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個人の「正しさ」と社会の「正しさ」〜「正義」から「責任」へ(その6)

「『正義』から『責任』へ」という副題で書き継いできた文章も、前回の「番外編」を入れるとこれで7回となりました。noteを書く上でのわたしのテーマは、人権問題や人権トラブルの「解決」です。そして、実際の人権問題は常に具体的な「人と人の関係」の中で起きます。そのため、人権問題の解決は具体的な「人と人の関係」の中で行われる必要があります

人権問題の解決とは、どうなることをいうのか

人権問題の解決とは、加害者と被害者がどのような状態になることを「解決」というのでしょうか。人権の尊重や多様性の尊重を訴える人たちは、わたしを含めて、実はこのことをあまりしっかり考えてこなかったような気がします。人権尊重という「理念」を、そのままこの世に実現すればいいというような、現実にはそもそも不可能なことを、「そうしなければならないんだから、そうすればいいんだ」と素朴に考えてきた傾向があると思うのです。結果として、現実にどういう状態になれば、人権侵害や差別の解決といえるのかということが、ずっと「あいまい」であったと思います。

「平等」とは具体的にどういう状態なのか

「理念」をそのままこの世に実現することはできないということは、たとえば「平等」という「理念」について考えてみると、わかりやすいと思います。「平等」ということがどういうことかは、だれでも一応わかったつもりでいます。しかし、その一方で、この社会において具体的にどういう状態が、「平等」なのかは、実はきわめて「あいまい」なままです。そのため、生活保護制度ひとつとっても、さまざまに意見が対立します。

なぜ、学校での「いじめ」はなくならないか

たぶんわれわれは、実際に起きている人権侵害や差別の加害者や傍観者たちの、その考えや態度を改めさせることに力を注ぎ、具体的に人と人との間に、どういう関係をつくることが、人権侵害や差別の解決になるのか、あまり考えてこなかったのです。

学校でのいじめで言えば、いじめをした子どもや見て見ぬふりをしていた子どもたちに、まず「いじめがどんなに人の心を傷つける、いけない行為か」をホームルームでよく理解させる。その上で、放課後、応接室に加害者、被害者と、それぞれの親を呼んで、親の前で加害者から被害者に「ごめんなさい」を言わせ、二人に仲直りの握手をさせる。そうすれば、いじめの解決になると考えるようなものです。それでいじめはなくなるでしょうか。なくなりません。子どもたち同士の関係が変わらない限り、いじめは一層、巧妙化し、見えづらい形になって続くのです。(学校でのいじめが、どうして起きるかについては、「高校生のための人権入門(13) 学校でのいじめについて」などをご覧ください。)

われわれは人権尊重という「理念」(学校で言えば、「いじめのない学校」)を、どのような形でこの世に(学校に)根づかせるかについて、実はほとんど考えてこなかったのです。

個人の「正しさ」と社会の「正しさ」とは、別のもの

人権侵害や差別の解決が、われわれが住む社会において、現実にどのような形のものになるかを考えていく上で、大事なことがひとつあります。それは、個別の人間関係(具体的な「人と人の関係」)の中での解決と、社会における解決(法律や裁判の判決等)とは別のものだということです。言ってみれば、個人の「正しさ」というものと社会の「正しさ」というものは、本来、別物なのです

「きちんとした謝罪がない」という被害者の不満

人権に関わる民事裁判で、原告(被害者側)が勝訴し、加害者が賠償金の支払いを命じられた場合、加害者側が控訴等をしなければ、そこで判決は確定します。しかし、勝訴した被害者(または、その代理人)が、裁判後の会見などで、「(加害者からのきちんとした)謝罪がない」と不満を述べることがままあります。このような時に、社会における解決(法律や裁判の判決等)と、個別の人間関係(具体的な「人と人の関係」)の中での解決とは、別のものなのだということがはっきりとわかります。

加害者側にとっては、賠償金の支払い等を受け入れた時点で、自分(たち)はするべきことをし終えて、この問題はすべて解決したと考えます。加害者側が、ここで問題にしているのは「社会における解決」です。一方、被害者側は、加害者側が賠償金を払えばそれですべきことは終わりだという態度をとった時、「自分はお金がほしかったんではない。加害者から、ひと言でいいから誠意のある謝罪がほしかった。そのために裁判をしたのだ。それなのにこれはなんだ。」と考えます。この場合、被害者の求めているものは、個別の人間関係(具体的な「人と人の関係」)における解決です。被害者にとって人権問題の解決は、社会における解決(判決等)だけでなく、実際の「人と人(自分と相手)の関係」の中で、相手(加害者)の具体的な行動(反省、謝罪、行動の変容)として行われなければ、解決とはなりません

「差別禁止法」の制定だけでは不充分

現在も日本の中にたくさんの差別や人権侵害が存在します。(くわしくは、「高校生のための人権入門(全27回)」などをご覧ください。)そのような差別や人権侵害をなくすためには、憲法だけでは不充分なので、もっと具体的な「差別禁止法」や「人権尊重法」をつくればよい(つくるべきだ)という考え方があります。基本的には、わたしもその考えに賛成です。すでにそのような法律がほかの国々にもいくつかあるのですから、それを参考にして日本でも、一日も早く部落差別を始めとするさまざまな差別を禁止し、多様な人々の人権を尊重する法律がつくられるべきだと思っています。

ただ、「差別禁止法」や「人権尊重法」の制定を求めている人たちもよくご存知のことですが、そのような法律ができれば、それで人権問題が解決するわけではありません。

「義務」はどこまでいっても、「責任」にはつながらない

実際の人権問題が常に具体的な「人と人の関係」の中で起きる以上、人権尊重は、本来、具体的な「人と人の関係」の中で「責任(そうしないではいられない)」として実行されなければ意味がありません。しかし、法律がすること(できること)は、あくまで人権尊重を「義務(そうしなければならない)」として命じ、「義務」を守らなかった人を罰することです。しかも、「義務」はどこまで強制力(罰則)を強めていっても、決して「責任」にはつながりません。飲酒運転の罰則をいくら強化しても、飲酒運転はなくならないようなものです。(「責任」と「義務」の関係については、「『義務』から『責任』へ ~人権尊重の観点を変える~」などをご覧ください。)

わたしがこのnoteの中で考えてきたのは、具体的な「人と人の関係」の中での人権問題の解決です。もちろん、社会の中での人権問題の解決(社会的運動や法律の制定等)が、無意味だと言っているわけではありません。それは不可欠なことです。しかし、法律の制定はあくまで人権尊重のための必要条件であって、充分条件ではないのです。

具体的な人権問題の解決の出発点

人権侵害や差別を受けた被害者が、まず望むことは、「加害者が心から反省し、謝罪し、その行動を変えること」です。具体的な「人と人の関係」の中での人権問題の解決を考えるのなら、ここが出発点です。ただ、今までnoteにくり返し書いてきましたが、実際には、「加害者が心から反省し、謝罪し、その行動を変える」などということは、この社会ではまず起きません

自分の子どもから「毒親」と思われている親が、子どもや周囲の人からその「毒親」ぶりを指摘されて、「心から反省し、謝罪し、その行動を変えること」を要求された時に、悪かったと反省し、すまなかったと謝り、今までの言動を改めるなどということが起きるでしょうか。そんことはまずありません。そんな自分の過ちに気づいてすぐに反省するような親であれば、そもそも「毒親」とは呼ばれません

では、どうすれば具体的な「人と人の関係」の中で人権問題の解決は可能になるのでしょうか。人権問題の解決は、加害者の心の中に「反省」ではなく、「責任」を感じさせることによって可能になるだろうというのが、わたしの考えです。

次回は、加害者の心の中に「責任」を感じさせ、行動を変えさせる段取り(ステップ)を検討してみたいと思います。

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