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「自己肯定感」なんていらない 〜「自分」に苦しむことからの解放

「幸せになるためには『自己肯定感』が必要だ」そんなまことしやかな話が、日本を支配し始めてからもう十年以上がたったような気がします。自分を「繊細さん(HSP(Highly Sensitive Person))」だと思う人の中には、「自分が傷つきやすいのは、自己肯定感がたりないからだ」そんなふうに思っていらっしゃる方も多いのではないでしょうか。

一見、もっともに思える主張ですが

「幸せな人は、自己肯定感が高い。」だったら、「幸せになるためには、自己肯定感を高めればいい」。「レジリエンス(つらさへの弾性や回復力)が高い人は、自己肯定感が高い。」だったら、「レジリエンスを高めるためには、自己肯定感を高めればいい」。一見、もっともらしく聞こえるこのような主張は、よく考えてみれば「どこかおかしい」感じがします。結果と原因、現状と対策を混同しているからです

確かに、人が幸せに生きるためには自己肯定感があった方がよいでしょう。また、自己肯定感が高い人の方が、レジリエンスも高く、他の人の言動で傷つくことは少なそうです。アンケート調査などをすれば、そのような傾向がたいてい出てくるでしょう。しかし、そのような傾向があるからといって、「人が幸せに生きるためには、自己肯定感を持たなければならない」ということにはなりません。結果と原因を取り違えると、一見、救いに見えた「自己肯定感」という言葉が、逆にその人を苦しめるということが起きてきます

「自己肯定感」というものは、言わば「絵に描いた餅」

今まで、「自己肯定感を持ちたいとは思うんだけれど、けっこうむずかしい」という声をあちこちで聞きました。そういう人に対して、「一気に自己を肯定しようとせず、具体的なスモール・ステップ(小さな成功)を積み重ねればいいんです」とか、「自己肯定感をむずかしく考えずに、自己有用感(自分はだれかのために役立っている実感)だと思えばいいんだよ」というようなことをアドバイスする人がいます。もちろん、これらは善意から出たアドバイスですし、その内容も一見、現実的でよいもののように思えます。しかし、実際にやってみると口で言うほど、うまくはいきません。一般に言われる「自己肯定感」というものは、言わば「絵に描いた餅」のようなものだからです。とてもおいしそうに見えますが、手に入れようと努力しても実際にはなかなか手に入りません。また、たとえ手に入った気がしても、ちょっとしたトラブルが起きれば、すぐに「役に立たない(食べられない)」ことがあきらかになるのです。

「自己肯定感」を高めようとして、さらに「自己肯定感」を失う

「自己肯定感」を高めようとして失敗した人は、その結果、「自分は自己肯定感を高めることに失敗したダメな人間だ。」という思いを抱え、一層、「自己肯定感」を失うことになります。ここには、なにか根本的な間違いがあります。

この「自己肯定感」をめぐる「うまくいかなさ」は、一時期、はやったアドラー心理学の「うまくいかなさ」とよく似ていると思うのは、わたしだけでしょうか。「相手がわたしのことをどう思うかは、相手の課題であってわたしの課題ではない」そう言われると、なんだか目からうろこが落ちたような気がします。そうやって相手と自分の「課題」を分離できれば、人間関係の問題は解決するように思えるので、なんだか救われた気がするからです。しかし、実際にはそんなふうにうまくはいきません。そんなふうにばっさり割り切れるのは、すでに(ある程度)そんなふうに割り切れている人だけだからです。

「自己肯定感」というものの中身は

「幸せになるためには、自己肯定感を高めなければダメだ」と思う人の多くは、たぶん「自己肯定感」というものを勘違いしています。「人にほめられるような人になること」や「人にうらやましがられる人になること」が、「自己肯定感」を高めることだと思っていないでしょうか。そのような勘違いが典型的にあらわれているのが、先ほど述べた「自己肯定感」を「自己有用感」だと思うことです。

アンケートなどにあらわれる「幸せな人は、自己肯定感が高い。」という場合の「自己肯定感」の中身とは、ひと言で言ってしまえば「今のわたしはこれでいい」という思いのことです。「幸せ」とは、ざっくり言ってしまえば「今のわたしはこれでいい」と思えることであり、言い換えれば、「今のわたしはこれでいい」と思えることが「幸せ」という状態だからです。

これに対して、「自己肯定感を高めよう」という考え方は、「今の自分を変えて、自己肯定感が持てるような自分になろう」とすることですそのような考え方の背景には、「(自己肯定感が持てない)今のわたしはダメだ」という考え(言わば、「自己否定感」)があります。「自己否定感」に立って、「自己肯定感」を手に入れようとするのは、明らかに矛盾しています。東に向いて立ったまま、西に歩いていこうとするようなものです。そもそも向きと動きが矛盾しているのですから、うまく進まないのは、あまりにも当然のことです。結果として、人を幸せにするはずの理屈が、逆に人を不幸せにしてしまうのです。

今ここに「ない」ものを求めると、不幸から抜け出せなくなる

なぜこんなおかしなことが起きるのでしょうか。それはたぶん、今ここに「ない」ものを求めるからです。前回、「正しさ」とか「正しい状態」は、現実の生活の「つらさ」や「苦しみ」の中から、「つらさ」や「苦しみ」が「ない」状態として、切実に求められた結果として生まれてきたものだということを書きました。「自己肯定感」が今のわたしに「ない」もので、「自己肯定感」が「ない」から、今のわたしの「つらさ」が生まれているんだと考えた瞬間に、「自己肯定感」が、ぜひとも手に入れなければならないもの、幸せになるためにわたしの中に実現すべきこと、つまり「正しさ」になるのです。そこから生まれるのが、「人は自己肯定感を持たねばならない。そうしないと、幸せになれない。」という「正しい」理屈です。しかし、あるべき「正しい」状態が今ここに「ない(実現していない)」ということにとらわれてしまうと、必然的に人は不幸になり、自らが招いた不幸から抜け出せなくなります。(くわしくは、前回の「なぜ、『正しいこと』が通らないのか 〜『毒親』や自分の『繊細さ』に苦しむ人に〜」などをご覧ください。)

「自己肯定感なんていらない」

では、どうすればいいのでしょうか。人は東に向いて立ちながら、西に歩いていこうとすれば、身動きが取れなくなったり、後ろ向きのまま西に進んで木の根に足をとられて転んでしまいます。そうならないために必要なことは、たったひとつです。体の向きを180度回転してまず西を向くことです。必要なことは、「自己肯定感なんていらない」、「今のわたしはこれでいい」と思うことです。不安な気持ちが沸き起こってくるたびに、首を振って、「いいや違う。今のわたしはこれでいいんだ。」と自分に言い聞かせることです。

人は生きている限り動きます。理屈としては、体の向きが東向きから90度以上回転して、少しでも体が西側に向くようになれば、生きて動く(歩く)たびに、体は少しずつ西側に進んでいきます。結果としてさらに、わたし(あなた)は「今のわたしはこれでいい」と実感することができます。そして、あくまでその結果として、それが一般に言われる「自己肯定感」を高めることにつながっていきます。

「あるべき正しい自分」は、「自己愛」が生んだ「虚像」

わたしたちが、「自分」に苦しむのは、「わたしはこうであるはずだ」、「わたしはこうでなければならない」と思っている「あるべき正しい自分」の姿と、今の自分の姿が食い違っているからです。そんな「正しい自分」は、「自己愛」が生んだ「虚像」です。それが「虚像」であることを自覚し、「虚像」であると認めること、つまり「今のわたしはこれでいい」と思うことが、体の向きを今とは逆向きに回転させることになるのです。(「自己愛」が生む「虚像」については、「『自己愛の罠(わな)』について」などをご覧いただければ、幸いです。)

あとがき

今回の文章をお読みになって、「『今のわたしはこれでいい』そう思える人はいいけれど、わたしはとてもそう思えないからつらいのだ。」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。ここに書いたことも、アドラー心理学と同じで、「なるほどそうかと思うけれど、実際にやってみようと思ったらできない」ことだとお感じになる方もいらっしゃるかもしれません。しかし、「今のわたしはこれでいい」と思うことは、アドラー心理学の正しそうな理屈(「絵に描いた餅」)とは少し違います。次回は、今回書けなかったそんな点を、もう少し書いてみたいと思います。

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