「痛み」に関する悲しい話 〜相手の「つらさ」にどう向き合うか〜
前回、「『物質の変化』をどこまでたどっていっても、『感情の変化』につながることはない」ということを書きました。そして、書きながら、ふとこんな「悲しい話」を思い浮かべました。
病院での「痛み」に関する悲しい話
体のある部分に不調(たとえば、お腹に痛み)を感じて、すぐに直ると思っていたのですが、いつまでたっても直らないので、やむなく仕事を休んで病院に行きました。一日がかりでさまざまな検査をし、一週間後、また仕事を休んで、どんな診断が出るだろうか不安を感じながら、医師と面談します。ところが、医師からは「いろいろ検査してみましたけれど、どこにも異常はありません。問題ないと思いますよ」と言われます。「えっ、だってずっと痛いんですよ。どこかおかしいんじゃないですか」と聞くと、「そう言われても、血液検査の数値や内視鏡検査や超音波検査の画像にもいっさい問題はないので……」と言われ、それでも納得できずにさらに不調を訴えると、「そうですか、じゃあ、もう少し様子を見ましょうか(めんどうくさいな。だから、気のせいだよ)」という対応をされて、悲しい思いをすることがあります。
幸い、わたしはまだそういう経験はないのですが、似たような話は時折、耳にします。特によく聞くのは、「耳鳴り」や「肩こり」や「めまい」のケースです。この後の文章は、体の不調を「痛み」で代表させて考えていきますが、「痛み」を、「耳鳴り」や「肩こり」や「めまい」に置き換えて読んでいただいてもかまいません。
医師と患者の気持ちのすれ違い
このような場合、もちろん診察した医師には、悪意はまったくないのです。わたしも、ただ人の話としてこういう経験を聞けば、「まあ、お医者さんがそう言うんだから、大丈夫なんだろうな」と思います。しかし、痛みがおさまらないことに不安を感じ、一大決心をして病院に行った人とすれば、このような医師の(まことにもっともな)言葉は、ひどく冷たい言葉に聞こえるのです。なぜ、医師と患者の間でこのような気持ちのすれ違いが起きてしまうのでしょうか。
症状から検査へ、原因(病名)の特定から治療へ
わたしは医学には疎(うと)いのですが、症状と治療の関係というものは、たぶん一般的にはこんなふうではないかと思っています。まず人の体に痛みなどの症状が起きて、その原因を探る中で、血液検査の数値に異常が発見されたり、体のある部分(局部)の検査画像などに異常が発見されたりします。同様な事例がほかの人についてもいくつも確認されて、その症状に病名がつけられるとともに、治療法が模索されて、やがて効果のある薬や治療法が確立されていくのではないかと思うのです。そして、このような試行錯誤の限りない積み重ねから、たぶん現在の臨床医学は成り立っていると思うのです。図式的に言えば、病気における症状と治療は、ふつう「症状」→「検査での異常」→「原因(病名)の特定」→「治療」という順序で進んでいきます。
検査での異常がないのだから、痛いはずがない?
ところが、このような行為が医療の中でルーティーン(決まり切った手続き)になっていくと、「検査での異常」がなければ、「症状(痛みなど)がある(起きる)はずはない」という考えが、いつのまにかでき上がってしまいます。われわれ素人は、「こんな痛み(「結果」)があるのだから、どこかに異常(「原因」)があるはずだ」と考えるわけですが、専門家である医師は「検査での異常(「結果」)がないのだから、痛みの「原因」はない。つまり、この人の体は正常で問題はない」と考えるのです。自然科学にもとづく、同じような「原因と結果」の理屈に立ちながら、最初に述べたようなケースでは、患者と医師の考えは完全にすれ違ってしまうのです。このすれ違いが「悲しい話」を生みます。
「幻肢」や「幻肢痛」と呼ばれる現象があきらかにしたこと
ただ、われわれ素人や専門家の医師がそれぞれ持っている、痛みというものへのこのような「原因と結果」のとらえ方は、実はどちらもきわめて不充分なものです。そのことは、「幻肢」や「幻肢痛」と呼ばれる現象を考えると、きわめて明瞭にわかります。「幻肢」や「幻肢痛」とは、戦争などで腕や脚を失った人が、それでも負傷や事故の後、「ない」はずのその腕や脚が「ある」ように感じられたり、なくなった腕や脚にありありと痛みを感じたりすることです。このようなことは、南北戦争や第一次世界大戦でよく知られるようになったそうです。そして、哲学者や脳科学者や心理学者にとっては、当然、なぜそのような不可解なことが起きるのかが、大きな問題となりました。その結果、20世紀以降、「幻肢」や「幻肢痛」をなんとか「原因と結果」の論理で説明しようとする身体や感覚に関するさまざまなアイデア(仮説)が生まれました。
傷や炎症などがなければ、痛いはずがない?
しかし、わたしがここで問題にしたいのは、「なぜそのようなことが起きるのか」というではなく、われわれが感じる「痛み」とは、そもそもどういうもの(どういうこと)なのかということです。「痛み」は、ふつう外部からの刺激(打撲等)による傷や、体の内部の炎症などから起きると考えられています。逆に言えば、外部からの刺激がない場合は、体の内部に炎症などという「原因」が必ずあるはずだということになります。つまり、内部に炎症などの「原因」ない場合は、そもそも「痛み」という「結果」は起きることはない(気のせい、勘違いだ)と考えられているということです。その結果、血液検査や画像検査によって、炎症などの症状が一切認められない場合は、医学的にはそこには「痛み」は生じない(気のせい、勘違いだ)ということになるのです。
それでも、「痛み」はある
一方、検査によって確認される異常(症状)がなくても、現に、自分の体に「痛み」が感じられることは確かにあります。この「痛み」は、たとえその原因がわからなくても、われわれがリアルに経験している「現実の痛み」です。自分が今、ありありと経験している「痛み」を、「(検査で異常がないのだから)そんな痛みは生じないはずだ。すなわち、それは本当の痛みではない」と言われることから、われわれの中に、最初に述べたような、言葉では説明できない「悲しみ」「苦しみ」「つらさ」が生まれてきます。
本当に「いじめ」なのかに、こだわる人たち
学校での「いじめ」や職場などでの「パワーハラスメント」が問題となった時、「あれは本当に『いじめ』なのか」とか、「あれは本当に『パワハラ』なのか」ということを、真剣に問題にする人が必ず出てきます。そして、それは多くの場合、「いじめ」や「パワハラ」が起きると、起きたことへの責任を問われる人たちです。
悪意がないのだから、「いじめ」ではない?
たとえば、ある保護者が、自分の子(Aさん)がクラスの中や部活の中で「いじめ」にあっていると訴えてきた場合、クラスの担任や部活の顧問は、ふつうまず「それは本当に『いじめ』なのだろうか」と考えます。そして、いろいろ考えた末に、保護者に向かって、「あれは、まわりの生徒がAさんをちょっとからかっているだけなんですよ」とか、「あれは、Aさんに部活でもっと伸びてほしいから、ちょっと先輩たちがきびしいことを言ってしまっただけなんですよ」と説明したりすることがあります。
そういうことを保護者に言う教員の気持ちを、あえて言葉にすれば、「Aさんにそういうことをした子どもたちには悪意はありません。だから、これは『いじめ』ではありません。ですから、Aさんも保護者のあなたも、悲しんだり、苦しんだり、つらさを感じたりする必要はありません」ということになるでしょう。もちろん、こんな説明は、保護者を納得させることはできません。保護者にとって、自分の子のAさんは、現に、今、その子たちの振る舞いで、悲しみ、苦しみ、つらさを感じているからです。保護者にとっては、教員が言っていることは、まるで「自分の子(Aさん)が、悲しみ、苦しみ、つらさを感じるのは間違っている(勘違いだ)」と言っているようにさえ、聞こえるはずです。
「原因(いじめ)」がなければ、「結果(つらさ)」が起きるはずがない?
わたしは、こういう例をあげて、さまざまな子を抱えて四苦八苦している担任の先生や部活の顧問を非難したいわけではありません。そのような説明をしたくなる先生方の気持ちはよくわかります。わたしもこれまで、自分の悲しみ、苦しみ、つらさを訴えてくる人に対して、同じような説明をしたことが何度もあるからです。
しかし、そのような説明は、現に「悲しみ」や「苦しみ」や「つらさ」を感じている人に対しては、たぶんなんの力もありません。ちょうど、現に自分の体に「痛み」を感じている人に対して、医師が「検査の結果、あなたにはなんの異状もないので、たぶん大丈夫です。(=その『痛み』は気のせいだから、放っておきなさい)」と言うようなものです。医師が患者を安心させるつもりで言っている言葉が、逆に患者を激昂させるのは、たぶんそんな時です。
相手の「つらさ」にどう向き合うか
では、われわれは、「痛み」を感じている人、「悲しみ、苦しみ、つらさ」を抱えている人に、どう向き合えばよいのでしょうか。結論を先に言えば、その人が「痛み」を感じているという事実を、まず全面的に受け入れるのがよいとわたしは考えます。「本当に痛そうですね。つらいですね。どんなふうに痛いんですか。なにか心当たりはありますか」というふうにです。「悲しみ、苦しみ、つらさ」についても、同じです。
誤解のないように申し上げておきますが、その人が「痛み」を感じているという事実を、まず全面的に受け入れるということは、「思いやり」や「やさしさ」や「愛情」をもって、その人に接しようということでは、ありません。
「そう感じるのは間違い」なのか?
とかくわれわれは、「痛み」や「つらさ」などの「原因」を探し出し、その「原因」をなくすことによって、「結果」である「痛み」や「つらさ」が解消できると考えます。しかし、それらしい「原因」が見つからない、または、本人が訴える「原因」は「原因」とは思えない(たとえば、本人は「いじめ」だと言っているが、わたしには「いじめ」だとは思えない)時、とかく、本人が感じている「痛み」や「つらさ」を、「感じる必要のないもの」「感じるべきではないもの」「感じるのは間違いなもの」と考えてしまいがちです。
「痛み」は「精神と物質(心と体)」にまたがる現象
そのような考え方の背景には、前回も述べたような物質世界の変化についての見方、つまり必ず「原因と結果」が一本の線で緊密に結びついているという考え方があります。しかし、言うまでもなく「悲しみ、苦しみ、つらさ」は物質世界の変化ではありません。「痛み」もまた、わたしが「感じる」ことがなければ存在しないものです。そうである以上、「痛み」とはデカルトが二分割した「精神と物質(心と体)」の両方にまたがる現象だと考えなければ理解できないのです。
問題にしたいのは、人権に関わる「痛み」や「つらさ」
「痛み」が「心と体」の両方にまたがるものであると考えれば、検査結果(物質的データ)になんの異常もないのだから、「痛み」はないはずだ(気のせいだ)というする考え方は、どう考えても論としておかしいはずです。もちろん、わたしは現在のお医者さんにけちをつけたくてこんな文章を書いているわけではありません。現在のお医者さんが、体を壊すくらい日々、超多忙であることはよくわかっています。また、病院では、同情がほしくて「痛み」を訴える患者が少なくないことも知っています。
病院での「痛み」に関する悲しい話を取り上げたのは、それによって人権に関わる問題を明瞭にしたかったからです。「人権侵害」から自分の「痛み」や「つらさ」が生まれていると言う人に対して、「それが本当に人権侵害からくるものなのか。本人がただそう言っているだけ(そう思い込んでいるだけ)なのか」ということを、妙に真剣に問題にする人がいます。それは実は「つらさ」を感じている人を前にした時に、自分の中に必ず生まれてくる「責任」から逃れるためなのだです。(「責任」については、「『本来の責任』が人権トラブルを解決する 〜『正義』から『責任』へ(その9)」などをご覧ください)
そう思って見ていただくと、人権問題においては、「いじめ」やパワーハラスメントに限らず、夫婦別姓問題でも、部落差別問題でも、ジェンダー問題でも、性的少数者への人権侵害でも、障害者への差別でも、いたるところで、「つらさ」を感じるのが当事者の「間違い」であるかのような理屈が、あたかも「正しい理屈」であるかのような顔をして、平然と振る舞っていることに気づくのです。それは、「つらさ」を抱えている時に、必然的に生じてくる自分の「責任」から逃れるためだけの理屈なのです。
泣いて駆け寄ってくるわが子がいたら、まず抱きしめる
わたしが今回書いたことは、人が何百年、何千年も前から経験としては、よく知っていることです。泣いて駆け寄ってくるわが子がいたら、何よりもまず黙ってしっかり抱きしめることが必要なのです。「どうしたの」「なにがあったの」と聞くのは、子を抱きしめた後、場合によっては子が泣きやんだ後でいいのです。
今回、このような文章を書いたのは、なぜそうなのかというを、経験からではなく、「原因と結果」というわれわれを支配している考え方への反省(批判)として論じてみたかったからです。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?