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自己責任論は「人間」をやめること

「自己責任」という言葉が、まるで「当然のこと」のように口にされるようになったのは、いつごろからでしょうか。言葉自体は昔からあるのかもしれませんが、今のような使われ方をし始めたのは、新自由主義が日本に導入された頃、つまり20年ほど前からではないかと思います。「自分でそうしようと決めて(選んで)実行し、その結果は、すべて自分で引き受ける」という考え自体は、確かにもっともで、そうできればいいと思います。そのように考えることによって、人は初めて他人から独立した一人の人間として生きることができるからです。
しかし、このような考え方が持っている「正しさ」は実は、一面的なものです。なぜなら、ほとんどの人にとって、「自分でこうすることを決めて(選んで)、そうする」などということは、理屈の上では可能でも、現実にはきわめてむずかしいことだからです。「選択の自由」がないのであれば、そもそも「(自己)責任」ということは成り立ちません。

「自己責任」論のウソ

新型コロナの感染拡大で、もっともつらい目にあっているのは、ひとり親の女性ではないかと以前、書きました。(「高校生のための人権入門」第11回)そのようなことを書くと、「でも、離婚してシングル・マザーになった女性の問題は、結局、離婚したからそういうことになっているんですよね。離婚する時に離婚後の大変さはわかっていたはずなのに、それでも離婚を選んだのだから、そういう目にあっても仕方ないじゃないですか。自己責任ですよね。」というようなことを言う人が必ず出てきます。一見、もっともらしい意見ですが、こういう考え方をする人は、実際の離婚が、どれも「そうするしかない」という切羽詰まった状況の中で行われていることを、わざと無視しているようにわたしには感じられます。ひと言で言えば、そもそも離婚したくてする人などいないのです。もう無理だ、離婚するしか自分が(安心して、幸せに)生きていく道はないと思うから、人は離婚を選ぶのです。つまり、そのような場合には、実際には離婚しないことを選ぶ「選択の余地」とか、「選択の自由」というものは「ない」のです。そして、このようなことは、実は離婚に限りません。人生におけるわれわれの重大な決定(選択)は、たとえ気持ちの上ではいくら迷った上での決定(選択)であっても、本当のところは、そうする以外に「選択の余地」がなく、そうしているのです

「歴史に『もしも』はない」と言葉があります。実は、一人一人の人生を振り返ってみても、同じことが言えます。こうしたらこういうことになるとわかっていたら、こうはしなかった。つまり、もし、その選択の結果、起きることをもし知っていたなら、違う選択をしただろうと考えることは誰にもあることでしょう。しかし、選択をする(した)時点のわたしは、その選択の結果として出てくるものを知らないのですから、時間をいくら巻き戻して何度、同じ時点に立っても、わたしは必ず同じ選択をするのです。そういう意味では、少なくとも「過去の出来事」については、人間の「自由(選択する自由)」と「必然(選択の余地のなさ)」はぴったり一致しているのです

こう考えてくれば、他人に「自己責任」を要求すること自体が、大きな問題を含んでいることがわかってきます。さらにこの議論を延長していけば、他人の行為の「責任」を追及することができるのかどうかも、問題になってきます。ただ、この先は法や刑罰の問題になってしまうので、今回はこれ以上踏み込みません。

ヒトは群れの中でしか生きられない

ヒトはきわめて弱い生きものです。ですから、進化の過程でサルなどとの共通の祖先からヒトに枝分かれした時点でも、今のサルや類人猿と同じように群れで生活していたと考えられます。そして、その群れの中では、メンバーはそれぞれに自分が「できること」をして、それによって、それが「できない」メンバーが生きることを支えていたはずです。例外的な存在(たとえば、サルでいえば、ヒトリザル)を除いて、群れで生活することが、個々が生き延びることと直結していたはずです。これを「助け(扶け)合い」と呼ぶかどうかは、人によって見解が分かれるでしょうが、そのような行為があったことは、たぶん間違いないはずです。人の祖先にとって、「生きること」と、「群れをなすこと」と、「できることを提供し合うこと」は、切り離せないひとつのことだったと考えられるからです。
実際に、日本でも世界でも、群れ(集団)の仲間から食べるものなどを分けてもらえなかったら、この障害等を抱えながらこの年齢まで生きていられなかっただろうと判断される骨が、遺跡などから発見されています。

人は共同体の中でしか生きられない

このような人間の特徴は、文明が発達する中でもずっと残ってきました。もちろん、「そのようにした方がいい」、「そうしなければならない」理由は、時代によって変わります。タブー(禁忌、そうしなければ何か悪いことが起きるというような考え方や風習)とか、宗教とか、法律などが、その理由になりました。イギリスの歴史を振り返ってみれば、イギリスの「旧救貧法」(1601年)はキリスト教の考えに基づき、それぞれの教区(キリスト教で1人の司祭などが管轄するひとつの地域、ふつう複数の教会が含まれる(そうです))から救貧税を徴収し、それを障害などがあって働けない人に分けたり、働ける人にはそのお金で原材料を与えて物を作らせたりしました。さらに、フランス革命の影響がイギリスに及ぶことを防ぐためなどの理由でつくられた制度が、「スピーナムランド制」(1795年)です。この制度では、働いても最低の生活費が得られない者に、家族の人数などを考慮して不足分を補う手当が支給されました。ここには、今の「生活保護制度」などに通じる考え方があります。

このような法律や制度には、「群れや集団を維持するために、それができる者はできない者に対して、それをする」という人類誕生以来の、人が集団で生きていく上での大原則が残っていることがよくわかります。ただ、ここで注目しておきたいことがふたつあります。ひとつは、教区の構成員は、教区の中の貧しい人たちの生存に責任を持たなければならないという宗教的な扶助の考えが、このような法律や制度の根底にあるということです。もうひとつは、そのような扶助の行為が、お金の徴収(税)によって行われた(人と人の行為にお金が介在している)部分があったことです。

ただ、イギリスではその後、「スピーナムランド制」は、かえって貧しい人を増やしていると、古典経済学や自由主義の考えによって批判され、その批判にのっとって、「新救貧法」(1834年)が制定されます。この「新救貧法」の根底にあるのは、それまでの考え方とは逆方向の、貧しいのはしっかり働かないからであり、働かない者は法律で強制的に働かせるべきだ(「ただ乗りを許すな」)という考え方です。こちらはまさに今の「自己責任論」に通じる考え方です。

「お金」と「労働」の呪い

イギリスの救貧法の変遷を見れば、今のわれわれが住む世界(新自由主義にもとづく資本主義)の原型ができていく過程をそこに見ることができます。資本主義は、この世界のありとあらゆるものを「商品(お金で買えるもの)」にしてしまいます。その結果、共有の物(誰のものでもないみんなの物)は消滅し、すべてのものは個々人が所有する物(私有物)になってしまいます。たとえば、土地というものは、日本においても西洋においても、近代になるまでは、誰の物でもありませんでした。共有地、共同地はもちろんのこと、たとえ王や殿様が自分のものとして持っている土地(所領)も、実際は、その土地には人を住まわせて、そこから得たものを住民と自分で分けなければならなかったのです。土地は人が住むための必須のものであり、土地と人は不可分のものなので、土地だけを勝手に売り買いすること(私有物として扱うこと)などそもそも考えられないことでした。このような人と一体になった土地を、人(が生きること)から引き離し、私有物して売り買いできるようにしたのが、たとえばイギリスの囲い込み運動であり、日本の地租改正です(地租改正がもたらしたものについては、「高校生のための人権入門」第7回もご覧ください。)

すべてのものが誰かの私有物になってしまい、売り買いする(できる)もの(商品)になってしまうと、人が生きるためには、お金を手に入れるしかなくなります。そして、一般的には、お金を手に入れるためのほぼ唯一の手段が「労働(働くこと)」です。(ここはむしろ逆に、お金が手に入る行為のことを「労働(働くこと)」と呼ぶようになったと言った方が正確かもしれません。)その結果、「経済」とか、「経済学」という考え方が人間を支配することになります。「お金がないと生きられない」ことの結果として、「お金の動きが、人が生きることを支配する社会」が当たり前になるのです。しかし、このようなことは人間にとって、当たり前でも何でもありません。なぜなら、こういうことが当たり前になったのは、近代と呼ばれる時代が始まった、ここ数百年にすぎないからです。

「経済か、命か」という選択

ただ、このような考え方(「お金の動きが、人が生きることを支配する」)は、今、圧倒的な力でわれわれの考えを支配しています。そのため、「私有」―「お金」―「商品」―「労働」―「意味・価値」という緊密な結びつきの呪縛から、われわれは逃れられなくなってしまっています。このような考え方を仮に「経済学的見方」と呼んでみましょう。「経済学的見方」は、人間の歴史を振り返って見れば、きわめて短期間の、きわめて偏った見方です。確かに貨幣は数千年前からありましたが、その働きは今とは大きく違います。お金によって買える(交換できるもの)は、きわめて限られていたのです。「経済学的見方」は、歴史的には、たかだか200~300年のものにすぎません。しかし、この見方は圧倒的な力でわれわれの考えや生活を支配しています。新型コロナの感染拡大が始まってからも、繰り返し、「でも、経済を回さないと(われわれは生きていけない)」ということがあちこちで言われました。新型コロナは、「経済か、命か」という選択をわれわれに突きつけていると言った人も、たくさんいました。しかし、「経済か、命か」と言われて、どちらかだけを選べる人などふつうはいないので、結局、われわれは「両方、ほどほどに」ということにして、ごまかしてなんとかここまで来たわけです。

「よりよい生活か、命か」という選択

今から考えれば、新型コロナの感染に対して、「経済か、命か」のどちらかを選ばなければならないという問題の立て方自体が間違っています。問題を立てるなら、「よりよい生活か、命か」というふうに立てるべきです。ところが、「よりよい生活=経済が回っている状態」という間違った先入観があるために、「経済か、命か」という、無意味な堂々巡りから抜け出せなくなってしまうのです。「よりよい生活か、命か」というふうに問題を立て直してみれば、「よりよい生活」と「命」はもともと矛盾するものではないので、なんらかの解決点が出てきます。実際には、「生活していく上でのつらさの軽減」と「感染拡大防止のための医療、衛生の徹底」のバランスをどうやって取っていくかという問題になるのです。そして、2年以上にわたってわれわれが試行錯誤してきたことは、実際にはこちらの問題の解決なのです。「経済か、命か」などという選択ではありません。「よりよい生活か、命か」という本来の問題を、「経済か、命か」というニセの選択にすり替えてしまった人々の責任は、きわめて重いと思います。現実に、それによって高齢者を始めとして、死ななくて済んだはずの命があまりにたくさん失われたからです。

そもそも、「経済か、命か」の選択ができないのは、もともとまったく別の次元のことを比べているからです。「日本のGDPの数値を維持すること」と、「個々の人の命を維持すること」は、まったく別次元のことであり、比べること自体が無意味です。それでも、「日本のGDPの数値の維持」か「個々の人の命の維持」か、どうしてもひとつを選べと言われたら、ほとんどの人は「個々の人の命の維持」を選ぶでしょう。「日本のGDPの数値の維持」が、そのままそこに住む者の幸せにつながるとは、とても思えないからです。それでも、まだ、「わたしにはどちらも選べない」と思う方がいらっしゃるとすれば、それは、「経済を回す」ことがすなわち「よりよい生活(幸せな生活)」の必須条件であるという近代(資本主義)が生んだ思い込み(呪縛)から抜け出せないからです

終わりに

「自己責任論」は近代の経済学や自由主義が生んだ大ウソです。それは、実際には、失敗した(ように見える)人をあざ笑い、わたしは困っている人を助けない(でいい)という言い逃れのために使われています
現在もなお、現実には、人は一人では生きていけません。自分にはできないことがいくらでもあるからです。にもかかわらず、今の日本人が、「自分は一人で(ちゃんと)生きている」、「誰にも迷惑はかけていない」とか、「だから、あの人だって一人で生きていかれるはずだ」、「なのに、あの人がお金を手に入れる努力をしていない(ちゃんと働いていない)のはおかしい)」と考えてしまうのは、お金さえあれば、自分の持っていないものも手に入り、できないこともできるようになるという致命的な錯覚を抱いてしまっているからです。お金の存在が、人と人のつながりの間に入り込んでしまって、実際には今も存在する「人と人のつながり(自分のできることの社会への提供)」を見えなくしてしまっているのです。この錯覚が「自己責任論」を生んでいます
人類がその誕生の時から群れを組み、自分のできることを出し合って生きてきたことを考えるなら、「自己責任論」は、人間が「人間」であることをやめるということに等しいことだとわたしは思います。

参考図書
「『サル化』する人間社会(知のトレッキング叢書)」(集英社、山極寿一著)
「カール・ポランニーの経済学入門 (平凡社新書)」(平凡社、若森みどり著)
「入門経済思想史 世俗の思想家たち (ちくま学芸文庫)」(筑摩書房、ロバート・L. ハイルブローナー著、八木甫ほか訳)


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