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なぜ、「正しいこと」が通らないのか 〜「毒親」や自分の「繊細さ」に苦しむ人に〜

なぜ、「正しいこと」が通らない(実現しない)のでしょうか。なぜ「間違った」考え方ややり方が、いつまでもまかり通っているのでしょうか。ほとんどの人が、そんな思いを持ったことがあるのではないかと思います。

あなたが「間違っている」から、わたしはつらいのだ

たとえば、自分の親を「毒親(toxic parent(s))」だと考える人は、自分がつらい思いをして不幸なのは、親が「間違っている」からだと考えます。自分が「繊細さん(HSP(Highly Sensitive Person))」だと考える人は、まわりの人たちがそのような特性を理解して接しないから、自分はつらい思いをして不幸なのだと考えます。ただこのような考え方は、一見、今感じているつらさや不幸の原因を明らかにしてくれるので、人をつらさから救い、幸せにしてくれるように思えます。しかし、実際には「毒親」や「繊細さん」という考え方が、人を幸せにすることはあまりありません。問題の「毒親」や「まわりの人たち」は、そんな話を聞いても、まず変わろうとはしないからです

「正しい」考え方には人を動かす力はない

わたしは、「毒親」や「繊細さん」という考え方自体が「間違っている」、「正しくない」などと言いたいわけではありません。むしろ逆です。そのような考え方は、「正しい」からこそ、親やまわりの人を動かす力ないのだと言いたいのです。

以前noteに「『正しさ』には人を動かす力がない」と書きました。その時は、「正しさ」は相手(この場合は、親やまわりの人たち)の「自己愛」を傷つけるから、相手を動かせないのだと説明しましたが、今回は、それとは別の観点からこのことを考えてみたいのです。

「正しさ」は、現実の「否定」から成り立っている

さて、なぜ「『正しさ』には人を動かす力がない」のでしょうか。それは、そもそもわれわれの信じる「正しさ」というものが、どれも現実(今、目の前で起きていること)の「否定」をもとに成り立っているものだからです。

たとえば、「平和」について考えてみましょう。「平和」を「よくないこと」だとか、「間違っていること」だと考える人はふつうはいないでしょう。それでは「平和」とは、具体的にどういう状態をいうのでしょうかと聞かれたら、あなたはどう答えますか。もっとも一般的な答えは、たぶん「戦争のない状態」というものでしょう。しかし、この答えは、「戦争(つまり、平和とは反対の状態)」によって「平和」を説明するという大きな欠点を持っています。つまり、「平和」というものを、こういう状態だと正面から説明していないのです。ちょうど大きな壁の裏側に立って、「この壁の表側は、今見えている壁の裏側だ」と説明しているようなものです。裏側(戦争)がどういうものであるかは見えているからよくわかりますが、その裏側(表側(平和))がどういうものであるかは、この説明からはよくわかりません。

「平等」は差別のない状態?

同じようなことは、「自由」とか「平等」とか「人権」というものについても言えます。どれをとってもふつうだれもが「正しいこと」「大事なこと」と考えているものです。では、「自由」が、「大事なこと」「正しいこと」だと人が思うのはどんな時でしょう。「自由が今のわたしにはない」と痛切に感じる時です。そのため、「自由」「平等」「人権(尊重)」がどういうことかは、ふつう「自由」「平等」「人権(尊重)」が「ない」状態から説明されます。つまり、「不自由(強制、束縛)」や「差別」や「虐待」などが「ない」状態として説明されるのです。

つまり、「平和」、「自由」、「平等」、「人権(尊重)」などのだれが考えても「正しい」ものは、実は「よくない」「間違った状態(つまり「負の状態」)」の逆の状態として間接的に説明されるばかりで、具体的にどういう状態が「平和」、「自由」、「平等」、「人権(尊重)」なのか(つまり、「正しい状態」、「正の状態」なのか)ということは、実はきわめてあいまいなのです

「まともなよい親」とはどんな親なのか

こういうことを言うと、自分の親を「毒親」と思っている人は、「そんなことはない、『まともなよい親』が具体的にどんな親なのかというイメージは、わたしの中には、はっきりある。」とおっしゃるかもしれません。しかし、それは自分が過去に受けた(今も受けている)ひどい親の「仕打ち(たとえば、子どもの話を聞かず、一方的に自分の考えを押しつけてくる等)」を単に裏返しにしたイメージではないでしょうか。それは、「(戦争が起きたら)戦争をやめれば(やめさせれば)平和になる」という考え方と同じではないでしょうか。「まともな親」のイメージとして、「愛(情)」や「思いやり」などを持ち出しても、この事情は変わりません。

差別をなくせば、人権が尊重された世の中になる?

以前、「『加害者』と『被害者』の間に具体的にどういう関係をつくることが、人権侵害等の『解決』になるのかを、ほとんど考えてこなかった」ことが、人権問題の「解決」を遅らせているということを書きました。(くわしくは、「なぜ、学校の『いじめ』が解決しなかったのか」などをご覧ください。)一般に、「差別をなくせば、人権が尊重された世の中になる」というような考えが生まれるのは、「正しさ(人権(尊重))」が、現実(人権侵害)の「否定」として生まれてきた(考えられてきた)ことと、分かちがたく結びついています。

「正しさ(正義)」そのものとしての神

「正しさ」は、現実の生活の「つらさ」や「苦しみ」の中から、「つらさ」や「苦しみ」が「ない」状態として、切実に求められて生まれてきます。そのような「正しさ」の究極の姿が、キリスト教などの「唯一の絶対的な神」です。そのような神は、「正しさ(正義)」そのものです。しかし、実際の世界には「不正」が溢れ、それが日々の人々の「つらさ」や「苦しみ」を生んでいます。だからこそ、神が求められてくるわけですが、そのような「不正」が現にある以上、その根拠、原因として、神に対立する悪としての「悪魔」や悪を生み出す人間の「罪」が考えられざるをえません。もちろん、ちょっと考えればわかることですが、これは、「唯一絶対」である神という考え方と明らかに矛盾します。矛盾するのですが、この矛盾を飲み込まない限り、「正しさ(正義)」そのものとしての神への信仰は成り立ちません。

このような矛盾が生まれるそもそもの理由は、「正しさ」というものが、現実の生活の中の「つらさ」や「苦しみ」を打ち破るものとして切実に求められ、生まれてきたものだからです。(くわしくは、「なぜ、神と悪魔が存在するのか 〜善悪の対立から自らを解き放つために〜」などをご覧いただければ幸いです。)

なぜ「正しさ」には現実を変える力がないのか

なぜ「『正しさ』には人を動かす力がない」のでしょうか。この問いは、なぜ「『正しさ』には現実を変える力がない」のでしょうか、と言い換えることができます。それは、われわれの信じる「正しさ」というものが、どれも現実の「否定」をもとに成り立っているものだからです。「毒親」と思える自分の親に、「あなたはおかしい」と言っても、親は変わりません。それは、心理学者や教育学者などの論をもとに、今(まで)の親のあり方を、間違っている、正しくないと「否定」しているだけだからです。

変わらない「毒親」との関係を変えるためには

では、親を動かし、親を変えるためにはどうしたらいいのでしょうか。それは親のあり方を「否定」するだけなく、親と自分の関係を変えることがぜひとも必要です。親と自分の関係を変えることのできる人はだれでしょうか。それは親と自分だけです。第三者が、外からの「正しさ(権威など)」で親を説得して、親と子の関係を変えることはまずできません。親戚や児童相談所、児童福祉センターの職員が親を説得しようとしても、親は言い逃れをしたり、怒ったり、ごまかしたりするだけで、まず変わりません。だから、子どもがまだ小さい場合、第三者ができることは、「力(制度、法律)」による強制(親と子を引き離す保護など)だけです。そして、「力」による強制は親も子も深く傷つけます。

親が本当に根っからの「毒親」で、自分の方からはまったく変わる気がないのであれば、自分(子)が変わるしか親との関係を変える手段はありません。具体的な方法は、いろいろ考えられます。こんなことは自立する力を持つ年齢にならなければ不可能ですが、たとえば子が、親とは別の場所に暮らして自活し、スマホの電話番号やメールアドレスも変え、親と接触する機会をできるだけ減らすことなどもひとつの方法です。(ただ、実際には、自分の親を「毒親」と考える人の場合、たとえまわりからは自立する力を持っているように見えても、健康面の理由や金銭的な理由をあげて、物理的にも心理的にも親から離れたがらない人が意外と多いものです。)

「繊細さん」はどうすればいいか

同じようなことは、自分を「繊細さん」だと思う人についても言えます。まわりの人と自分の関係を変えない限り、自分の「つらさ」「苦しさ」は減りません。ですから、たとえば、「こんなことを言ったら人はどう思うだろうか」とためらっていた自分の今までのあり方を変えて、勇気を出して率直に相手に自分のつらさや苦しさを話し、相手の中の「責任(「これはなんとかしなくちゃ」という思い)」を引き起こすことから、まわりの人と自分の関係は変わっていくはずです。(こんなことを書くと、そんなことができる人は、「繊細」ではないという意見も出てきそうですが。)

ただ、自分の特性を相手に伝える時には、決して相手に「自分は今、この人に非難されている」というような思いを起こさせないことが必要です。(相手に「責任」を感じさせることの重要性や方法については、「『本来の責任』が人権トラブルを解決する(その2)」などをご覧ください。)

なぜ「間違った」考え方が、いつまでもまかり通るのか

最後に、最初にあげたふたつめの疑問を取り上げてみます。なぜ「間違った」考え方ややり方が、いつまでもまかり通っているのでしょうか。

実際には今の「間違った」考え方ややり方が、わたしの属する集団や組織を支配していて、その集団や組織を構成する多くの人が、「間違った」考え方ややり方に、今のところ「つらさ」や「苦しみ」をあまり感じていないからです。結果として、「まあこれでいいか」とか、「まあ仕方ないか」と考えているからです。つまり、「間違っている」などとは思ってもいないのです。

そんな人たちに向かって、今の考え方ややり方に「つらさ」や「苦しみ」を感じるわたしが、自分の信じる「正しさ」にもとづいて、「あなたたちは間違っている」と言って、今の考え方ややり方を「否定」しても、もちろん相手にしてもらえるはずはないのです。

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