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「義務」から「責任」へ ~人権尊重の観点を変える~

前回の最後に、「人権尊重をすることは、たぶん『責任』ではあっても、『義務』ではない」ということを書きました。人権尊重をこの社会で実現するためには、「人権尊重はみんなの義務だ」とする考えから、「人権尊重はみんなの責任だ」とする考えに変えることが必要だと思います。

交通事故における「義務」と「責任」

「義務」と「責任」の違いを考えるために、交通事故で負傷者が出た場合を考えてみます。道路交通法第72条1項前段には次のような内容のことが書かれています。

「交通事故があったときは、交通事故に関係した車の運転者や乗務員は、直ちに運転を停止して、負傷者を救護し、道路の安全を確保しなければならない」

この場合、当事者同士の「力」の関係を見てみると、負傷者が相対的に「弱い立場」の人になり、(あまり)負傷していない運転者や乗務員が「強い立場」の人になります。この条文は「強い立場」の人が、「弱い立場」の人を救護することを「義務」として定めていることになります。ここで注意すべきことがふたつあると思います。ひとつは、救護の義務は、事故の過失割合の高い方(いわば、加害者、「悪い方」)にだけあるのではなく、被害者(言わば、「良い方」)の側にも、同じようにあるということです。救護の義務は、運転の「正しさ」とは無関係です

もうひとつは、道路交通法は、運転者や乗務員に救護の「義務」を課しているのであって、事故の目撃者にはそのような「義務」は課していないということです。つまり、目の前で交通事故を目撃し、負傷者が出た場合でも、何もせずその場を立ち去っても目撃者が罰せられることはありません。

しかし、もし目の前で二台の車が正面衝突し、どちらの運転手も負傷して動けないような事故を目撃したならば、ほとんどの人はすぐに警察や消防署に連絡し、救急車を呼ぶでしょう。特に自分以外に目撃者がいない深夜の事故であったりすれば、なおさらです。なぜそうするのでしょうか。たぶん、わたしを含めて、そうしなければ後で、「自分はそうしようと思ったらできたのに、なぜそうしなかったのか」という道義的な「責任」を感じるからでしょう

「義務」の出所は「法律や決まり」

「義務」と「責任」はどこが違うのでしょうか。そもそも「義務」と「責任」では、その出所(でどころ、生じてくる基盤)が違うとわたしは思います。「義務」というものは、今の社会においては、国や自治体や組織等が、法令や規則を通して、所属する人(たち)に課しているものです。そして、その「義務」を果たさない人(たち)がいた場合、国や自治体や組織等はそういう人(たち)を罰することができます。このように、今の社会においては、義務と罰則は本来、セットになっています

「責任」の出所は「負い目(やましさ)」

それでは、「責任」の出所はどこでしょうか。ちょっと考えると、「責任」の出所は、法律ができる元となっているとされる、その社会の「しきたり」、「マナー」、「道徳」や、人間の「良心」のように思えます。「ウソをついてはいけない」とか、「困った人を助けなければならない」というような、その社会の「徳目」とでも呼べそうなものです。しかし、もし社会の「しきたり」、「マナー」、「道徳」に従わないとまずいことになると思って、負傷者の救護等をしたとすれば、それは損得に基づく「義務」感(やらなければ、社会から非難される(罰を受ける)という恐れ」からそれを行っているわけですから、それはむしろ先ほど述べた「義務」に近いもので、ここで問題にしたい「責任」とは違います。わたしの考える「責任」は、他人からの評価(広い意味での自分の損得)等とは関係ありません

とは言え、損得(すれば幸せになる、しなければ不幸せになる)に基づかない「徳目」を考えた人もいます。それが、イマヌエル・カントです。彼は損得に結びつかない「徳目」を「道徳法則(道徳律)」と呼び、「道徳法則(道徳律)」は無条件で(損得抜きで)、人に「何々しなさい」と命じるものだ(定言命法)と考えました。だとすれば、「責任」の出所は、「道徳法則(道徳律)」ということになりそうです。しかし、残念ながらカントの言うような「道徳法則(道徳律)」は、たぶん人間の頭や心の中には存在しません。それでも、現に人は損得抜きで自分の「責任」を感じることがあります。では、人が感じるそのような「責任」の出所はどこなのでしょうか。わたしはおそらくそれは、「負い目(やましさ)」と呼ばれているものではないかと思います

「できることをしない」ことへの「負い目(やましさ)」

先ほど述べた交通事故の例で言えば、たとえ法律的には、目撃者に救護義務はなくても、他にだれも救護をする人がいなければ、多くの人はなんとか自分のできることをして負傷者を助けようとします。そうしなければ、後で人から悪口を言われるからではありません。それはなぜそうするのでしょうか。「しようと思えばできる(できた)のに、自分はなぜしない(しなかった)のか」という道義的な「責任」を、人は感じざるをえないからだろうと先ほどわたしは書きました。この道義的な「責任」とは、実は「負い目(やましさ)」に近いものです。なぜ、人は「しない(しなかった)」ことで、「負い目(やましさ)」を感じるのでしょうか。

力には「責任」がともなう

前回述べたように、一般に、「強い立場」の人は、「弱い立場」の人に対して、「責任」があります。より大きな「力」を持つ者は、その持っている「力」に応じた「責任」を持つ(持たざるをえない)のです。(くわしくは、前回の「力には責任がともなう~「強い立場」の人たちへ~」をご覧ください。)その「責任」とは、自分の力のもとにある相手(「弱い立場」の人)が、苦しんでいるのに、その苦しみをある程度、減らす力を持っている自分(「強い立場」の人)が、その力を使わなければ、必然的に「負い目(やましさ)」を自分が抱え込むことになるという予感または直感から生まれるものです

「負い目(やましさ)」の本質は、「恥」や「負債(借り)」の意識

この「負い目(やましさ)」の本質は、実は「道徳」や「良心」や「世間体」などと呼ばれるものとは、たぶんなんの関係もありません。むしろそれは、「恥」(「できるのに、自分の都合でしないですます」ことからくる自分への恥ずかしさ(失望))に近いものです。そして、この「恥」の意識は、「負債(借り)」の意識にきわめて近いものです

「強い立場」の人は、「弱い立場」の人よりも、「より多くの力」を持ちます。この「より多くの力」によって、「強い立場」の人は「弱い立場」の人を、(ある程度)思いどおりに動かすことができます。しかし、「強い立場」の人が持っている力とは、その内実をよく考えてみると、「弱い立場」の人から譲り受けているもの(預かりもの)に他なりません。[(注)参照]このような力の「譲り受け」は、さまざまな形で生じます。雇用関係の発生、選挙、親子関係の発生、交通事故の発生など、さまざまです。相手から譲り受けている力は、言わば、力の「負債(借り)」です。ですから、「強い立場」の人は、(ある程度)何らかの形でその「力」を相手に返さなければなりません。つまり、相手の苦しみが和らぐことをしてやらなければ、「強い立場」の人は、本来は「負い目」「恥」「負債」から逃れられないのです。

「強い立場」の人は、ずっと「負債」を払い続けてきた

こうやって理屈で説明するとめんどうですが、実は、たぶん人類の歴史の始めから、「強い立場」の人は、「弱い立場」の人に、このような「負債」をなんらかの形で返すことが必要だということを経験的に知っていて、ずっとそれを実践してきました。貴族から平民への、親から子への、隊長から部下への、社長から社員への「大盤振る舞い」や「無礼講」や「大目に見る処置」は、現にそこに存在する力関係(人間関係)を持続的に成り立たせていく上で必須のものだと理解し、人類は実行してきました。

ヘーゲルやニーチェはこのことをよくわかっていたと思います。カントも、目の前のプロイセン社会を見た時、力を持つ者が変わらなければならない(「負債」を払わなければならない)ことは、よくわかっていたのでしょうが、それを正面から取り上げることはせず、別のところ(定言命法、実践理性、道徳法則)から彼の考える「理想の人間関係(社会)」にたどり着く道を見出そうとしたのだろうと思います。

「責任」と「義務」の中身はまったく別物

われわれは、「責任」を倫理、道徳、法律から解き放つ必要があります。倫理、道徳、法律から出てくるのは「義務」です。「義務」の中身は、外からの強制的な力によって、「嫌でもそうしなければならない(しなければひどい目にあう)」ということです。しかし、「責任」の中身は、「自分が負い目を負わないためには、後悔しないためには、そうする必要がある」ということです。その中身を比べてみれば、この二つはまったく別物です。「義務」の本質は、「自由(わたしの生き方はわたしが選ぶ)」と相容れませんが、「責任」の本質は、「自由(わたしの生き方はわたしが選ぶ)」に基づいています。

新自由主義の社会は、力を持つ者が「責任」を捨てた社会

しかし、現在、われわれの前には、政治家を始めとして、「強い立場」にありながら、その「責任」を果たそうとしない人々がたくさんいます。新自由主義の社会とは、「『強い立場』の人間には、『弱い立場』の人間への『負債(責任)』など存在しない」と宣言した社会のように、わたしには見えます「責任」は、「義務」と違って、自分自身の中の「恥」や「負い目(負債)」を忘れれば(つまり、恥知らずになってしまえば)、いつでも放棄することができるからです。「自分は日本の法律に則って生きている。誰にも非難される覚えはない」という言葉は、「強い立場」の人間が、わたしは自分の「義務」は守っている、だから、自分の「責任」を放棄してどこが悪いんだという「恥」を捨てた居直りに他なりません

人権尊重を進め、差別や人権侵害を解決するには

わたしは、人権とは、「安心・自信・自由」を抱いて生きる権利だずっと考えてきました。(くわしくは、「高校生のための人権入門(17)人権の中身『安心、自信、自由』」などをご覧ください。)つまり、人権尊重とは、相手と自分の「安心・自信・自由」を守ることです。だとすれば、人権尊重を進めるということは、「強い立場」にいる者に、「弱い立場」の人の「安心・自信・自由」を守るという「責任」を果たすことを、求めることになります。

しかし、今や、ネット社会の中はもちろん、国会の中でさえ、さまざまな人権尊重の動きを、特定の人たちの「勝手なわがまま」と批判する動きがさかんです。このような動きに対して、人権を尊重することはあなたの「義務」だと主張しても、双方の対立や心の断絶は深まるばかりです。「強い立場」の人たちに、人権を尊重することは(あなたの「義務」ではなく)あなたの「責任」だと主張するように、人権尊重の観点を変えることが、今後、人権尊重を進める上で必須の課題であり、私たちの身の回りにある差別や人権侵害を「解決する(もつれ合った糸を解きほぐす)」道になると思います。

(注)「『強い立場』の人が持っている力とは、本来、『弱い立場』の人から譲り受けているもの(預かりもの)だ」ということは、きちんと説明しないとわかりにくいかもしれません。しかし、それをしっかり説明するには、相当の字数が必要になりますので、今回は省略しました。後日、改めて書いてみたいと思います。


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