見出し画像

力には責任がともなう ~「強い立場」の人たちへ~

力には、必ず責任がともなうのです。人の社会において、「強い立場」の人は「弱い立場」の人に対して、常に責任を持たねばなりません。しかし、そのことを自覚していない人があまりに多いのです。

相手を動かせるということは、責任を生む

力を持つ者、「強い立場」にいる人は、その持っている力によって、力を持たない者、「弱い立場」の人を、(ある程度)自分の思うとおりに動かすことができます。だからこそ、人は「力」を持ちたいと思い、人よりも「強い立場」につきたいと思います。しかし、相手を(ある程度)自分の思うとおりに動かすことができるということは、すなわち、相手に対して「責任」を持たねばならない立場に自分をおいているということなのだとわたしは思います。では、その「責任」とは、どのようにして生じるのでしょうか。

たとえば、職場において、「長」と名のつく立場についた人は、自分の力の下にある人たちや組織を(ある程度)自分の思うとおりに動かすことができます。しかし、相手を自分の思うとおりに動かすことができるということは、その行為がもたらす良い結果も、悪い結果も、すべて自分の「責任」として受け入れることになるのではないでしょうか。ところが、現在、「長」と名のつく人の中には、結果として出てきた良いことは自分の動き(工夫や努力)の成果だと考えますが、悪いことは自分の言うとおりに部下や組織が動かなかったせいだと考える人が結構います。そもそもそういう人は、人の上に立つ「資格」がないのではないかとわたしなどは思います。

悪い結果が出た時、どう考えるか

「長」と名のつく人にとって、人や組織が自分の思うとおりに動かないで悪い結果が出た場合、理屈としては、二つの相反する考え方をすることが可能です。ひとつは、「わたしの言うとおりに動かなかったのは、部下が悪い。だから、今後は部下がその考えを変えてわたしの言うとおりに動くべきだ」とする考え方(A)と、もうひとつは、「部下をわたしの思うとおりに動かせなかったのは、わたしに問題がある。だから、今後はわたしは自分の考えや行動を変えなければならない」とする考え方(B)です。理屈としてだけ考えるなら、このA、B二つの考え方のどちらにも、それなりの根拠(正当性)はあります

ただ、職場で「長」と名のつく立場を経験したことがあり、大きなトラブルなくその立場を維持してきた人であれば、部下の考え方や行動を実際に「変える」ことができるのは、たぶんBの考え方(まず、こちらのやり方や考え方を変える)を取った場合だということを経験的に知っているのではないかと思います。逆に、Aの考え方に執着しすぎると、自分の持っている力や「強い立場」を、さらに強力に使って、相手をなんとか思いどおりに動かそうとすることになります。結果として、それがパワーハラスメントにつながることにもなります。そんな事例は、みなさんの周りにも嫌というほどあるのではないでしょうか。

くり返しますが、Aの考え方も、Bの考え方も、理屈の正当性(もっともらしさ)としてはまったく「対等」なのです。しかし、実際の「にっちもさっちもいかなくなってしまったトラブル」の場面では、力を持つ者、「強い立場」にいる者がAの考え方を手放さないと、その行きづまってしまったトラブルはまず解決しません。

ここで、もう一度、これまでに二回(1回め2回め)ほど取り上げてきた不登校の問題(【思考実験2】)を取り上げてみます。

【思考実験2】はこういうものでした。
不登校になった子が、早く学校に行ってほしいと思っている親に向かって、「わたしはもう学校に行かない。子どもには不登校になる権利(学校に行かない権利(自由))があるはずだ」と主張したら、親はどう対応するでしょうか。(あなたがその子の親だったらどう思うでしょうか。)

親ができることは、ただひとつ

この場合、もちろん親が、「力を持つ者、『強い立場』の人」です。親は子ども(が自分の思うとおりに行動しない(=学校に行かない)こと)に対して、「子どもは学校に行かなければならない。だから、行かないこの子(あなた)がおかしい」と考えがちです。これが先ほどの「Aの考え方」であり、「力を持つ者」の理屈、「強い立場の者」の「正しさ」です。しかし、現実にこの考え方をさらに強く押し進めていけば、問題(不登校)はさらに深刻なもの(たとえば、子どもの体調の悪化や暴力、ひきこもり等)になっていきます。どんな「力」や「強い立場」や自分の「正しさ」を使っても、親が子を学校に行かせることはまず不可能です。そうした場合、親になにができるのでしょうか。できることはひとつです。「Aの考え方」を捨て、「Bの考え方」に変えることです

「強い立場」の者だけができること

一般的な言い方をすれば、力を持つ者、「強い立場」にいる者は、相手(力を持たない者、「弱い立場」にいる者)を、常に自分の思いに従って、「動かそう、変えよう」としています。しかし、それはいつか必ずどこかで、失敗し挫折します。相手が、「できない」こと「しようと思わないこと」を、自分の「力」や「強い立場」を使って、相手に「させよう」、「できるようにしよう」としても、それは無理だからです。なぜでしょうか。「弱い立場」の人が、今、それができないから、しようと思わない(思えない)から、今の問題が起きているのです。力を持たない者、「弱い立場」にいる者が、今の自分の現状(袋小路に入っているような、八方ふさがりの状況)を、変えられないでいる(変えたいとどうしても思えない)時に、今の状況から抜け出すために何かを変える(何かが変わる)ような行動ができる人は、両者の中で、より力を持つ者、「強い立場」にいる者の方です。不登校の例(【思考実験2】)で言えば、親が子に「あなたはあなたのままでいいんだよ」と言う以外に、今、この行きづまった、袋小路の状況から、親と子が抜け出す道はないのです。

「やさしさ」は親の義務ではない

ただ、わたしがここで言いたいことは、「親だったら、わが子をかわいそうだと思ってそうしなければならない」とか、「親だったら、わが子に『やさしさ』や『思いやり』を持たねばならない」ということでは、まったくありません。もちろん、親が不登校になった子にやさしくしたいとか、子をかわいそうだと思う気持ちを不必要だと言ったり、否定したりしたいわけではありません。ただ、「やさしさ」「思いやり」「がまん」「理解」「共感」等が、親の、また「強い立場」の人間の、「義務」だと言いたくはないのです。もし、親に子への「やさしさ」「思いやり」「がまん」「理解」「共感」を強制してしまったら、それこそまた親子関係の泥沼(「わたしがこんなにやさしくしているのに…」、「お前のためにこんなにわたしは、がまんしているのに…」等)に、親がははまり込んでしまうことがあるからです。

「強い立場」の者だけが、問題を解決できる

大事なことは、人間の関係において、解決しがたいトラブルが生まれた時、それを解決の方向に持っていけるのは、両者の中で力を持つ者、「強い立場」にいる者だけだということです。親や職場で「強い立場」にいる人は、この事実を自覚することが大切だとわたしは思います。これが最初に書いた「力には、必ず責任がともなうのです。人の世界において、『強い立場』の人は、いつも『弱い立場』の人に対して、責任を持たねばなりません」ということの意味です。親や上司は、子や部下を、やさしさや思いやりの権化になって「愛さなければならない」ということでは、ありません。目の前の問題は、親や職場で「強い立場」にいる人も苦しめているわけですから、それを解決することは、相手のためだけはなく、自分のためでもあるのです。

「責任」は「義務」ではない

以前にも書いたことですが、基本的にわたしは、「人は、自分ができることをすればいい」と考えています。できないことをしよう(しなければならない)と思う必要はありません。ただ、人と人の間に「力」関係や、「強い立場」と「弱い立場」がある関係では、「力」を持つ側、「強い立場」の側は、自分ができることはするという「責任」が、必然的に生まれてくるのだと考えます。「力」や「強い立場」というものが、そのような「責任」を、必然的に生み出すのです。そして、これが人間関係のおける「倫理」というものだろうと思います。「責任」は「義務(「当為(そうしなければならない)」)」ではありません。それは人とともに生きていく上で、関係の中で生じてくる「責任」です。おそらく、人権の尊重ということは、「力」を持つ側、「強い立場」の側の「責任」です。「義務」ではありません。

「障害者の人権」で、「強い立場」の人の「責任」を考える

最後に、これまで何度か【思考実験1】として取り上げてきた「障害者の人権」について考えてみます。今の社会においては、一般的には障害のない人が、障害のある人に対して、より「力」を持つ、「強い立場」になっています。そして、障害のない人は障害のある人に、常に「障害のないように振る舞うこと」を暗に求めています。そんなことはないと思う方が多いかもしれません。しかし、それはたぶん勘違いです。たとえば、街のあちこちにある「段差」の存在がそのことをはっきりあらわしています。車いすの利用者が、入りたい店の前にあるそのような段差を、自力では乗り越えられずに困っている時、それを見たら通りがかりの人も、店の店員も、その人が車いすに乗ったまま段差を越えられるように手を貸す「責任」があるのです(「義務」ではありません)。その場面においては、通りがかりの人も店員も、そのようなことができる「力」を持つ、「強い立場の人」だからです。(常にそういう力関係になるわけではありません。場合によっては、障害のある人が、逆に「力」を持つ、「強い立場」になる場合もあります。)

人権尊重を要求しても、受け入れられない理由

しばらく前に、「目の前の人に人権尊重を要求できるか」という文章の中で、「目の前の人に人権尊重を要求しても、そのような要求は受け入れられないだろう」ということを書きました。なぜでしょうか。もう一度、その理由を考えてみたいと思います。

おそらく、人権尊重をすることは、人権尊重をすることができる人(つまり、社会において、また人間関係において「力」を持ち、より「強い立場」にいる人)にとって、「責任」ではあっても、「義務」ではないからです。相手にその人の「責任」は自覚させることはある程度できますが、行為そのものを強制(相手に「義務」として要求)することはできないからだと、今のわたしは考えています。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?