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「自己愛の罠(わな)」について 〜「恨み」から解き放たれるために〜

「自己愛(自分への満足欲求)」は、人の「生きる力」と分かちがたく結びついています。そして、「自己愛」は人の「幸せ」と「不幸せ」の両方の原因となります。「自己愛」が満たされた時、人は「幸せ」となり、「自己愛」が満たされなかった時、人は「不幸せ」となるからです。今回、題名にした「自己愛の罠(わな)」につかまってしまうと、人は「不幸せ」から抜け出せなくなります

人権侵害を生む「自己愛の罠」

「自己愛の罠」はいろいろあります。職場において、思いどおりに動かない部下や同僚に対して声を荒げたり、皮肉を言ったり、嫌がらせをしたりする人がいます。そういう人は、「人を思いどおりに動かせる自分」を誇りに思い、そういう「自分」を愛し、そういう「自分」であることを生きがいにしている人です。ところが、思いどおりに動かない相手が目の前に現れ、「人を思いどおりに動かせる自分」というイメージが「虚像(思い込み)」であることが突きつけられた時、問題が起きます。そんな場合、多くの人は自分が愛してきた「自分」のイメージが、実は「虚像(思い込み)」であったことを認めることができずに、自分は「わるくない」、相手が「おかしい人」だからこんなことが起きているんだと考えて、声を荒げたり、皮肉を言ったり、嫌がらせをしたりしてしまいます。これが「自己愛の罠」につかまるということであり、こうしてパワーハラスメントが始まります。

同様のことは、親が思いどおりにならない子どもに対して、また介護者が思いどおりにならない認知症の高齢者に対してなど、思いどおりにならない相手に対して、いくらでも起きることです。その結果、「自己愛の罠」につかまった人が、自分の思いどおりにならない相手(子ども、女性、高齢者、在留外国人、障害者、性的少数者、被差別部落の出身者など)に、さまざまな人権侵害や差別を行っていると見ることができます。

よく、相手に対する間違った「偏見」や「先入観」が人権侵害や差別を生んでいると言われます。しかし、それは勘違いです。人権侵害や差別を生んでいるのは、「自己愛の罠」がもたらす「わたしは正しい、おかしいのはあの人だ」という考えです。間違った「偏見」や「先入観」が生まれてくるのは、その後のことです。(このことについて、くわしくは、「『多様性の尊重』は人権問題を解決しない(その2)」などをご覧ください。)

「自己愛の罠」には、人権侵害の被害者もつかまる

「自己愛の罠」は、このように人権侵害や差別の加害者をつかまえるだけでなく、被害者の方をつかまえることもあります。たとえば、自分の親が「毒親」だと思い始めた人は、その結果、「自己愛の罠」につかまってしまうことが、ままあります。「今の自分のつらさや苦しさは、わたしの親(「毒親」)のせいだ」という考えにはまり込んでしまうと、先ほど述べた加害者の「わたしは正しい、おかしいのはあの人だ」と、まったく同じ考え方になってしまうからです。このような場合、被害者もまた「自己愛の罠」に半分つかまってしまっていると言ってよいかもしれません。

「あの人(「毒親」)のせいで、わたしはそれができない」と思い、そのことで自分を「みじめだ」「不幸だ」と思い、自分をこのようにした(している)相手を「ゆるせない」と思っている人は、「自己愛の罠」に半分つかまっている可能性があります。具体的には、わたしは親が「毒親」だったから、こんなふうに「安心感を持つことができないんだ」、「自己肯定感を持つことができないんだ」、「人と自然に話すことができないんだ」等々と思っている場合、「自己愛の罠」に半分つかまってしまっているかもしれません。

「自己愛」とは「虚像(ニセ)のわたし」を愛すること

加害者においても被害者においても、「それができるわたし」、「それができたはずのわたし」というのは、わたしが思い描いている「虚像(ニセ)のわたし」です。「自己愛」とは、本来、「虚像(ニセ)のわたし」を「本当のわたし」と思い込んで、「虚像のわたし」を「好きになること」「愛してしまうこと」です。(くわしくは、「自己愛とどうつき合うか 〜自分を愛せないのはなぜか〜」などをご覧ください。)自分の親が「毒親」だと思う人が、「もしわたしの親がああでなかったら」、わたしは「そうすることができる(できた)はずだ」、「幸せになれる(なれた)はずだ」と考えるならば、それは「自己愛の罠」に半分つかまっていると言ってよいかもしれません。

「自己愛の罠」に「完全につかまった」状態とは

ただし、ここまでであれば、まだ「自己愛の罠」に「半分つかまった」状態であって、「完全につかまった」状態ではありません。完全につかまった状態とは、「親が変わらない限り」、わたしは「そうすることができる」ようにはなれない。「そうすることができる」ようにならない限り、わたしは「幸せ」になれないと思ってしまった状態です。ここまで来ると、自分の力で「自己愛の罠」の落とし穴から抜け出すことは、きわめてむずかしくなります。

「わたしが不幸なのは、あのおかしな人たちのせいだ」

ここで一般論に戻ります。人権侵害や差別に限らず、人は多くの場合、自分が「できない」ことや、自分が「不幸せである」ことの原因を、自分に直接関わる人(家族や同僚等)や、ある性質(国籍、主義、習慣等)を持つ人たちや、自分を取り巻く環境(ルール、組織等)のせいにしがちです。「本当のわたしはできるんだ。できないようにさせているのは、おかしなあの人たちだ」というわけです。この考え方をもっとわかりやすく言ってしまえば、「わたしが不幸なのは、あのおかしな人たちのせいだ」ということになります。

もちろん、そのような考え方にも一理はあります。あの人たちがもうちょっと違う人たちだったら、環境がもう少し違う環境だったら、わたしはこうならなかった可能性は確かにある気がするからです。同じように、あの人たちが今から変われば、わたしはそれが「できる」ようになり、「幸せ」になれる可能性があるように思えます。しかし、このような「わたしができないのは、わたしが不幸なのは、あの人たちのせいだ」という考え方は、たとえ理屈としてはもっともなところがあっても、致命的な問題を抱えています。そのような考え方によって、今まで述べてきた「自己愛の罠」という落とし穴に、はまり込んでしまうからです。

「正義(正しさ)」の力で、相手を変えることはできない

たしかに「本当のわたしはできるんだ。できないのは、あの人(たち)のせいだ」と考えることによって、わたしは「できない」自分を前にして「自己愛」が「傷つく」ことに目をふさぐことができます。そして、「自分のできないみじめさや屈辱」を忘れて、相手を非難し続けることで「自己愛(「虚像のわたし」への愛)」を守ることができます。しかし、「わたしがこれをできないのは、あの人(たち)のせいだ」と決めてしまうことは、「あの人(たち)」を変えない限りわたしは「できる」ようになれない、「幸せ」になれないと決めてしまうことでもあります

「正しさ」で、相手を「反省」させることはできない

もし、「わたしがこれをできないのは、すべてあの人たちのせいだ」と考え、なんとかして「おかしな、間違ったあの人たち」を変えようと考えたら、人はどうするでしょうか。そのような場合、人は必ずと言っていいほど、自分が信じる「正しさ(たとえば「子どもの人権の尊重」)」を前面に出し、その「正義(正しさ)」の力で、相手を「反省」させ、変えようとします。実際にやってみればわかりますが、これは必ずと言っていいほど失敗します。

以前、「力で人を動かすことはできない」と書きましたが、自分の信じる「正義(正しさ)」の力で、相手を動かすことも、できないのです。相手はまったく別の「正しさ(たとえば「親の責任」や「子どもの義務」)」を信じていますから、いくら自分が信じる「正しさ」が、間違いのないものに思えても、実際には相手を動かす力を持ちません。結局、自分としては「絶対そうしたい、そうしなければならない」のに、いつまでたっても「現実はそうならない」という状態が生まれ、わたしはそのことにさらにいら立ち、さらにみじめな思いを味わうことになります。これが「自己愛の罠」の落とし穴に完全にはまってしまった状態です。

「ルールや人々の考え」を変えようとする努力

しかし、「自己愛の罠」はさらなる問題をもたらすこともあります。今述べたように、自分の信じる「正義(正しさ)」をいくら相手にぶつけても、相手が一向にわたしの言うことを聞かない場合、わたしは相手を直接変えることをあきらめて、相手を取り囲む人たちを、自分の信じる「正義(正しさ)」の力で変えようとします。たとえば、職場の上司を、自分にパワーハラスメントをしていると、職場のコンプライアンス委員会等に訴えるような行動に移ります。

これもやってみればわかりますが、実際にはなかなか思うとおりには進みません。しかし、大変な時間と労力をかけて、ある程度、相手を取り囲む人たちを変え、その結果、「ルールや人々の考え」を変えて、相手を追い込んだり、相手に形としての「謝罪」をさせることができることもあります。もちろんこのようなこと自体はすばらしいことです。そうやって長い歴史の中で人の「平等」は広がってきましたし、人権の尊重や多様性の尊重も進んできたのですから。

「自己愛の罠」の怖いところ

ただ、「自己愛の罠」の本当に怖いところは、たとえ自分が属する集団や社会において、自分の信じる「正しさ(正義)」が、思ったとおり少しずつ実現していくという展開になっても、それでわたしの抱える「問題」が解決するとは限らないところです。集団や社会において、自分の信じる「正しさ(正義)」が少しずつ実現するということは、「社会的な問題の解決」ではあっても、「個別的、具体的な問題の解決」にはならないからです。(この点について、くわしくは「個人の『正しさ』と社会の『正しさ』」などをご覧ください。)

「社会的な問題の解決」、たとえば裁判での一定の勝訴、加害者の形の上での「謝罪」、職場のルールや意識のある程度の改善、法律や制度のある程度の改正等が行われても、「自己愛の罠」に陥っている人の中にある「自己愛」の傷(の記憶)は、うずき続けています。その結果、こんな「改善」や「改正」では、まだ不充分で、本当の解決にはなっていないという思いが生まれてきます。実はその思いは、「改善」や「改正」の不充分さから来るものではなく、自分がかつて「自己愛」の「傷つき」に目をふさいだこと、そして今も目をふさいでいることから、沸き出してきているものなのです。かつて「自己愛」の「傷つき」に目をふさぎ、その結果、「自己愛の罠」に、はまってしまった人の場合、自分の信じる「正しさ(正義)」の実現が、いつのまにか自分の「自己愛」を傷つけたもの(相手、集団、社会等)への「復讐(報復)」の実現になっていることが多いのです。

「復讐」をしても「恨み」を晴らすことはできない

しかし、「復讐」を実現しても、それで「恨み」を晴らすことはできません。「自己愛」を傷つけられたわたしにとって、本当に「憎い(恨めしい)」のは、実は「ウソの自分を、本当の自分だと思い込み、愛していたわたし自身」だからです。そのような「ウソの自分」を愛していたことの「みじめさと屈辱」、これが、「自己愛」の「傷つき」の中身です。その中身を見たくないばかりに、わたしは「自己愛」の「傷つき」をいやそうとして、相手を攻撃し、相手への「復讐」を果たそうとしますが、それで「恨み」を晴らすことはできません

「怨(うら)みは、すててこそ息(や)む」というブッダの言葉

お釈迦様(ブッダ)は、『法句経(ダンマパダ(真理のことば))』の中で、「実(まこと)にこの世においては、怨(うら)みに報(むく)いるに怨みを以(もっ)てしたならば、ついに怨みの息(や)むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である」(『ブッダの真理のことば・感興のことば』岩波文庫)と言っているそうです。「恨みをはらそうと復讐をしても、復讐の連鎖になるだけだ」ということは、おそらくブッダ以前の賢い人たちも知っていたことでしょう。ブッダのすごいところは、「恨みはすてることができる」と考え、「恨みをすてることだけが、恨みのもたらす苦しみから解き放たれる唯一の方法だ」と考えたところだと思います。

「恨み」は「自己愛」の「傷つき」から生まれたもの

ここまでしてきた「自己愛」の話に引きつけて、わたしなりにブッダの言うことをかみ砕いてみます。「恨み」とは、「自己愛」の「傷つき」から生まれてきたものです。「恨み」は、「相手(この場合、人だけでなく、ものも含みます)を思うようにできなかった自分」への失望や落胆、愛していた「できる自分」に裏切られたことから生まれた「みじめさや屈辱」が、自分に向かわず、相手に向かった感情です

「恨み」から解き放たれるためには

ですから、「恨み」を消そうとして相手を攻撃し、相手を苦しめ、そうやっていくら相手に「復讐」しても、わたしの「恨み」が晴れることはないのです。「恨み」は「虚像の自分」に裏切られた自分の思い(屈辱やみじめさ)の中から生まれてきたものなので、「恨み」を消し、「恨み」を終わらせるためには、自分に向き合うしかないのです。つまり、相手(人だけでなく、ものも含みます)を思うように動かすことができず、トラブルや事故や災害などを防ぐことのできなかった「自分」を、自分として「受け入れる」、つまり「できない(できなかった)自分」を「ゆるす」しかないのです。これがブッダが言った「恨みをすてる」ということの中身になると思います。

われわれが幸せになる条件

「不幸せ」とは「自己愛の罠」に、はまってしまった状態、「幸せ」とは「自己愛」がうまく動いている状態のことだと言ってもいいのではないかと思います。われわれが幸せになる条件がひとつだけあるとすれば、それは「できない(できなかった)」自分を「ゆるす」ことです。自分を「ゆるす」とは、「自己愛の罠」にはまり込まず、「自己愛の罠」から抜け出して、「自己愛」の対象である「(虚構の)わたし」を常に、「今のここにいるわたし」にできるだけ近いものに修正し続けることです。

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