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「本来の責任」が人権トラブルを解決する 〜「正義」から「責任」へ(その9)

前回、われわれの中に深く根づいている「権利ー義務」という「正義(正しさ)」の観点を、新たな「責任」の観点へと切り替えることが、人権問題の解決につながると書きました。ただ、この「責任」がどういうものであるかが、わかりにくかったと思います。わたしが前回述べた「責任」は、世間一般で言われている責任とは、だいぶ違ったものだからです

目の前の苦しむ人を放っておけない「本来の責任」

わたしがこのnoteでずっと「責任」と呼んできたものは、わかりやすく言ってしまえば、目の前で苦しんでいる、またはひどい目にあおうとしている人を見た時の、「放っておけない、なにか自分のできることをしないではいられない思い」のことです。便宜的に、ここではこの意味での「責任」を「本来の責任」と呼んでおきたいと思います。「本来の責任」の一番の特徴は、義務や利害とはなんの関係もないということです。そのような「責任」が発動する典型的な例は、中国の戦国時代の思想家、孟子が述べた「目の前で小さな子が井戸に落ちようとしているのを見たら、だれでもとっさに手を伸ばして助けようとする」というケースです。(くわしくは、「人の心は善か悪か ~性善説と性悪説の議論に終止符を打つ~」をご覧ください。)

人に迷惑を及ぼした時、それをつぐなう「義務としての責任」

しかし、世間一般で言われている責任は、これとはだいぶ違っています。現在、責任とは「自分のした(している)ことが、人(自分自身を含む)に迷惑を及ぼした時、それをつぐなう義務」として使われることが、ほとんどではないでしょうか。よく使われる言い方、「責任をとる」とか、「責任ある立場」とか、「無責任」とか、「自己責任」とか、すべてこの意味で理解することができます。また、「権利には責任がともなう」という抽象的な言い方もこの意味で理解できます。「自分の持っている権利を行使して人に迷惑をかけた場合、それをつぐなう義務が生じる」ということだからです。このような意味での責任を、便宜的に「義務としての責任」と呼んでおきます。「義務としての責任」は、それを果たさない場合は、人から嫌われたり、社会的な非難を受けたり、法律で罰せられたりすることになります。つまり、「義務としての責任」は文字どおり義務であり、密接にその人の利害と関わっています

「義務としての責任」から「本来の責任」への転換を

わたしが、「正義」から「責任」へと言う場合の「責任」は、もちろん前者の「本来の責任」の意味であって、後者の「義務としての責任」の意味ではありません。「『正義』から『責任』へ」は、「『義務としての責任』から『本来の責任』へ」と言い換えても、目指す方向は同じになります。そもそも「正義(正しさ)」は、「義務としての責任」と密接に結びついているからです。

「義務としての責任」からは、人権問題の解決は生まれない

このように「本来の責任」と「義務としての責任」は、義務や利害が関わるかどうかという観点から見ると、きわめて対照的なものです。しかし一方で、これから見ていくように「義務としての責任」は、もともと「本来の責任」から生まれてきた(変質した)ものですから、どこかでつながっています。ただ、重要なことは、「義務としての責任」という観点からは、人権問題の解決は決して生まれないということです。

「思いやり」や「やさしさ」は、「義務としての責任」とむすびついている

「本来の責任」は、目の前で苦しんでいる、またはひどい目にあおうとしている人を見た時に、「放っておけない、なにか自分のできることをしないではいられない思い」のことだと先ほど書きました。それならば、「本来の責任」は、「思いやり」とか、「やさしさ」とか、「愛」と呼んだ方がよいのではないかと、お考えになる方もいらっしゃるかもしれません。しかし、そうではありません。歴史的に考えると、まず人の中に「本来の責任」があって、「思いやり」とか「やさしさ」とか「愛」などという言葉(考え)は、「本来の責任」が「義務としての責任」に変わっていく中で、生まれてきたものだからです。

そのため、「思いやり」とか「やさしさ」とか「愛」とかは、現在、道徳などを介して「義務としての責任」と強くむすびついています。たとえば、「親だったら、子どもを愛しなさい(義務としての愛)」などのようにです。その結果として、人権トラブルの解決にあたったことのある方はよくご存知ですが、加害者に「思いやり」とか「やさしさ」とか「愛」を強調しても、それは加害者への非難となってしまい、人権トラブルを解決することはできないのです。

「本来の責任」が人に生まれたのは

人類の歴史をふり返ってみると、「本来の責任」が人の中に発生したのは、たぶんわれわれ人類の先祖が木から降りて森林を離れ、草原で生活するようになった時です。肉食獣がいる草原に降り立ったヒトは、個体としてはあまりに弱く、ひとりでは生き延びられないため、小集団で生活するしかありませんでした。そして小集団で生きるためには、自分より弱いものを助けなくては小集団の維持はできないのです。(くわしくは「なぜ、だれもわたしを助けてくれないのか」の終わりの段をご覧ください。)

「義務としての責任」はどのようにして生まれたか

それでは、「本来の責任」からどうやって「義務としての責任」が生まれてきたのでしょうか。(これから述べるのは、「義務としての責任」をよりよく理解するためのあくまで「仮説」です。)

ヒトが安定的に小集団を維持していくためには、目の前の自分より弱いものを助けずにはいられないという「本来の責任」を、できるだけ多くの構成員が、それぞれの内側に持つ(内在化する)ことが必要になります。(逆の言い方をすると、そのことに失敗した小集団はほろびるしかありませんでした。)この過程では、一方では「本来の責任」の各構成員への内在化が進み、他方では禁忌(タブー)の発生とその内在化が並行して進んだと想像されます。このふたつのどちらが原因なのかはわかりません。原因はさらにほかにあるのかもしれません。その原因ではないかと想像できるのは、「死」の意識と「死へのおそれ」です。「死へのおそれ」が、たとえば「死のうとしている(または、死んでしまった)仲間を放っておいてはならない」というような形で、禁忌(タブー)と「本来の責任」をひとつに結びつけながら、その内在化を進めたのかもしれません。

「罪」と「罰」と「悪」の誕生

やがて、集団がさらに大きくなるにともなって、禁忌は部族の宗教に、「本来の責任」は「おきて」に変わっていきます部族の宗教が課す禁制を犯すこと、また「おきて」を守らないことは、その集団の中では「罪」とされ、「罪」を犯したものには「罰」が与えられるようになります。そして、「罪」を犯すもの(犯させるもの)が、その部族にとっての「悪」ということになります。

「正義の神」より古い「怒り、罰する神」

この時点では、「善」はまだ前面に出てきません。また、部族の宗教の神はあくまで「怒り、罰する神」であって、「正義の神」にはなっていません。(わたしの理解では、『旧約聖書』の神は、後にヘブライ民族の神になりますが、本来はある部族の神であり、その時点では「正義の神」ではなく、あくまで「怒り、罰する神」でした。そのため、『旧約聖書』には基本的に「悪魔」や「地獄」は出てきません。『新約聖書』で「地獄」の意味で使われる「ゲヘナ」も、本来はエルサレムの南にあった「ヒンノム」という呪わしい谷のことです。)

「本来の責任」は「義務としての責任」へと変質していった

「本来の責任」は、もともと利害抜きの「そうしないではいられない」という本人の中からこみ上げる思いでした。それに対して、今述べたように「本来の責任」が禁忌(タブー)と結びつき、さらに部族の宗教や「おきて」になっていく時点で、「そうしなければならない(そうしないとよくないことがある。罰せられる。)」という「害」と結びつき、外的、内的「強制」に変わっていきました。つまり、この段階で、「本来の責任」は「義務としての責任」へと変質していったことになります。同様に、もともと「本来の責任」に起源を持つ「思いやり」とか「やさしさ」とか「愛」と呼ばれるものも、この段階で「義務としてのもの(いわば「道徳の原型」)」に変わっていったのです。

「法(法律)」と「正義の神」が生まれる

さらに人の集団が大きくなり、小国家と呼べる程度になった時に、部族の宗教は、小国家を構成する民族の宗教となり、「おきて」は「法(法律)」となります。われわれが考える「正しさ(正義)」は、この「法(法律)」にもとづいて生まれた「虚構(フィクション)」です。「正義の神」が生まれるのもこの段階です。「正義の神」が生まれるのと同時に、「悪の神(悪魔)」が生まれます。この二つの神は、いわば同じコインの表と裏だからです。(くわしくは、「なぜ、神と悪魔が存在するのか」をご覧ください。)この段階で、人の心を支配しているのはもはや「本来の責任」ではなく「義務としての責任」であり、これ以降、責任と言えば「義務としての責任」のことになります

「過去の歴史」は、われわれの心の中にすべて残っている

先ほど、これから述べるのはあくまで「仮説」ですと書きました。「部族」とか「小国家」というような言い方も、正確なものではありません。ただ以上述べたようなことが、本当に人類の歴史の中でこのとおり起きたことなのかどうかは、人権問題の解決を考える上では、実はあまり問題ではありません。わたしが本当に言いたいことは、このような「仮説として」述べた「過去の歴史」がわれわれひとりひとりの心の中に、いわば「地層」のように積み重なって「すべて」残っているということです。

「本来の責任」は古い地層として残っている

歴史は進歩であり、進歩とは前の(昔の)ものを捨て去って、よりすぐれた新しいものに置き換えることだという考え方があります。この考え方は、少なくとも人の心については間違いです。今のわれわれにとっては、確かに責任と言われてすぐに思い浮かぶのは「義務としての責任」です。そう思えるのは、それが目に見える一番新しい心の地層(表層)だからです。しかし、そんなわれわれの心の中にも、「本来の責任」は言わば一番古い地層としてしっかり残っています。その証拠が、孟子が述べていた、「目の前で小さな子が井戸に落ちようとしているのを見たら、だれでもとっさに手を伸ばして助けようとする」というケースです。孟子が言うとおり、このような行為には「義務(としての責任)」は関係ありませんし、「利ー害」も関係していません。

人が、事故などの時に、とっさに目の前の見知らぬ人を助けようとして、自ら命を失ってしまうことがあります。われわれが強く心を打たれるのは、そこに「義務」や「利ー害」とはまったく関係のない、しかし、今でも誰もが心の深いところ(古層)に持っている、人の「本来の責任」の生きた姿を見るからです。

人権問題の解決は、新旧ふたつの地層で行う必要がある

人権問題の解決は、これまでずっと人の心のもっとも新しい地層(表層)の中で行われようとしてきました。それは近代以降に生きる人間としてはあたり前のことです。その成果として、社会的な人権尊重(法律の制定や改定等による制度の改善等)は、確かに進みました。しかし、社会的な人権尊重が進んでも、実際の人権問題は解決していません。個人的、具体的な人権トラブルの解決は進まず、進むどころか、実際にはかえって加害者と被害者の心の溝は深まるばかりなのです。個人的、具体的な人権トラブルにおいては、いくら「義務としての責任(人権の尊重、多様性の尊重)」を強調しても、加害者の反省を生むことはなく、むしろ加害者の被害者意識を高めるだけだからです。(くわしくは、「個人の『正しさ』と社会の『正しさ』」をご覧ください。)

「義務としての責任」から「本来の責任」へ

もし、われわれが本当に個人的、具体的な人権問題の解決を目指すのであれば、おそらくそれは「本来の責任」を加害者に自覚させる以外に方法はありません。つまり、人権問題の解決の観点を、「正義」(「義務としての責任」)から、「本来の責任」へと切り替えることが必要なのです。


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