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なぜ、だれもわたしを助けてくれないのか 〜「正義」から「責任」へ(その5)〜

前回の最後に書いたように「困っていれば、だれかが必ず助けてくれる」のが、人の世界です。それは、人の世界がもともと「責任」の世界だからです。そのことが信じられなくなった時、人は孤独になり、絶望します。

現代というこのひどい世界で、孤独になり、絶望しないために、われわれは人の世界が、本来は「責任」の世界だということを改めて知る必要があります。ただ、こんなことを書けば、「そんなのはウソだ。現に、わたしのことをだれも助けてくれない」と思われる方もいらっしゃるでしょう。

「責任」は、感じない人にはないのと同じ


そもそも、「責任」というものは、本人が「責任」を感じない限り、ないのと変わりません。自分に「責任」が生じていても、実際に「責任」が発動する(動き出す)には、実はさらにもう二つほど必須の条件があるのです。

「責任」が発動するための条件(その1) 〜つながり〜

その条件のひとつは、「つながり」の自覚です。「強い立場」の人が、自分と「弱い立場」の人との間に「つながり」を感じない、またはあるはずの「つながり」を無視している場合は、「強い立場」の人に「責任」の思いは生じません。このような「強い立場」の人の典型が、現在の新自由主義者や強欲な超富裕層たちです。彼らは自分たちがしていることで、中流階級(ミドル・クラス)以下の「弱い立場」の人たちがどれほど苦しもうと、なんの「責任」も感じません。自分たちのように振る舞わない「愚かな」人たちが「悪い」だけだからです。彼らにとって「弱い立場」の「愚かな」人たちは、言わば自分と「同じ人間」ではないのです。自分と「同じ」ではないもの、自分との「つながり」を感じないものに対して、人は「責任」を感じることはありません。

農奴たちや下僕たちは、いつも目の前にいた

こんなふうに書くと、前回書いた中世ヨーロッパの領主も、自分の領地の農奴などに対して、やはり自分と同じ人間だとは思っていなかったのではないかというご意見をいただきそうです。確かに身分制の社会では、領主は身分の違う農奴を自分と「同じ人間」とは思っていなかったでしょう。しかし、もしもなんらかの理由(災害や疫病や外敵の侵入等)で、多くの農奴が土地を放棄して逃げ出してしまえば、領主の生活はたちまち立ち行かなくなるのです。そのことを領主は決して無視できなかったでしょう。しかも、自分の目の前には、常に農奴たちや下僕たちが暮らす姿があったのです。

ゲーテッドコミュニティに暮らす現代の富裕層

ところが、現代の富裕層にはそんなことはありません。アメリカに限らず、彼らは、「ゲーテッドコミュニティ(門をつけた共同体)」と呼ばれる、住民以外の人間が敷地への出入りすることを制限できるような地域に、大金を払って暮らし、自分たちに「責任」を感じさせる人々の姿そのものを、ほとんど見ないで済ます生活を自分の「権利」としてつくり上げています。さらには、現在進められているデジタル化(DXなど)は、それが進めば進むほど、富裕層と「弱い立場」の人々との現実的な「つながり」を、ひたすらゼロに近づけていきます

「責任」が発動するための条件(その2) 〜信じること〜

「責任」が発動する(動き出す)ためのもうひとつの条件は、「信じること」です。ひとつめの「つながり」の自覚が、どちらかと言えば、「強い立場」の人が「つながり」を感じるかどうかがポイントなのに対して、「信じること」は、逆に「つらい」思いをしている「弱い立場」の人が、自分より「強い立場」の人を「信じること」ができるかどうかがポイントになります。

率直に「助けて」と伝えることができれば、だれかが助けてくれる

自分が本当に困って、つらい思いをしている時に、周りの人に率直に「助けて」と伝えることができれば、ふつう、だれかが「どうしたんですか」と聞き返してくれます。あなたのつらさを見て、「責任(声をかけずにはいられない思い)」を感じる人は、あなたの近くに必ずひとりくらいはいるものです。わたしを含めて、これまで人に助けてもらった経験がある人は、たぶん理屈抜きで、そう感じています。

なぜ「だれもわたしを助けてくれない」ということが起きるのか

しかし、そう言っても、「そんなのはウソだ。現に、わたしはいろいろな人に『助けて』と言ってきたのに、だれひとりわたしを助けてくれたことはない」と怒る方も、きっといらっしゃるでしょう。

「だれもわたしを助けてくれない」ということが起きる原因は、もちろんいろいろありますし、人によって事情もさまざまでしょう。しかし、わたしが考える、おそらく一番大きな原因は、周りの人に「率直に助けてと伝えること」自体が、実は想像以上にむずかしいということです。特におとなにとってはそうです。率直に「助けて」と言うためには、まわりの人に自分の心を開いて、弱みもさらけ出し、相手に自分の今後をゆだねる気持ちが必要です。ひと言で言えば、「相手を信じて、相手にまかせる(ゆだねる)」気持ちがない限り、あなたの「助けて」は相手にまっすぐ届かないのです。

「相手を信じて、まかせる」ことがむずかしい理由

ところが、過去に周りの人たちから嫌な思いを味わわされてきた人にとっては、「相手を信じて、まかせる(ゆだねる)」ことは、きわめてむずかしいことです。その結果として、当人としては本当につらくて助けてほしくても、実際には形だけの「助けて」になってしまったり、「(わたしは被害者なんだから)助けなさい」みたいな言い方になってしまったりするのです。

そんなふうに言われたら、言われた方は、そこに「自分の心を開いて、弱みもさらけ出し、相手に自分の今後をゆだねる」ような気持ちをあまり感じることができず、むしろその人への「疑い」を抱いてしまいます。「この人は本当に困っているのだろうか、困っているふりをして、実はわたしを利用しようというつもりじゃないだろうか」等の「疑い」が生まれてしまうのです。そうなってしまうと、「助けて」と言われた人の中に「責任(手を差し出さずにはいられない思い)」が生まれることは、きわめてむずかしくなってしまいます。結果として、「いくら助けてと言っても、だれもわたしを助けてくれない」ということが起きてくるのです。

追記:信じることが抱えるむずかしさについては、次回の「信じるということは危険な「賭け」なのか? 〜「正義」から「責任」へ(番外編)〜」もお読みいただけると幸いです。

被害者意識は「責任」を感じなくさせる

さらにつけ加えれば、「強い立場」の人に「責任」を感じられなくさせるものが、もうひとつあります。それは被害者意識です。人権問題の場合、必ず「強い立場」の人が加害者になり、「弱い立場」の人が被害者になります。ところが、本来、加害者であるはずの「強い立場」の人が「自分は被害者だ」と思ってしまうことが、人権問題では結構ひんぱんに起きるのです。そのようなことが起きるのは、たとえば加害者が、差別をしているとか、人権を侵害していると人から強く批判され、非難された場合です。

パワーハラスメントの場合

一番わかりやすい例は、パワーハラスメントです。ある人がしているパワーハラスメントががひどいものになり、職場のコンプライアンス委員会やその人の上司から、「あなたのしたことはやりすぎだ」とか「あなたのしていることは、パワーハラスメントだ」と非難され続けると、ほとんどの加害者は、「おかしいのはあの人だ。あの人さえここに来なければ、こんなことにはならなかった。悪いのはあの人だ。わたしは悪くない。わたしは被害者だ」と思い始めるのです。被害者意識を持ち始めると、もうその人の中に「力にともなう責任」が目を覚ますことはありません

人権尊重や多様性の尊重が、加害者を動かせない理由

もちろん、理屈からすればこのように加害者が自分を「被害者」だと思うこと自体、おかしなことなのですが、実際には同じようなことがさまざまな差別や人権問題において起きています。人権尊重や多様性の尊重という、一見だれが考えても「正しい」と思えるような主張が、「加害者」や周りの人たちを動かせない理由のひとつが、実はここにあります。

「強い立場」と「弱い立場」は入れ替わる

もうひとつ重要なことがあります。今まで、このnoteに載せた文章の中で、「強い立場」と「弱い立場」という言い方をくり返し使ってきました。しかし本当は、「強い立場」と「弱い立場」というものは、その時その場合のお互いの相対的な力関係で決まるものであって、決して固定したものではありません。「強い立場」と「弱い立場」は、時と場合によって入れ替わるのです

親と子の力関係は時とともに逆転する

親からの心理的虐待や学校でのいじめなどのために、中学や高校の頃からひきこもり状態になった人が、何年か何十年か経つうちに、親との力関係が変わっていくことがあります。年月とともに次第に親の方が子の言動におびえながら、日々、子に接するようになることがあるのです。このようなケースの場合、この家族は、昔と今とでは親子の力関係が逆転していると考えるべきです。この場合、子が十代の頃はもちろん親が「強い立場」だったわけですが、現在はむしろ、ひきこもり状態の子の方が相対的に親に対して「強い立場」に立っています。にも関わらず、子の方は今でも自分が「被害者」で、親が「加害者」だと思っています。そして、子がそう思っている限り、この親と子の双方が抱えている今の「つらさ」は解消できません。問題を解決する力を持っているのは、常に「強い立場」の側だからです。

子は、自分を「被害者」だと思い続ける

このような場合、子の方は、本来ならば親が自分の言動におびえるようになっている姿を見て、「責任(これではいけない)」を感じ、自分が「なんとかしなければ」という思いを持つことのできる立場にいるのです。しかし、実際には子はそんなふうには思いません。そもそも自分がひきこもり状態になったのは、親のせいであり、自分は「被害者」だとひたすら思い続けているからです。

「強い立場」と「弱い立場」は、その時その時のお互いの相対的な力の関係で決まるため、このような力の逆転現象は、多くの人権問題で起きる可能性があります。こう書けば、人権問題にくわしい方はすぐに思い当たられることが、いくつかあると思います。

くり返しますが、「強い立場」と「弱い立場」は、その時その時のお互いの相対的な力の関係で決まるものであって、決して固定したものではないのです。一般に「弱い立場」と考えられている側が、場合によっては、一時的にではあれ「強い立場」になって相手の「安心・自信・自由」を奪っていることもあるのです。(差別や人権侵害というものが、ラベリング(レッテル張り)によって起きる「固定的なもの」だと考えている人は、残念ながら、このことが理解できません。(人権問題とラベリングの関係については、「偏見やラベリングが差別の原因か」などをご覧ください。)

自己愛は被害者意識を生み、被害者意識は「責任」を感じなくさせる

被害者意識の根底には「自己愛」があります。そして、自分が実際には「強い立場」になっても、その人に被害者意識がある限り、その人の中に「責任」は生まれようがありません。「責任」は自分の「強い立場」を自覚している人が、「弱い立場」の人に対して感じる(感じないではいられない)思いだからです。

ヒトの中に生まれた「責任」の原型

あくまで仮説ですが、われわれ人類の先祖は、おそらく木から降りて森林を離れ、草原で生活するようになった時に、「責任」の原型を身につけました。肉食獣がいる草原に降り立ったヒトは、個体としてはあまりに弱く、ひとりでは生き延びられないため小集団で生活するしかありませんでした。しかし、個体ではなく、小集団での生活を維持するためには、自分より弱い「困っている者(幼児、妊婦、老人、けが人、障害者等)」をほかの者が支え、助けることが必要です。そうしなければ、小集団を安定的に維持することができず、結果として自分を含めてみんなが滅びるからです

このようにしてヒトの中に生まれた「責任」の原型が、やがて発展して、以前noteに書いた「旧人類のネアンデルタール人の遺跡からは、重い身体障害を抱えながら長く生きることができたネアンデルタール人の骨が発見され」たという出来事につながっていくのではないかと思っています。(くわしくは、「人の心は善か悪か ~性善説と性悪説の議論に終止符を打つ~」をご覧ください。)

最初に戻りますが、「困っていれば、だれかが必ず助けてくれる」のが、人の世界です。それは、人の世界がもともと「責任」によって成り立っているからです。

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