見ると白っぽいグレーだよ」と言うと、「なんだと。わたしは白だ。グレーだなんてふざけたことを言うな」と、むきになって言い返されるのです。

「毒親」や「繊細さん」という言葉が生み出す錯覚

現在、「毒親」とか、「繊細さん」という言葉が広く社会にゆきわたって、たくさんの人の共感を呼んでいるように見えます。しかし、100パーセントの「毒親」など、実はどこにもいませんし、100パーセントの「繊細さん」もどこにもいません。逆に言えば、「毒親」の要素を持たない親はどこにもいませんし、「繊細さん」の傾向をまったく持っていない人も、実はどこにもいないのです

「人はすべて両性愛者ではないか」

「友情」と「性愛」が、まったく別物だと思えるのは、それぞれの言葉の意味の「違い(対立)」で考えるからです。しかし、実際の同性への「愛情」は、「友情」と「性愛」の両方の内容を持っていると考える方が、むしろ実態に合った考え方だと思います。そして、そういう意味では、人はだれもが、程度の差はあれ同性と異性の両方への「愛情(性愛)」を持っていると考えることができます。そこから「人はすべて両性愛者ではないか」という考え方が生まれてきます。

「違い」で切り離したものを、再びつなぐこと

「人はすべて両性愛者ではないか」という考え方は、「共通性(連続性)」にもとづく考え方です。つまり、一度「違い(対立)」で切り離し、くくり出したものを、再びつなぐ考え方です。一見、対立するように見えるもの(「異性愛」と「同性愛」、または「女性への愛」と「男性への愛」)を、「愛情(性愛)」の観点からグラデーションで連続したものと考える考え方です

このような考え方は、「リビドー(性的欲動)は一種類しかない。リビドー(性的欲動)の起源は自己に向かう欲動(一次的ナルシシズム(自己愛))であって、それが生育歴などに応じて、さまざまな対象(異性、同性、物など)に向かうようになるのだ」という(わたしが勝手にそう理解しているだけかもしれませんが)ジークムント・フロイトの考え方とも通じるところがあります。

「リビドー」に男女の違いは、ない

フロイトの「リビドー(性的欲動)は一種類しかない」という考えは、きわめて重要です。つまり、「女性的リビドーとか男性的リビドーというものはない」ということだからです。日常的な言い回しでいえば、「(女性に向かう)男性的な愛」とか「(男性に向かう)女性的な愛」というものは、あるように見えて実はない、どちらも同じ一種類のもの、共通のものだということになるからです。フロイトはもともと異性愛の分析から「リビドー(性的欲動)」という考え方に到達したのですが、「リビドー(性的欲動)」には、男女の違いを見ることはできないと考えたのです。

さまざまな性のあり方のもとにあるもの

「リビドー(性的欲動)は一種類しかない」ということであれば、もともと人は「女性」を愛するか、「男性」を愛するか、「両性」を愛するかは、「リビドー(性的欲動)」の向かう方向の違いにすぎないことになります。さらに、このような考え方は、「アセクシャル」や「ノンセクシャル」などと呼ばれる、「異性愛」「同性愛」「両性愛」以外のさまざまな性(愛)のあり方にも広げて考えることができるはずです。くわしい説明は今のわたしにはできませんが、そのような性のあり方の多様性は、一種類の「リビドー」のさまざまなあらわれ方の違いとして、とらえることができるはずだからです。

「異性愛」と「同性愛」と「両性愛」は、どこかでつながっている

ここでも誤解のないように書いておきますが、わたしはわれわれひとりひとりが持っている、「わたしは異性愛者だ」、「わたしは同性愛者だ」、「わたしは両性愛者だ」などの自己認識が間違っているから取り消せと言いたい訳ではありません。一見、ひどく違っていて対立するように見える「異性愛」と「同性愛」と「両性愛」の三つが、どこかでつながっているところがある(共通性、連続性を持つ)ということを、「人はみな両性愛者ではないのか」と問いかけをとおして、明らかにしたいのです。

あとがき

差別や人権侵害の解決(改善)を考える上では、常に「違い」と「共通性」の両方を考えることが重要です。今回は、いわゆる「性的少数者の人権」に関わって、このことを確かめてみました。

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