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高校生のための人権入門(17) 人権の中身「安心、自信、自由」

人権尊重は無条件

もう一度ここで、パワーハラスメントの話に戻ります。パワーハラスメントの加害者も、ふつうパワーハラスメント自体を良いことだと思ってはいません。また、相手の人権を侵害して良いと思っている人もふつういません。だから、パワーハラスメントの加害者に、パワーハラスメントがいけないこと、許されないということ、人権は尊重しなければならないということを、何回繰り返して言っても実は効果はありません。「そんなことはわかってるよ。」と言い返されるのがおちです。加害者(そして加害者に共感している人たち)の本音とは、「パワーハラスメントはいけない、人権は尊重しなければならない。わたしだって、そんなことはわかっている。でも、あの人はひどすぎるから、そんなこと言っていられない。あんな人を放っておいたらみんなが迷惑する。だからわたしが厳しく叱ったんだ、どこが悪いんだ。」というものなのです。つまり、加害者が認めている「人権尊重」は、あくまで「条件つきの人権尊重」なのです。その条件から外れてしまう人に対しては、そもそも人権尊重など無理だし、する必要もないし、したらとんでもないことになる、そう思っています。その結果、さまざまなところで、パワーハラスメントが起きているというのが現実なのです。ここからわかることは、相手がどんな「ひどい人」で、自分や周りの人に迷惑をかけ、被害を及ぼしているように見える人であっても、それでも、その人の人権は尊重しなければならないということが納得できない限り、パワーハラスメントもさまざまな人権侵害もなくなることはありません。一言で言えば、人権尊重は無条件でなければ、そもそも無意味な言葉なのです

では、相手がどんな「ひどい人」であっても、なぜその人権は尊重されなければならないのでしょうか。かつてわたしは、それは「どんな人でも、その人が人である限り、人としての尊厳を持つからだ」と考えてきました。しかし、「人としての尊厳」などと言い始めたら、人権よりも説明するのがむずかしくなってしまいそうです。

「安心、自信、自由」が、人権と幸せの中身

そんな時、森田ゆりさんの本(『エンパワメントと人権: こころの力のみなもとへ』(部落解放研究所、森田ゆり著)、『新・子どもの虐待―生きる力が侵されるとき (岩波ブックレット)』(岩波書店、森田ゆり))を読んでいて、「これだ」と思いました。森田さんは本の中で、基本的人権の柱は「安心、自信、自由」の三つだと書いていました。それを読んで、わたしは、「そうだ。これが人権の中身なんだ。」と思いました。森田さんは、「安心、自信、自由」の三つが保障されなければ、子どもは生き生きと生きることができない。だから、この三つはすべての子どもに保障されなければならないと書いていました。しかし、考えてみれば、このことは別に子どもに限ったことではありません。おとなもまた子どもと同じように、自分の「安心、自信、自由」が保障されなければ、生き生きと生きていけない、生きていてうれしくないのです。人権侵害とは、その人の「安心、自信、自由」が傷つけられ、奪われている状態を言うのです。

「安心、自信、自由」ということを、わたしなりにわかりやすく言い換えてみると、こんなふうになります。「安心」とは、ひと言で言えば、「わたしはここにいていい」という思いです。「自信」とは、「今のわたしはこれでいい」という思いです。「自由」については、森田さん自身が、「日本人は『自由』と言うと、すぐに『わがまま勝手』と考えます。しかし、本来の自由はそういうことではなくて、『選択する自由』のことです」という意味のことを書いています。ただ、それでも日本では誤解が生まれそうなので、わたしとしては、ここで言う「自由」を、「わたしのことはわたしが決めている。つまり、わたしがわたしの人生の主人公だ。」という思いだと言い換えたいと思います。学校でいじめにあっている子が、まず奪われるのが、「安心(わたしはここ(この教室等)にいていいんだという思い)」です。「安心、自信、自由」とは、われわれが生きる上での「生きる力の源」だと言えます。「人権とはなにか」のところで、「人権とは、幸せに生きる権利だ」という説明があることを紹介しました。その時、「この説明も『幸せ』ということの中身、人はどうであれば幸せなのか、ということを明らかにしない限り、単なる『いい言葉』で終わってしまいます」と書きました。「『幸せ』ということの中身、人はどうであれば幸せなのか」の答えが、この「安心、自信、自由」です

この三つの中で、「安心」は比較的理解しやすいのですが、「自信(今のわたしはこれでいい)」という思いと「自由(わたしのことはわたしが決めている。つまり、わたしがわたしの人生の主人公だ)」という思いについては、もう少し説明が必要になると思います。

本当の「自信」とは

「自信」とは、「今のわたしはこれでいい」という思いだと先ほどお話しました。しかし、このようなことをパワーハラスメントをしている人に言えば、必ずこう反論されるはずです。「あの人が自分に自信を持って、『今のわたしはこれでいい』なんて思ったら大変だ。あんないいかげんなことをしているくせに、これで良いなんて思われたらこの会社(職場、組織等)は成り立たない。」と。そこまできつい反論ではなくても、「未熟な自分に自信を持ってしまって、『今のわたしはこれでいい』なんて思ったら、その人は永久に成長しなくなってしまうんじゃないのか。」と感じる方は多いと思います。

実は、そのような感想をお持ちの方が考えていらっしゃる「自信」は、わたしがここでお話したいと思っている「自信」とは、ちょっと違います。ここでわたしがお話したい「自信」とは、いわば、「本当の自信」です。それは、周りの人と比べて自分はどうかとか、人が自分をどう思っているかとか、自分が何ができるかとかいうこととは、まったく関係がありません。ふつうわれわれが、「自分に自信がある」とか「自分に自信がない」と言う時は、周りの人と比べて自分はどうかとか、人が自分をどう思っているかとか、自分に何ができるかということに基づいています。しかし、そういう自信は、わたしに言わせれば「相対的な自信」で、「本当の自信」ではありません。その証拠には、そのような自信はすぐに壊れてしまいます。例えば、自分は数学のテストで100点を取って学年1位になった。そのことで、自分の数学の力に自信を持っても、次のテストで90点をとって30位になってしまえば、一気にその自信は失われてしまいます。「本当の自信」は、1位になった時も、30位になった時も、「今のわたしはこれでいい」と思えることです。「本当の自信」とは、「今、自分がここに、こうしていることに、かけがえのない意味と価値を実感できているということ」です。ただし、「今のわたしはこれでいい」と思っているからといって、それは明日もこのままでいいと思っているわけではありません。「本当の自信」の持ち主であれば、「今のわたしはこれでいい」と思っても、「明日のわたしは、今とはもう少し違って、こうでありたい。もう少しよくなりたい。」と思います。だからこそ、子どもは放っておいても、本来、自分自身の力で成長していくのです。

「今の日本の子どもは自己肯定感や自尊感情が低い」などと言われていますが、その時に言われている自己肯定感や自尊感情とは、今、述べた「相対的自信(人と比べて自分はどうか、人が自分をどう見ているか)」の場合が多い気がします。本当の自己肯定感や自尊感情と呼べるものは、今、お話したような「本当の自信」のことだとわたくしは思います。わかりやすく言えば、「人は人、わたしはわたし、違って当然、これでいいんだ。焦る必要はないし、いばる必要もないし、ねたむ必要もまったくない。」という思いのことです。このように言うと、「それは誰にも個性がある。個性はかけがえのないものだということですね。」とおっしゃる方がいるかもしれません。しかし、それは、誤解です。「個性」とはふつう、人と比べて人とは違っている自分の性質のことを言います。わたしの考える「自信」は、くり返しますが、人と比べてどうかということとは、まったく関係がありません。人と比べて、同じか違うかということとは、まったく関係ないのが「本当の自信」です。みなさんは、そのような思い、自分に対しては「今のわたしはこれでいいんだ。」、相手に対しては「今のあなたはそれでいいんだ」というような思いを持っていますか。そのような思いを、人や自分に対して持てるなら、人は生き生きと(幸せに)生きることができます。逆に、そのような思いを持てないと、生きていることがとてもつらくなります。

以前、「子どもの人権について」のところで、コントロールとエンパワメントということをお話ししました。(エンパワメントという言葉も、森田ゆりさんの本で知りました。)今回お話しした「自信」との関連で言うならば、エンパワメントとはその人の「自信」を強めること、コントロールとはその人の「自信」を弱めることになります。

「自由」について

「自由」についても、もう少しお話します。「自由」とは、「選択する自由」であり、「わたしのことはわたしが決めている。つまり、わたしがわたしの人生の主人公だ。」という思いのことだとお話しました。そういうふうに言うと、なにかとても大変なことで、そんなふうに生きることは現実には不可能だと感じられるかもしれません。しかし、「選択の自由」は、実は生活におけるさまざまな場面で、必ず問題になっているのです。例えば、子どもが両親とともに、ファミリーレストランに行って食事をする時に、何を食べるか自分で決めさせるのも、その子の「選択の自由」を保障してあげることになります。子どもが、「カレーライスにしようか、それともハンバーグにしようか。」と迷っている時に、「明日の夕飯は、カレーにするつもりだから、ハンバーグにしなさい。」と親が決めてしまうのは、いわば子どもの「選択する自由」を奪っていることになります。こんなことは、ささいな例ですが、もっと重要な選択の場面もあります。中学生がどの高校に行こうか迷っている時に、親が子どもの将来をいろいろ考えて、子どもに一番良いと思える高校に進むように「誘導」するのは、たとえそれが「客観的に」も本人にとって一番良い(と思える)進路であっても、本人の「選択の自由」を奪っていることになります。「そんなことはしていない。うちの子は本人の希望第一であの高校に進んだんだ。」とほとんどの親は言います。しかし、実際に高校に入学した子どもたちに聞いてみれば、「わたしが決めたんじゃない。本当はここではなくて、あそこに行きたかったんだ。」と言う子どもは、実は相当な割合でいるのです。

そういうことが、高校に入学した後、不登校などによって明らかになった時、多くの親は、「だったらそう言えばいいのに。言わなきゃわからないでしょう。なんで言わなかったの。」というようなことを言います。そのような場合は、「言わなかった」のではなく、「言えなかった」のだと理解するのがよいと思います。なぜ、言えなかったのか。子どもにその理由を聞くと、「だって、言える雰囲気じゃなかった。」とか、「言ってもむだだと思った。」などと答えるからです。そういう場合は、たとえ中学の時に親が、「あなたはどうしたいの。」と聞いていても(実際、多くの場合、親は子どもにそのようなことを聞いています)、子どもは「こうしたい。」とはなかなか言いません。なぜでしょうか。自分の意思で選択することに慣れていない子どもは、特にこのような自分の人生に大きく関わること、親が「これはこの子にとってとても重要なことだ」と思っていること、親の経済状況等に大きく関わることについて、自分の考えで、ひとつを選択をすることがなかなかできません。自分の希望を言ってみても、親に、「あなたがそう思うなら、それでいいよ。」と言ってもらえる可能性が、とても低いことがわかっているからです。だから、多くの場合、子どもが「こうしたい。」と具体的に校名を出して答える場合も、親が望んでいる方向(それは、子どもにはよくわかっています)に合わせて答えることになります。その結果、親はこの進路は子ども本人の希望だったと思っていても、子どもは自分で選択したとは思っていないということが起きてきます。

自分に自信のない人は、選択することができない

なぜ、子どもは、「あなたはどうしたいの。」と聞かれても、「わたしはこうしたい。」と自分の本音をなかなか言えないのでしょうか。それは、自分のその思いに「自信」がないからです。自分に対して本当の自信(今のわたしはこれでいいんだ、こういうことを思っていていいんだ)という思いが持てない人は、そもそも何かを選択することも、こうすると決めることもできないのです。そう考えると、「選択する自由」の根底には、先ほどお話した「本当の自信(今のわたしはこれでいいんだ、人がどう見ようが、どう思おうが関係ない)」がなければならないことがわかります。

このように見てくると、「安心、自信、自由」というものは、一見、別々のもののように思えますが、実は密接に結びついていることがわかります。「安心(わたしはここにいていい)」がなければ、「自信」など持てるはずがありません。「本当の自信」がなければ、人は周りの目や、人と比べた自分の位置が気になって仕方ありません。「これでいいのだろうか。」という不安に、常につきまとわれるのです。そして、「選択の自由」を持ち、それを発揮するためには、外側の条件(経済的条件とか、自分より強い立場の人の寛容さなど)だけでなく、内側の条件、つまり「自分への自信(今のわたしはこれでいい、こういうことを思っていていいんだ)」というものがなければならないのです。

そう考えてみると、この三つのことは、実はつながりあった一つのものであることがわかります。そして、この三つの中で基盤となっているものは、「自分への自信」であり、この三つが保障されているかどうかは、その人が「選択の自由」を自覚し、それを発揮して生きているかどうかによって判断できそうです。

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