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自分の「責任」を無視して力をふるう人たち 〜「正義」から「責任」へ(その4)〜

われわれが生きている現代の世界が、こんなひどいものになってしまっている原因はなんでしょうか。わたしは、それは「強い立場」にいる人、つまり力を持っている人が、自分の「責任」を感じることなく、ただ自分の力を振るっているからだと思います。

力には必ず責任がともなう

このことについて考える前に、まず確認しておかなければならないことがあります。それは、「力には必ず責任がともなう」ということです。くわしくは以前の文章(「力には責任がともなう ~「強い立場」の人たちへ~」)をご覧いただきたいのですが、ひと言で言ってしまえば、力を持っている人、つまり「強い立場」にいる人は、相手を自分の力で動かせる度合いに応じて、動かしている相手(「弱い立場」の人)に対して、必ずそれ相応の「責任」が生じるのです。イメージとしては、物理学における「力の作用に対して必ず反作用が生じる」ようなものです。作用があれば反作用が必ずセットで生じるように、力と「責任」は本来、常にセットなのです

「支配」と「保護」は、同じことの表と裏

たとえば、ヨーロッパ中世において封建領主は、領民に対して生殺与奪の力を一定程度、持っていました。しかし、実際には自分の感情や都合で領民を殺したり、財産を奪ったりすることは、ふつうはしませんし、できませんでした。(これは、日本の戦国大名などを考えてみても、基本的には同じことです。)

なぜ、しないし、できなかったのでしょうか。キリスト教の神を信じていたからでしょうか。キリスト教の神は、あくまで領主が使う表向きの理由です。本当は、人の社会においては、自分より「弱い立場」の者に対して、自分の持っている力を実際に振るう(なにかをする、させる)場合は、必ずその行為に「責任」がともなうからです。つまり、人の社会では、どの時代、どの地域のおいても「弱い立場」の者に対する「支配(力)」と「保護(責任)」は、常にセットであり、同じコインの表と裏のような関係にあるのです。ヨーロッパ中世の封建領主たちは、農奴たちを土地に縛りつけ作物を納めさせるかわりに、敵の侵入から彼らを守り、飢えで死なないように「保護」しなければならなかったのです。それが領主の「責任」だったのです。

自分の「責任」を無視して力をふるう人たち

ところが、現代は見方によっては中世よりもひどい社会になっています。現在の「強い立場」の人たちは、力にともなう自分の「責任」を無視し、ひたすら自分の力を振り回しているからです。その典型が、新自由主義者であり、現在の政治家であり、それに結びついた超富裕層たちです(現在、たった1パーセントの超富裕層が、世界の富の約40パーセントを保有しているのです)。新自由主義者たちは、「弱い立場」の人々への自分の「責任」を無視して、ひたすら自分の利益を追求することが「正しい」「よい」ことであり、そのような「自由競争」によって経済は発展すると主張します。おそらく、人間の歴史の中で、これほど自分の力にともなう「責任」を無視して、自分の利益だけを追求することを「よい」「正しい」と公然と主張した(できた)人間は存在しなかったと思います。

人権侵害は、「義務」の「強制・強要」から生まれる

話を人権に戻しましょう。人権侵害や差別は、「強い立場」の人たちが、自分の「正しさ(こうでなければならない)」にもとづいて、「弱い立場」の人たちに「義務(こうしなければならない)」を「強制・強要」することから生まれます。(くわしくは、前々回の「あなたの「正しさ」は相手を動かせない 〜「正義」から「責任」へ(その2)〜」などをご覧ください。)「弱い立場」の人たちが、強いられた「義務」を嫌々でも受け入れている間は、表向きはなんの問題も生じません。しかし、実際には、いつか必ず問題は起きてきます。なぜなら、強いられた「義務」は、人が生き生きと生きていくためにどうしても必要なものである「安心・自信・自由」を奪うからです。
「安心・自信・自由」を奪われた人は、生きること自体に「つらさ」を感じないではいられません。生きていても、苦しいばかりでうれしくないのです。そのような場合、一部の人々は当然のことながら、強いられた「義務」を果たさなくなります。そのような人に対して「強い立場」の人が自分の持っている力を使って、無理やり「弱い立場」の人に、その「義務」を果たさせようとした時に、人権侵害や差別が起きてきます。

日本では、「人に迷惑をかけるな」が人権侵害を生む

日本においては、「義務」を果たせという命令は、日常的には「人に迷惑をかけるな」という形を取ります。人に迷惑をかけないために、「女性は女性らしく(おとなしく)していろ」、「子どもは子どもらしく(おとなしく)していろ」、「高齢者は、高齢者らしく(おとなしく)していろ」、「在留外国人は在留外国人らしく(おとなしく)していろ」、「障害者は障害者らしく(おとなしく)していろ」というわけです。この「おとなしくしていろ」ということの中身は、要するに「わたし(男性、おとな、若者、日本人、健常者)の言うことに素直に従っていろ」ということにほかなりません。そう考えれば、日本人の大好きな「人に迷惑をかけるな」という言葉の意味は、実は「強い立場にいる『わたし(たち)』に嫌な思いをさせるな」ということだということがわかります。

「正しさ」の論戦は解決をもたらさない

では、「弱い立場」の人たちはどうすればいいのでしょうか。ひとつの方法は、人権尊重や多様性の尊重という「正しさ」にもとづいて、「強い立場」の相手に対して、「あなたは間違っている」と批判し、謝罪と反省を求めることです。しかし、これはまずうまくいきません。そもそも人は自分の「間違い」を認めたがらないからです。それどころか批判されれば、「強い立場」の人(たち)も、必ず自分たちの「正しさ(「人に迷惑をかけるな」、「世の中のあり方に従え」、「そんなことを言うのはあなたのわがままだ」等)」を主張し、双方の「正しさ」はまったく交わる点がないため、このような「正しさ」の論戦はなんの解決(合意)ももたらすことができません

むき出しの力と力の戦いは、さらに深い屈辱と恨みを生む

「正しさ」の論戦が行きづまった時、次に出て来るのはむき出しの力と力の戦いです。お互いに相手が嫌がることをあえてすることによって、相手を困らせ、その主張する「正しさ」を捨てさせようとします。しかし、多くの場合、これでも決着はつきません。「嫌がらせ」をしても、結局は相手の怒りや憎しみを増やすばかりで、相手は反省などしないからです。そればかりか問題はさらにこじれ、お互いの心の溝がどんどん深くなっていきます。

そうなった時、力が大きく優っている方は、最後の手段に出ます。自分の力を使って、相手を脅し(「わたしにこれ以上逆らったら、あなたはもうここではやっていけないよ」)、形だけでも相手に自分の言うことを聞かせるか、それでも言うことを聞かない時は、相手を自分の目の前(自分の所属する組織や団体やグループ等の中)から排除する(「ここでやっていけないようにしてしまう」)ことになります

このような力での排除は、問題を取り返しのつかない深刻なものにします。力で相手を屈服させたり、排除したりすることは、相手に癒やしがたい屈辱を与え、消えることのない恨みを生むからです。

「弱い立場」の人に残された道

では、「つらさ」を味わっている「弱い立場」の人に残された道はないのでしょうか。わたしはひとつあると思います。それは、批判したり、戦ったりするのではなく、「強い立場」にいる人に、まず自分が「強い立場」にいることを思い出させ、さらに「強い立場」や「力」には必ず「責任」がともなうことを自覚させ、その「責任」を果たすことを求めることです。

相手に「責任」を自覚させるためには、「弱い立場」の人が自分たちが味わっている「つらさ」を、相手への批判抜きで、相手に「率直に」伝えることが必要です。(この「率直に」とはどういうことなのかは、次回、取り上げます。)この率直に伝えるべき「つらさ」は、今まで述べてきたような「強い立場」にいる人が、「弱い立場」の人に強いている「義務」や「強制・強要」から生じた「つらさ」だけに限りません。たとえば、災害や事故などによって生じた「つらさ」でも同じことです

「よい行い」は、「責任(そうせずにはいられない)」から生まれる

えっ、それはちょっと変だと思われる方もいらっしゃるかもしれません。しかし、くり返し述べてきたように、「強い立場」の人が自分の「責任(そうせずにはいられない)」を感じるところから「よい行い」は生まれます。その典型的な例は、以前述べたように、孟子が性善説の根拠として述べた「幼い子が目の前で井戸に落ちようとしているのを見れば、誰でもハッと驚いて手を差し伸べて助けようとする」というケースです。この場合、子どもが井戸に落ちようとしているのが、自分のせいであるかどうかは関係ありません。「幼い子が目の前で井戸に落ちようとしている」ことだけで、その人の「責任」は発動する(動き出す)のです。(くわしくは、「人の心は善か悪か ~性善説と性悪説の議論に終止符を打つ~」などをご覧ください。)
わたしがここで言う「責任」は、通常の意味で使われる「自分のしたこと(失敗等)への責任」とは、別物です

「責任」には、思いやりも良心も道徳も神も不要です

わたしが考える「責任」が生まれるための必須の要件は二つだけです。ひとつは、相手(「弱い立場」の人)が「困って、つらい」状況にあるということであり、もうひとつは、相手の「苦しさ、つらさ」を減らす力をその人(「強い立場」の人)が持っているということです。本来、純粋な意味での「責任」には、思いやりも憐れみも同情も共感も愛も反省も良心も道徳も神も不要です。そのような純粋な「責任」によってなされる行為が、わたしは「よい行い」だと考えています。

困っていれば、だれかが必ず助けてくれる

「困っていれば、だれかが必ず助けてくれる」のが、人の世界です。それは、人の世界が本来は「責任」の世界だからです。そのことが信じられなくなった時、人は孤独になり、絶望します。現代というこのひどい世界で、孤独になり、絶望しないために、われわれは人の世界が、本来は「責任」の世界だということを改めて確認する必要があります。そして、くり返しますが、この「責任」には、神も愛も思いやりも不要です。

「責任」は、それを自分で感じない限り、ないのと同じ

「困っていれば、だれかが必ず助けてくれる」と書くと、「そんなのはウソだ。現に、わたしのことをだれも助けてくれない」という反論があると思います。「責任」が生じる要件は、先ほど述べた二つだけですが、「責任」というものは、その人が自分で自分の「責任」を感じない限り、そもそも、ないのと変わりません。実は、自分に「責任」が生じていても、その人が自分の「責任」に気づき、現実に「責任」が発動する(動き出す)には、さらにもう二つほどの条件が必要なのです。(次回、この条件について述べます。)

もうひとつ大事なことは、「責任」はその本来の性質からいって、外側からの力で強制的に「感じさせる」ことはできないということです。そんなことをしたら、それは「責任」ではなく「義務」になってしまいます。「義務」の「強制・強要」は、わたしの考える「責任」の対極にあるものです。

だれの中にも、「責任」は生まれる

いくつかの条件が満たされれば、だれの中にも、「責任」(わかりやすく言ってしまえば、「自分より弱い立場の人が、目の前で困っているのをなんとかしないではいられない思い」)は、必ず生まれます。だからこそ、「困っていれば、だれかが必ず助けてくれる」というのが、人の世界なのです。

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